夜は深まっていく。

振り返ればこの夜は私達にとって、いや私にとってか? 決定的な一夜だった。


敦が去った後、私は終わった学習会の資料整理と、残りの日程で準備をしなければならない計画のチェックに専念していた。


祐二は別室に入ってTVの画面に向かってゲームをやり始めていて、すっかりはまっている様子。


女性陣の由希子と深美は、順にシャワーを浴びてすでに別室で着替えまで済ませていた。

どうも由希子と深美があまり親しそうにしていない気配を私は感じた。それがこの夜の違和感の端緒だった。


二人はシャワーの順番を巡って奇妙な駆け引きをしたようだった。

何度かシャワールームのほうで言葉を交わし、行ったり来たりをし、やがて深美が先にシャワーに入った。


そうすると由希子は、私が作業をしているリビングに戻ってきた。

ふと見ると、洗面所でメイクを落としてきたようで、普段は化粧で強めに見えていた表情が急に穏やかになっていた。


つい見とれてしまっていたようで、その間に手が止まっていた。そんな私の様子は見えていたはずで、由希子がどんな反応をするかと思ったが、何もしない。ただ私のほうを見ていた。


私は気まずさを感じて目を逸らし、また作業を続ける。

向こうの部屋からは祐二のゲームの音が聞こえ続けている。


横目で由希子の様子を伺うと、先ほどと変わっていない。楽な姿勢で私のほうを見ていた。他に何もしていないのだ。


私は首を傾げながら作業に集中を戻す。

しかし、一度気になり始めるとそう簡単には頭を離れない。


結局、深美がシャワーから出てくるまで、私は由希子の視線をずっと気にして、ロクに集中も出来ないまま作業を続けるしかなかった。


深美が出てくると、やっと由希子がシャワーに向かった。

深美はパジャマに着替えて出てくると、しばらくウロウロとしていたが、やがてゲームの音を聞きつけたか、祐二のいる部屋に入っていった。


由希子がいなくなり、祐二と深美も別の部屋へ。私は一人リビングで作業を続けることになった。


不思議なもので、姿が見えなくなると、深美のことはあまり気にならなくなっていた。先ほどまで感じていた澱のような不快感は薄れていた。


いっぽう私を落ち着かなくさせているのは、由希子の言動だった。

せっかく由希子の視線がなくなっても、彼女の動きの意図をあれこれ考え、相変わらずどうにも落ち着かなかった。


静かに苛立ちながら作業を進めていたが、気が付くと由希子が部屋に戻ってきていた。

由希子は私のそばにやってきて、クッションを抱えて座り込んだ。

つい手を止めてそちらを見て、私は首を傾げた。


少し上気した顔で私を見ていた。不思議な表情をしていた。

私に何か言いたいことがあるようで、その瞳がじっと私を見ていた。


「……何?」

私は戸惑い半分に訊ねた。


「スノとは一回たくさん話してみたかった。スノと二人で話せることってあまりないから」

「俺と話すことなんてあるの?」


例の一件で、由希子には愛想を尽かされているか相手にされなくなっているか、少なくとも興味は抱かれていないだろうと思っていた。それで私はついそんな言い方をした。


「あるよたくさん。スノのこと知りたいもん」

私は思わず由希子をまともに見た。

私自身、敦から由希子とのことを聞かされて以来、彼女に興味があったことは確かだった。


しかし直球を由希子のような美人から投げられるとやはりどきりとする。


「俺は、ただの出来損ない教師だよ。教え子の一人もまともに守れない」

「そうかなあ。なかなか出来ないことだよ」


由希子に褒められるとどうもむずがゆく、否定したくなった。

「それに、この前のことでもわかったと思うけど、俺は頑固で、敦の提灯持ちみたいなもんで……」


由希子が顔を近づけてきた。

「ねえ」

私は少し顔を遠ざける。由希子はすっぴんでも十分に整った顔立ちをしていて、まっすぐに見ると気恥ずかしくなるのだ。


「なんか、無理して自分のこと悪く言ってない? あたしにはそうは思えないんだけどな。あたしこんなバカだけどキャバもそうだしいろんなとこで客見てきてるから、これでもなんとなくね、人の本質みたいなヤツが結構分かるの。ってあたしの仕事とか敦から聞いたことあるっしょ?」

私は慎重にうなずいた。


「あたし、この人は本当に信用できると思った人にしか真面目な話はしないヨ。スノは信用できると思った。敦とは違うタイプ」

「敦が信用できないという意味?」

「ううん、そうじゃないけど。敦はちょっと、うまく言えないけど、憧れなのかな。好きか嫌いかで言ったら好きだけど、私なんかじゃ考えもつかないようなことを考えてて、別世界の人みたいに感じることがある」

「うん……それはなんとなくわかるかも」


「あたしさー、苦しいんだ」

由希子は目を伏せた。

「苦しい? 何が?」


「敦にとってあたしはなんなんだろうって。そーゆーの考え出すと胸痛い」

私ははっと息をのんだ。


敦が由希子をどう見ているか、聞いたばかりだ。

敦は由希子のことを性的対象として見ている。根底はそうだ。


由希子自身もそれを感じ取っているのか。私は由希子が続ける言葉を待った。


「ホントはわかってんだ、自分でも。敦みたいに頭いいヤツはね、あたしみたいなバカは本気じゃ相手にしないんだ。どれだけ近づいてもね、敦が本心何考えてんのかはやっぱりよく分かんなくてさ、それがなんか寂しいかな。敦には恩返しって気持ちがあるから、それでも、いい。それでもいいけど、でもやっぱり…ときどき、とにかく寂しくなるときがあって。おっかしいと思わない? 彼氏いるのにさ」


「いや、それは……分かる気がする。男の俺から見ても敦は魅力的で、いい男だから、逆に近寄りがたいっていうか……ある種の冷たさのような感じを受けるときもある。そっか……カノジョでもそういう感じを受けるんだ」

「違う。あたしは出来ればずっと敦のカノジョにしてほしいと思ってるけど、敦はたぶんそうは思ってない」


「そうなのかなあ、俺にはどう見ても恋人同士に見えた」

「本当? スノにはそれを訊いてみたかったの。あたしと敦はどう見えてるのか。敦のことをよく知ってるスノに聞いてみたかった」

そう言って由希子は唇を歪めた。


このときでも私には、敦と由希子はお似合いだと見えていたが、違和感をおぼえ始めていたことも事実だ。由希子は私よりもっと敦の近くにいたのだ。何かを感じたようだった。


「口では身体目的みたいに言ってても、敦はそんな言葉通りには思ってないと思う。やっぱり、君のことは大事だと思ってるはずだけどな」

「ふふ」

由希子が何とも言えない笑みを浮かべた。


「ね。スノは本当にいい人なんだね、人の心を気遣ってさ。だから敦があなたには勝てないって言うんだ」

「別に……気遣ったつもりじゃ」

「いいの。敦はもうあたしを求めてはいない。一瞬、身体を求めるときだけ。でも、それでいいとも思ってた。あたしは敦に守ってもらうから、あたしが敦にも力を貸してあげる。あたしが敦を必要だから、敦にはどんな形でもいいから、声をかけてほしくて。スノには分からないかもしれない。男の人には。女はね、急にわけわかんない不安になることがあるんだよ」


「それは……つまり……月のものとかそういうこと?」

「それもなくはないけど、もっとね、切なくて抑えきれなくて」


「うーん……男が、女なら誰でもいいって思うエロい瞬間があるようなもんなのかな」

「わかんないけど。そんなにストレートに求めるっていうよりは、抱きしめてほしいって感じ。あたしのそばにいてほしいって思うの。敦にも、あたしから離れないでそばにいてほしいって思う。敦があたしのことなんて眼中にないんだとしても。敦はあたしのこと、彼女じゃないっていつも言ってるし、最近はコレでしょ」

と由希子は床を指す。計画のことを言っているのだろう。


「このことが始まってから敦はカタいのよね。もっと好きにしてほしいのに。スノがうらやましい。敦はもうあたしを守ってくれない。スノのほうが大事なんだよ。敦がゲイだとは思わないけど、でも、女より友情に生きるみたいなところ、ない?」


私はうなずいた。

「それは分かる。敦は自分を戒めるタイプだ。今は計画に集中しているのかもしれない」


「あのね、これあたしの勝手な思い込みかもしれないけど、今の敦は彼女に向ける余裕がないみたい。ぬくもりがない。正直、ちょっと病んでるんじゃないかなって思うのよね」

「そこまででは……到底そうは思えないけど」

と私はつぶやいたが、私が少なからず感じていた敦の弱さのようなものを、違った形で由希子も感じていたのだ、とこのとき気付いた。

孤独な天才、と言葉が頭に浮かんだ。

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