その日私がマンションに戻ると、深美がいなくなっていた。


最初はいたずらで隠れでもしているのかと思ったのだが、どの部屋を覗いてもいない。


私が出かけるときには深美はいつものように携帯ゲーム機で遊んでいた。

コンビニに買い物にでも出たのだろうか。

しかしそんな行為の危険性は散々言い聞かせてあり、頭のいい深美はわざわざそんなリスクを冒すとは思えない。


では、深美の両親なり警察なりに、ついにこの場所がバレて連れ戻されたか。

そうなると計画も破綻だろう。敦の足を引っ張ったことになる。


息を大きく吸って気を落ち着かせてから、室内を見回した。

特に変わった様子はない。

ガサ入れのようなことがあったり暴れたりという雰囲気はなく、落ち着いた部屋に見える。


テーブルの雑誌の陰に携帯電話があった。

深美が家から持ってきた携帯電話はとっくに処分していた。敦が計画用に与えたほうの携帯電話だ。


これを忘れてどこかに行ったので、私への連絡も出来ない状態なのだろう。忘れるほど慌てることがあったのか、それともたまたまなのか。


私は苛立ちながらソファに腰を下ろした。

待ってみるしかなかった。居ても立ってもいられず外に探し回りにいきたかったが、いつ深美がここに戻ってくるとも限らない。入れ違いは困る。


何度か 私は立ち上がり、室内を探し回った。

そのたびに何も痕跡がないことを再確認し、またいらいらしながら座る。

深美が行方をくらましただけのことでこんなにも落ち着かず混乱している自分に困惑した。


この待ち時間は相当に堪えたが、実際は一時間も経っていなかったはずだ。

玄関ドアが開く音がした。


一瞬、聞き間違えかとぼうっとしてから、間違いなくこの部屋の音だと認識が訪れた。


私は立ち上がりかけたが、それより早くリビングのドアが開いて深美が入ってきた。続いて由希子。


私は目を剥いた。まるで大きな由希子と小さな由希子が連れだって入ってきたように見えたのだ。

深美の雰囲気はこの部屋にいつもいたときとは少し変わっていた。


それがまるで由希子が二人いたように見えた原因であったが、髪型に変化があり、化粧をしているのだった。

とても中学生には見えない。

少なくとも高校生。少し童顔な二十代にも見える。

私は緊張したし、このときはじめて、明らかに性的な視線で深美を見たことを自覚した。


二人ともショッピングバッグを両手に持ち、どこかに買い物に行って来たことは一目瞭然。

「ただいまー」

深美と由希子は声を揃えて明るく言う。


私は事態がよく飲み込めていなかった。

いや、何が起きたのかすぐに推測は出来たのだが、そんなことはあり得ないという思いの方が強かったのだ。


深美の外出。

私のなかでそれはあり得ないことだった。

自分が外出することが計画を危うくする可能性があると深美は理解していたはずだ。


自然に私の眼は由希子に向けられた。

「先生ー、今日ね、由希子さんにいっぱい連れてってもらった」

深美が満面の笑顔で話しかけてくる。


「どこに?」

私の声は自然に詰問調になった。

敏感な深美は察して急に小声になる。

「どこって……渋谷のマルキュウとか原宿のぉー」


私は息を大きく吸い込んだ。鼻孔が膨らむ。

「どうやって?」

「え? 由希子さんの車で……」


「なんで外に出たの? 外に出ちゃダメだってあれほど言っただろ?」

「え、だって、いいっていうから……」


私は体ごと由希子に向きなおった。

「どういうこと? 敦がOKしたの?」

「敦? ううん、別に」


「じゃあどうして? 高橋君を外に出したらやばいじゃないか。見つかったら全部パーになるだろ?」

「大丈夫だよ、私の車でいったんだし。帽子かぶってたよ?」

悪びれる様子がない由希子に私は一層いらだった。


「そういう細かいことを言ってるんじゃないだろ」

「じゃあなんなのよ?」

由希子の声もとげとげしさを増したのが分かった。

だがこのときの私は引き下がる気も妥協する気もまったくなかった。


「勝手なことを。計画が潰れるようなことは許さない」

「計画計画って。計画より大事なことがあるじゃない」

「何言ってんだ? 計画が最優先だろ」


「馬鹿じゃない。私達そこまで計画にゾッコンになる気なんてないから。買い物ぐらい好きにするからね」

「敦がそんなこと許さない」


「スノは敦じゃないでしょ。スノさぁ、深美ちゃんのこと考えたことある?」

「いつでも考えてる。だからここにいるんじゃないか」

「そういうことじゃなくて。深美ちゃんが可愛くなったらうれしいでしょ?」

「そういう問題じゃないだろ? 話を混ぜるなよ」


今になってから振り返ると、本当に私は計画のことで腹を立てていたのか疑わしい。


このときの私の苛立ちの理由は、おかしな嫉妬だったのだろう。

自分で否定していたとはいえ、深美に対しては保護以上の感情を抱いていた。

さらに、閉鎖的な同居を続けるうちに精神的にも閉塞感に支配され、深美に対して独占欲を感じていたようだ。

男であろうと女であろうと、私が思うとおりの深美でいることを阻害するものは気に入らなかった。


もっとも、落ち着いた今の心境だからこそそう客観化して振り返ることが出来るのであり、このときの私はすべてに苛立ち混乱していた。

深美を勝手に連れ出した由希子にも、私の言いつけよりそれを優先した深美にも、可愛らしさを増した深美に性欲を感じた自分自身にも。


「とにかく敦に話す。判断は敦に任せる」

「あ、そ。先生に言ってやろって、小学生みたいね。先生だったくせに」

由希子のすねたような顔が印象的だった。


さらにその次に由希子が言った言葉も思いがけないもので、私を余計に困惑させた。

「この子守ろうとしたって聞いてカッコいいなって思ったのに。あんたも敦と同じタイプなの?」

「え?」


「とにかく深美ちゃんは戻したから。今日もう話したくない。帰る」

由希子は去った。

私は、由希子の捨てぜりふも理解できないまま取り残され、落ち着かない気分でとにかく深美を探した。


深美は隣の部屋に移っていて、ソファにうつぶせていた。

「今度から、外に出るときは俺か敦に必ず相談するんだよ。心配した」


そう声をかけて、私は深美の反応をそれ以上気にしなかった。

由希子がいなくなったことで一段落のつもりになっていたのか。


私は浅はかだったのだ。

このときの私と由希子のやりとりを、深美のように賢い子が聴いていなかったはずはない。

そうして何を感じたのか、まったく察していなかった。


誰もが複雑で繊細な心を持っていることを、知識でしか知らない。

それが本当にどういう意味を持っているのか、分かっていやしなかった。

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