7
寝間着代わりにしていたジャージの上にそのままコートを羽織り、携帯で深美とつながったまま、私は家を出た。
混乱しているのか、深美の話はなかなか要領を得なかったが、他のことを考えさせないほうがいいと考えて、とにかく深美に喋らせ続けた。
深美によると、こうだ。
たまたまその日は、母親が日本画教室で出かけている日だった。
リビングで携帯を見ていた深美に、父親が後ろから抱きついて身体をまさぐってきた。
夢中で父親の手を振りほどいた深美は、気が付けば家を飛び出していた。父親は酒を飲んでいた。
「110番って警察だからやめたの」
電話口で深美は言った。
「それで、代わりに先生に」
深美は、学校からそう遠くない、片瀬川の遊歩道にいた。
パジャマだけの見るからに寒そうな格好で、ベンチの上に体育座りをして小さく体を縮めて待っていた。
私は、ひとまず深美に自分のコートを着せたのだが、どうしたものかと正直途方に暮れた。
夜中に、家に戻れない少女が一人いる。男で成人の私は、どんな方法でも夜を明かせるだろうが、パジャマ姿の女子中学生には、三月の夜はあまりにも冷たい。
警察は深美が拒否しているので、交番は選択肢にない。ではいったいどうすればいいのか。
「寒い……」
深美が身を寄せてきた。
コートを脱いでいる私も芯から冷え始めていて、じっと立っているのがつらくなってきた。
まず彼女の身体を想ってやるべきだと私は考えた。
「うちに来るか」
私は言った。
このとき下心がなかったことは確かだ。
深美を守ってやりたいという保護欲が強かった。教え子を自分の家に泊めることによるリスクはまるで頭に浮かばなかった。身体だけでなく頭も凍えていたのかもしれない。
アパートに着くと、深美は急にはしゃぎだした。
それまで寒さのためか他の理由のためか震えていたとは思えないような高ぶりようだった。
「汚いねぇ先生の部屋!」
「悪かったね。忙しいんだよ。下に響くから静かにな」
私の部屋は雑然としていて、弁当ゴミの入ったコンビニの袋や、漫画雑誌が、床に無造作に放り出されていた。
布団は敷きっぱなしの煎餅布団で、着替えはその布団のうえに脱いだまま。
まるで使っていないキッチンのシンクはカビと埃だらけ。
ガスコンロは火を点ける前に掃除をしなければ、埃に引火しかねない。
シンクに水を出しながら深美が言う。
「タワシないの?」
「ない。トイレのタワシなら」
「トイレのタワシで流し洗えるわけないでしょ。いらない歯ブラシない?」
「歯ブラシ?」
「歯ブラシ」
「いま使ってる奴、先っぽ広がってたかも……」
私が言い終わるより早く深美は洗面所に押し入り、私の歯ブラシを探し当てた。
「うわ、こんな広がってるじゃん。信じらんない。お口臭くなっちゃうよ」
「おい、勝手に……」
「この歯ブラシ、流し磨くから。新しいの使ってね」
深美はそう宣言して流しに戻ると、歯ブラシでシンクをこすりだす。
「歯ブラシで磨くの?」
「そうだよ。細かいところもこすれるから、便利なんだよ」
私はへえ、と感心した。中学生とは思えないほど生活の知恵が身に付いている。
「まあ掃除なんてほどほどでいいよ、君は休んでいいから。布団敷くから休みなさい」
「流しがきれいになったら寝る。だからきれいにさせて! こんなの許せないよ」
そう訴える深美の口は尖っていて、有無を言わせなかった。これではどっちが先生だか分からない。
深美が流しを洗っている間に、布団を直し、散らかっていた部屋を大急ぎで整理した。
てきぱきとキッチン掃除を始めた深美を見て、自分の部屋の汚らしさに危険を感じたのだ。
何より深刻なことに、隠しているとは言い難い場所にアダルトDVDがしまってある。
布団から少し顔を横に向ければパッケージの背文字は充分見えるし、その中には女子校生ものもある。
狼の巣から逃げてきたらライオンの巣でしたでは洒落にならない。
キッチンにいる深美の目を気にしながら、DVDを雑誌の間に挟んで棚の裏に押し込んだ。
洗い物を終えた深美は、うって変わってまた静かになった。
さっきまでは興奮による一時的な躁状態だったのだろう。
緊張の糸が切れれば、はしゃいだ分の疲れが一気に訪れることになる。
私が布団を示すと、深美は瞼をこすりながらおとなしく潜り込んだ。
布団から顔と手だけ出して訊ねてくる。
「もうちょっとお話していい?」
「いいよ」
「あたしどうすればいい?」
「ん……」
私は唸るだけで答えられなかった。
私が 悩んでいると察したか、深美は話題を変えた。
「先生どこで寝るの?」
「椅子」
「つらくない?」
「平気。先生だから」
「……」
また、しばらく会話がない状態が続いた。
見ると、いつの間にか深美は目を閉じて寝息を立てていた。
私は、押入から予備の毛布を引っぱり出して身体に巻いた。そうして腕組みをして目を閉じた。
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