第四章「準備について」

第四章「準備について」1

数日後。

私と敦は神田に出た。


敦が神田駅近くに倉庫を借り、そこで作業をすることになっていた。

深美は由希子と部屋で留守番をしている。


敦は白のハイエースで迎えにきた。

日暮里から昭和通りへ。秋葉原を過ぎて靖国通りに出て、山手線と中央線が交わる辺りの脇道に向かった。


三階建ての小さなオフィスビルの前で止まる。

「ここの一階だよ。ガレージ兼倉庫になってんだ。イソの名義で借りてある。塗装会社ってことで」


敦はそう言って一階のシャッターを押し上げた。

一階部分が丸ごと倉庫スペースになっているようで、明かりは裸電球だけだが、広さは思ったよりもあった。ちょうど車一台分のスペースがある。


敦は慎重にハンドルをさばき、そのスペースにハイエースを入れた。

「このハイエースは本番で?」

「ああ。他にも二、三台使うと思うけど、工場に入るのはこいつ。今日の作業は、この車へのレタリング」

「レタリング?」


敦は一枚の写真を出した。

「これ、クボキバッテリーの社用車。イソが撮ってきた。両サイドに社名が入っているだろ? それをスプレーで書いてしまおう。ユキが文字の型を作ってくれたから、あとはマスキングしてスプレーするだけさ」


私達は作業を開始した。

表のシャッターを再び閉め、裸電球の下での作業だ。

ビニールシートで車体の大部分を覆う。文字の形にくりぬかれたボール紙をボディ側面に当ててマスキングし、その上からスプレーを噴きつけていく。

換気扇を回していても、スプレーから出る刺激臭が鼻をついた。


作業中は二人とも押し黙って真剣に集中していたが、おおよそ文字の形にスプレーし終わる頃には限界で、一息つきに外に出た。


「順調だな。スノがいると助かる。スノはどんなことでも確実に期待に応えてくれる」

敦の賛辞がむずがゆかった。私はただスプレーを噴いただけで、特別なことは何もしていない。


「俺のことより、他の準備はどうなってるの?」

「車はこれも含めて必要な分は確保済み。すべてイソの名義で、予算は俺が出している。カメラとかモデルガンの買出しは、そろそろやろうと思ってる。あとは……深美ちゃんのパソコン学習も順調なんだろ?」

「勉強続けてるよ。覚えがいいから問題ないと思う」


「イソは退職願そろそろ出す。俺とユキは資金源だからまだしばらく働くけどな」

「決行日は決めた?」

「イソが会社で来月の友善元素のスケジュールを入手予定だから、そのスケジュール次第で決まる。多分、来月頭」


「驚いた。四月か。あっという間じゃないか」

「ああ。準備と決行には時間差がないほうがいい。こういうことは、夢みて浮かれているような勢いがあるうちにやらないとダメだ。時間を空けて熱が冷めると、ためらいや恐れが生まれる。酔っぱらいなら歩けるような危ない場所も、しらふじゃ歩けないだろ」


「じゃあ、準備は順調と考えていいんだな?」

「ああ。今のところ予定通り。問題ない」

「ならいいけど。敦は全体像を見渡してやっているから心配ないんだろうけど、俺達は計画の全体像を知らない。本当にこれで行けるかって、不安になってくるもんだよ」


「高校の文化祭思い出すな。スノに同じことを言われたおぼえがある」

「敦は昔からそうだから。俺らには考えが及びもつかないようなことを考えている。だから敦が自信満々でも、俺らは不安になる。敦に見えているものは、俺らには見えていない」

「そんなもんかぁ?」


「そう疑問に感じる時点でさ、俺らとは視線の高さが違うんだよ。敦は俺達みたいな負け組と一緒にいるべき人間じゃないのに。なぜだい? なんでこんなことをやろうと思って、俺達なんかと一緒にいようとするんだい?」


「なぜって……」

敦は本当に心外そうな顔をした。

「そうしたいからだよ。他に何がある?」


「よく分からないな。俺には敦が自分から泥沼にはまっているように思える。乾いた地面を歩いていられるのに、わざわざ泥に落ちてもがいて。レベルを下げなくていいのに下げている」


敦の口調が乱暴になった。

「レベルとかそんな言い方すんなよ。俺は昔から変わってない。自分がいたい場所を選んで、自分がやりたいことをやってるだけだ。スノこそ、レベルなんて考え方してたか? スノの考え方がよっぽど変わったんじゃないのか?」


私は考えた。高校生の頃、敦と同じ学校、同じクラス、同じ学園祭の準備。そんな時間を。

「昔は、そうだな。さかのぼればさかのぼるほど、考えてないなそういうことは。同じだったよな、みんな。中学生、小学生、幼稚園。小さい頃ほど差なんてない。みんな同じ一人の人間として価値をみてもらえていた気がするな。成長すればするだけ、どんどんレベル分けされていく。人間としての価値じゃなく、その人の成績やら順位やら点数、地位や資産で見られるようになってくる。俺も、教師なんてやっていたくせにそういう考え方がすっかり当たり前に染みついているね。なんか、すごい昔のことみたいだけど敦と会った頃、高校の頃、そこまでレベル分けで人間を見ていたか? いや、とにかく夢中で毎日生きてた。敦の言うとおり、楽しいところにいる、それが毎日で。でもどこかで、人は序列化されるものなんだと気付きはじめている自分もいたかもしれない」


敦はため息とも嘲笑ともつかない微妙な息を漏らした。建物の中に戻ろうとしながら、ぽつりと言う。

「あの頃に戻りたいんだよ」


「えっ?」

敦は塗料臭い倉庫内に戻ってしまった。

私が後を追って倉庫に入ると、壁にもたれてハイエースの車体を見ていた。


「いつから俺はこうなったんだろうって考えるときがある」

私に話しかけているのか、独り言なのか。どちらともつかなかった。敦自身にも分かっていなかったかもしれない。


「俺だってさ、何も先のことなんか考えないで、なんでも出来ると思ってた頃があった。高校の途中までだな。それからは、もうそんなことはなくて。人生は無限の可能性なんてことは信じられなくなって。色々なことを分かり過ぎて、考えれば考えるほど生きている根本の意味に答えが出なくなった。なあ、お前がクビになって悔しいのはお前だけじゃないんだよ、スノ。俺も悔しいんだ。お前がクビになるって聞いて、世の中にムカついたぞ。昔の俺を見てる気がした」

「昔の敦?」


「真面目に何かをやろうとしただけなんだよな。でもそれが裏目に出る。大学中退だよ。理由、誰にも話したことがないけど。せっかくだし聞いてみる?」

あまりにもフランクに訊ねてきたので、私はついうなずいた。


「勘当されたんだよ。実家の寺に追い出された。俺はお寺の息子だったのに、日曜教会に通ってたからね」

「教会に? それは初耳だな、なんで?」

「なんでって……神様に会いたかったからだよ」

「はあ。お寺にいるんじゃないの? あ、お寺は仏様か」


「はは、そういう意味じゃないよ。どこの寺だってそうだけど、商売抜きじゃやっていけないんだ。それが、俺には納得できなくてさ。おみくじ一個だって俺個人としちゃ許せない。お布施もお賽銭も信仰心があってのもので、先に商売が出てくるっていうのは正当化できない。汚く感じるんだよ。俺はそんなんじゃなくて本当に神様仏様に会いたかった。それでさ、他の宗教のことも知りたくなって、こっそり教会通いして。べつにクリスチャンになるつもりはなかった。ただ色々なものを見たかったんだよ。けどそれがバレて勘当されたわけ。仏様もそこまで心は広くなかったってね」


「新興宗教は?」

「カネが先に来るとこばっかじゃないか。だから興味湧かなかった。でもあのまま続けてればあちこち入ったかもな。お試しのつもりでって自分には言い聞かせてるけど、結局は真実が知りたかったんだろう。絶対的な世のことわりのようなものがあるのかどうか。でも家追い出されて、結果としては宗教なんてなくても答えが出たけどな」


「答え? それが中退の理由?」

「たぶん。もう少しあのときの自分は混乱してたけど、結局はそういうことだ。根本はさ、もう大学なんかにいる場合じゃないと思ったからなんだよ。大学って場所を出て見回してみたら、俺は今までそんな場所にいて何を時間を無駄にしていたんだろう、ってな。世の中はおかしいことだらけじゃないか。まっすぐな信念があったって、邪魔になることのほうが多い。適当に手を抜いたり、気を抜いたりのほうがうまく生き残る。正論振りかざす奴は、現実を見てないって言われて疎んじられる。悪いことやってた奴がいいことをすると美談になる。いいことやってた奴はいいことやっても当たり前だから何も評価されない。そんなものなのかもしれない。でも俺はどうしても納得できないんだな。不器用に、全力で、まっすぐに生きちゃ何故いけないんだ?」


「そうやろうとすれば、現実にぶち当たる。だからどこかで折れるんだよ。世の中そういうものだ」

「そうだよ。それが現実だ。スノ、教師はずっとお前の夢だっただろ? それがこんな終わり方でいいのか? お前、人間として間違ったことしたか? 人間として間違ってないことをしても、それが教師としては失格、そんなバカな話があるか。教師だって教師である前に人間だろうよ」


「それは、敦と同じさ。俺が目指す教育が今の学校にはなかった、それだけのことだよ。どこかには俺がクビにならないで済んだ学校があるかもしれない。ないとしても、学校はいつかはそういうものになっていくかもしれない。ただ俺の運がなかっただけだろうと思うよ。ちょっとハズレ者になっちまったってこと」


「だから、それがおかしいんだよ。道理にかなった当たり前のことをまっすぐにしようとするとハズレ者になるじゃないか。心の病気って増えてるんだろ、最近。異常犯罪者とかもそうだけどさ、どうしてそういう人達がイレギュラーだって考えるんだろうな?」


「どういうこと? 確かに俺は、俺のようなパターンと、マジで中学生に手を出しちゃうパターンで、そこまで決定的な差があるとは思えない。ほんのちょっとスイッチの入れ方が違うだけなんだと思う。でも、それがイレギュラーじゃないっていうのは?」


「つまり。病気になったり犯罪に走る人がおかしいんじゃなくて、そうならないでいられる人のほうがおかしいんじゃないのか、って。生物は突然変異を起こして環境に適応したものが生き残って進化してきたんだろ? でも一匹の突然変異じゃ生き残ることは出来ない。最初は少数派だった突然変異もいつの間にか多数派になって入れ替わっていく。ホントはどうだったか知らないけどさ。ま、でも人間は同じ進化の道をたどってきたはずだろう? 人間が進化の頂点で、人間はこれ以上進化しないって考えるのはナンセンスだ。環境が変われば人間だって変わっていくだろうさ」


「異常犯罪は、進化のための突然変異だって、そんなトンデモを言いたいのか?」

「そこまで断言はしないけどね。こんな世の中で、いろんな矛盾があって、それを見て見ぬふりでいないと人間は生きられない。でもそれに耐えられなくなる人が出る。耐えられるほうがよっぽど人間としてはおかしいんじゃないのか?」

「……」


「常識じゃ考えらんない事件が増えてるって言うだろ? でさ、そういう事件って、異常な犯罪って片付けられる。でもさ、異常っていうのは社会的な要請に基づく価値判断があるわけじゃん。プラスかマイナスかっていう」

「そりゃそうだけど、でもたとえば極端な話、人殺しは絶対悪だろ」

「そんなことはない。殺した人間が、もっと人を殺す人間だったら? アドルフ・ヒトラーをユダヤ人が暗殺したら? そのユダヤ人の行為は悪なのか?」


「それは……」

「ほら、価値判断しようとしてる。価値判断を抜きにすれば、異常犯罪というのが、本当に異常犯罪なのかどうか、誰にもわからないはずだ。異常犯罪なんて、人間のあり方の問題だから、いつの時代でも不変な定義じゃないんだよ。あくまでも、そのときどきの世の中に相容れないものがある、ただそれだけのことだ。これから異常犯罪が増え続けていけば、いつか逆転するかもしれないぜ? 犯罪をしないヤツのほうがおかしい社会に」


「そんなはずはない」

「そんなはずはないと誰だって思うだろうけど、現実にある時代には、間引きや姥捨てという形で、殺人は社会に認められていた。今は、姥捨てや安楽死や間引きは犯罪とみなされる。でも妊娠中絶は? 形態と言い訳が変わっただけで、生物学的に生まれてくるべきだった命を、社会的な理由で抹殺していることには何も違いがない」


「でも、妊娠中絶は……」

「中絶を是とするか非とするか、それは社会的な価値判断だろう? いつから人は生命になるのか? 真理は? 少なくとも俺は知らない。宗教によっては、中絶は立派な殺人だ。犯罪を犯罪たらしめているのは社会だ。社会が是としなければどんな行為も犯罪になる。社会が是とすればどんな行為も犯罪にならない」


「俺達のやろうとしていることは犯罪ではないと?」

「そうは言わない。俺達のやることが正しいと独善的に言うつもりはない。テロと犯罪の境界はそのへんだと思うよ。絶対的に自分達の思想と行為が正しいと思う政治的な暴力がテロだろ? でもまあ、俺達がテロリストと言われてもかまわないね。人からどう見られるかなんてどうでもいい話だよ。人からどう見られるか、じゃない。俺達が今何をしたいか、何を言いたいのか、だ。……そうだろ?」


私は黙ってしまった。

敦との議論はそこで終わった。

会話としては終わったが、私は敦の考えをそれからしばらく吟味していた。


自分が、戻れないところに来ていることはよくわかっていた。

正しいか正しくないかは、このときの私にとって確かに問題ではない。

私にとって問題なのは、敦とやるこの計画を成功させることだった。


そう再認識したせいだろうか。その晩、私と由希子は衝突した。

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