その夜、由希子は戻って来ず、差し入れ当番の敦が先にやってきた。


人間の怒りは一定時間以上持続することがないそうだ。

その頃には私も冷静さを取り戻していて、由希子について密告まがいのことをするつもりはなくなっていた。

由希子がやったことは私の気に入らない行動であったが、敦に伝えるような問題には思えなくなっていたのだ。


しかし、由希子に対する疑問は残っていた。

私が考え込んでいると敦が声をかけてきた。


「どうしたスノ?」

「よく分からないことがあるんだよ。敦に訊いてみたい」

「なんだ?」


「敦には高校の頃からたくさん借りがあるし、友達だと俺は思ってるから、敦が何をやるのでも手を貸そうと今は思ってる。俺だけじゃなくて、イソも敦に心酔してるみたいだし、こう言っちゃ悪いけど、いままでいいことがなさそうな感じだから、手を貸してくれてもおかしくはないと思う。高橋君も、逆に子どもだからこそ、俺達がやることにはついてくるだろうよ」

「それで?」


「ユキが分からないんだ。あれだけ美人で何も困ってないように見えて。でもこう言っちゃ悪いけど見かけより頭はよさそうだ。世の中でやっていいことと悪いことぐらいは分かるはずで」

「何を言いたい?」


「つまり、彼女は自分に不利益になるようなことはしないタイプだと思えて。ちょっとした悪さ、軽い気持ちの犯罪ならするかもしれない。でも、こんなでかいヤマに手を貸してくれるのはなぜだろう? 敦の恋人だからか? お前に惚れてるから?」


「そうならいいな。俺の考えに共感してくれてるならもっといいな」

敦はとぼけた口調で言う。


「敦」

「うん? そうかスノ。真面目な話なんだな?」

私はうなずく。


「どうも気になる、ユキは」

「何かあったか?」

「まあ、うん、少し」


「何が気になる?」

「うまく言えない。昔風に言うなら、不穏分子。いやそこまでという感じではないんだけど、なんていうか、ちょっと違うんだよ。俺やイソと」

「男と女だからな。凸凹が違う」

「茶化すなよ。真面目な話だっての」


「つまりスノはこう言いたいわけか? 俺はユキに個人的な感情で接しているが、ユキはチームワークを乱すようなことをしている、計画のほころびになりうると」

「え、う、ああ。まあ、そういうことだけど」

敦があっさり言い当てたので、拍子抜けしてかえって戸惑った。


「スノがそう言うなら、きっとそうなんだろう。スノの判断なら俺は信じられる、スノは俺のお目付役だからな」

「え?」

また思ってもいなかった言葉が飛び出してきた。


「俺はね、正論吐きだから。ああその通りだね筋は通ってるねって考え方で行動してきたし、その価値観を他人に押しつけてきた。だから俺はすぐに人とぶつかるし、それでも曲がらずに押し通そうとして生きてきた。そうやって俺がやりすぎてるときに引き留めたり緩衝剤になってくれるのは、いつもお前だった」

敦が私を評価することを言うとは、それまで考えたこともなかった。敦は私にとって尊敬の対象で、スーパーマンだった。


「ユキに、俺達と完全には相容れない何かがあるのは分かってるんだよ。きっと、あいつの人間不信のせいなんだろうと思う。あいつ、一歩下がって身構えて人をみているんだよ」

「人間不信? 彼女が? 水商売なのに?」


「疑うのは分かる。キャバクラで働く女の子なんて、カネさえくれれば誰にでも尻尾振りそうだもんな」

「いや、そこまでは……」


「ヒッヒ、スノは優しいね。でも逆だぜ、カネで判断するからかえって人間そのものは信用しないんだ。風俗嬢ってそんなもんだよ。それにユキは確かにカネで動く女だな。俺も、あいつをカネで買ったようなもんだし」

「!」


私の反応が強かったのだろう、敦がひきつった笑いをした。

「誤解を恐れずに言えば、だよ。俺だってキャバクラも行くし風俗も行く」


「それは……ちょっと意外だよ。敦はそんなところにお金を使うタイプとは思えない」

「俺は浮気性だからさ。浮気しておかしなことになるぐらいなら、最初から後腐れない商売女で遊ぶほうがいい。失敗から学んだ経験ってところ」


「そうなのか? そりゃあ高校のときもモテたけど、失敗することなんてあるの? 俺からみればうらやましかったのに」

「どうも、ね。嫌いになったわけじゃなくても、どんどん他の女を試したくなるんだよ。正直、頭おかしいのかもしれないけど、世の中の出来るだけたくさんの女を試してみたい、味わってみたい。そう思うときがある」

英雄色を好む、という言葉が頭をよぎった。


「でもさ、スノもモテたんだぜ? お前、静かで落ち着いてて、勉強教えるのうまかったしな。俺さ、スノを好きってコ結構知ってたよ」

「え、そうなの? まさか。たとえば?」


「んー、たとえばなぁ……。勝屋とか」

「うげ、マジ?」

「マジ」

「しまった……。狙うことも考えたことがなかった。なんか損した気分だ」

「はは。ほら、スノも女好きだ」


「いや、これは、そういうもんだろ。昔の同級生で自分のこと好きだった子のことなんて知ったら、タイムマシンがほしくなるだろ? 俺の周りに女の子なんて集まったためしがなかったのに。敦の周りばっかりだったじゃないか」


「だからそれは、逆も多かったの。俺とスノはいっつも一緒にいたから、俺のとこにくるコの友達はスノと話がしたかったりな。遠藤とか星野もたぶんスノが気になってたと思う」

「うお、そうだったんだ……。ちぇっ」


「損してるよスノ、お前は。鈍いんだよ。まあそういうとこ俺は尊敬してるけど。ブッダはきっとお前みたいな人だったんだろう」

「そんなことあるか。ブッダは敦だよ」


また敦が苦笑した。

「俺はただの女好きなオスだってば。あのな、ユキの場合さ、俺は自分が担当してたコに手出したんだぜ。俺、キャバの黒服やってたことあるんだけど、知ってたっけ?」

「それは聞いたことある。でも、黒服がキャバ嬢に手出すのって御法度じゃないの?」


「そう。だから苦労したよ。そういう情報回るの早いから、辞めるタイミングうまくずらして。俺は業界抜けたし、ユキも他の店に移してさ」


私は唖然と聞くばかりだった。そこには私の知らない敦がいた。

「ユキな、あいつがなんでキャバにいるか、分かるか?」

「いや」


「これだよ」

敦は指でわっかを作る。

「借金漬けなんだよ。あの頃で二百万ぐらいだったかな。借金返しに水商売に来たんだ」

「へぇ」


「それを俺が債務整理させて、ヤミ金の分は消したんだよ。残ったのが銀行とクレジットカードのローン。その分と、法律事務所の相談料は俺が払った」

「払ったって、簡単に言うなあ。いくら?」


「んー? 合わせたら百万は行ってるんじゃないか?」

「よくそんなカネがポンと出たな」

「まあ、ね。俺はちょっと、貯めるつもりで色々カネ稼いでたから。それに、あえてスノが嫌いな表現を使えば、それでユキを買ったつもりもあった」

「買った?」


「そう。あれだけの女だぜ? チャンスがあるなら一生に一回でいいから抱いてみたいと思ってね」

私は眉をひそめた。私も風俗ぐらい行くことはある。女を買うことが悪いと単純に言うつもりはない。

だが、敦にはそうして欲しくなかった。女の身体にカネを使う敦は、私が知らない敦だった。

「イヤな男だと思っただろ」

「ん……ちょっと」


「控えめだな。まあスノが俺をどう神格化してたのかは知らないけど、俺はこういう人間なんだ。それにな、ユキにはそのほうがよかったんだよ。下心丸出しの男のほうが分かりやすくてな。目的がはっきりしてるだろ」


「どうして人間不信に? 正直、そういう風にあまり見えないんだけど。性格きつめな感じだし」

「気を張ってるだけだ。躁鬱があるんだよ」

「躁鬱? そんな雰囲気も感じないけど……」


「前はひどかった。人間不信だって全部そこから来てるんだ。俺が面倒みてるからカネも不自由しなくなって、今は何でも買えてストレス解消し放題だから。確かに治まってきてると思う」


敦の言葉を聞いた私は、由希子は買い物依存症の気もあるのではないかと疑った。

深美にかまうのも、借金が出来てしまったのも、そんなところに原因があるのかもしれない。


「ヤミ金は悪魔だぜ。悪魔は魂の代わりにカネ貸すけど、あいつらは魂じゃなくても人生を奪えるんだ。ヤミ金に人を追い込むのは銀行とカード会社だから、そういう意味じゃそいつらのほうがもっと陰険だけど。ユキも、はじめは銀行のカードローンだったんだよ。よくCMやってるヤツな。まだ返せるまだ返せると思って買い物しすぎて、今度は消費者金融で借りてね。最後はヤミ金さ。んでもう普通の仕事じゃ返せないから、水商売に転職」


「キャバクラの前は?」

「派遣だよ。コールセンターがいちばん長かったとさ」

「コールセンターねえ。そう言われると声とかきれいかな?」


急に敦が私を憐れんだような目で見たのが印象的だった。

「スノ。学校の先生はさ、コールセンターの仕事も、客商売も、実態がどんなものかなんて知らないだろうな」


「詳しく分かるかといわれれば、まあ、そうだね。コールセンターって、あれだろ? マイクみたいなのをつけて電話してる」

「ヘッドセットっていうんだよ。コールセンターってな、コマーシャルなんかじゃ笑顔でニコニコみたいな演出してるけど、中身はひどいもんだぜ。精神年齢が幼稚園児なバカとクレーマーの相手を最前線でやらされ続けるんだ。そのくせ相手がどんなバカでも変人でもこっちは会社の代表者だから反撃できない。理不尽な仕事さ」

「モンスターペアレントの相手って意味なら、そういうの、少しは分かる。俺のとこも、そういう仕事だ」


「そう、それがもっと日常的で仕事そのものな職業だと思えばいいかな。人間なんて信じられないし見る人間すべてクレーマーに思えてくる。最後には自分も周りに攻撃的になってクレーマーになりがちだったりな。まあそんなヤツばっかりじゃないけどさ、でも俺の派遣仲間でもコールセンターで鬱病になったヤツはヤマほどいる。職業病だ。ストレス解消が必要なんだよ」


「それで買い物? ユキは買い物依存でストレスを晴らしたってこと?」

「そう。性格が真面目なら真面目なほどきついんだよなコールセンターって。ユキは真面目だったから、そうでもしないと気分が晴れなかったみたいだな。まともに相手してたら精神がもたないのよ。ひどい職場だよな。世の中の皆さんの不景気だなんだのってストレスのはけ口にされるんだから、されるほうはたまったもんじゃないな。世の中もっとコールセンターの人間の待遇はよくしたほうがいいんじゃないかな。しょせんサービス業だから軽視されてるんかな」


「日本は製造業の国だから?」

「さあな。だけど、生産部門か非生産部門かで、同じ会社のなかでも格差が出るのは常識だ。モノ作りに携わる人は立派だと評価される。モノを売って売り上げを出す人は評価される。でもその作ったモノが壊れていたとき、不良品だったとき、使い方が分からないとき、矢面に立つのは作った本人じゃないんだ。そのへんが分かってないよな」


「でもさ、製造だって今は派遣使ったりクビ切りしたり、ひどいもんじゃないか」

「そうさな。そう考えると、日本はどこに行くんだろうな」

敦はそうカラカラ笑った。


「俺が思うにな、格差社会ってのは、世代間格差のことだぜ。世代間格差を再生産し続けることだよ。何をしても簡単に儲かる時代にカネ稼いだお年寄りの方々が、そのカネと年金で裕福な暮らしして、若い世代を苦しめてるんじゃないか。なんで家も年金もこれから約束されてる年寄りがいるのに、若者には仕事がないんだ? しかも昔成功したそいつらの子どもは、最初からカネがあるから苦労せずに育つし、いい教育も受けられる。でも昔稼げなかった親の子はスタートラインからして出遅れている。すばらしい平等社会だな日本てのは。昔は世襲で政治的な格差が再生産されていた。今は経済的格差が再生産され続けるんだ」


「敦が言うと世の中お先真っ暗に見えるな。でもさ、そんなのは成功してる人間からすれば、努力が足りないって話で終わるわけだろ」


「そこだよな、根本的な世の中のおかしさは。結果を平等にしようとして失敗したのは社会主義だが、少なくとも機会の平等は与えるというのが資本主義の精神じゃないのかな? アメリカ型フロンティアスピリッツというのは、そういうことだろ? そう思うと日本は不思議な国だな。スタートラインが決定的に違うのが当たり前の世の中で、スタートの時点でコースもあらかた決まっている。そんなんで努力で勝てるかっつーの。努力をしたくてもそもそも出来ない人間もいるんだと、そういうことが、すべての人に伝わらないことが俺は苦しかった」


このとき私ははっきりと確信した。敦が大学を中退した理由も、その後もフリーターを続けている理由も。

「だから敦は中退したんだな? お前は努力をしなくても勝てる人間だから、だから、自分をわざと低いところに落とすために。正社員にならないのもそのせいだ。お金も実力もあるのに、わざとなんだ。そうなんだろ?」


「それがすべてというわけじゃないけど、大きなウェイトを占めているな。どこかで俺は、自分はどちらかといえば選ばれたほうの人間だと思ってしまっているんだろうな。ユキにそれが出た。彼女に俺は救済を与えたつもりだったんだよ。でも振り返ってみれば救済なんかじゃないんだ。ただ優越感に浸って、女をカネでモノにしたかっただけ。女から慰めをもらいたかっただけ」

「いや、男と女って、そう単純に言い切れるものじゃあ……」


「ユキはね、水商売に入ってから鬱が抜けたんだ。なんでだか分かるか? 男を見下すことを覚えたからだよ。キャバなんてくだらない場所さ。立場も収入も違う男がみんな揃いも揃って女にカネを注ぐ。どいつもこいつも表じゃそんな顔してなくても、かすかに期待してるんだよな。もしかしたらうまくいってこの子と一発やれるかもしれない。ほんと、くだらない夢だよ。素人みたいな子と他愛もない話して酒飲むだけでカネ払うんだ。昔風の飲み屋で言えばママさん女将さんにのぼせる男と同じ。勇気がないんだよ男には。せいぜい酒飲みながら口説くぐらいしか。情けない女遊びじゃないか。昔からずっとそうなんだ。男は女遊びをするものだと思われていて、でも実際はさ、女に遊ばれてるんだよ」


敦は一気に喋ってやっと一息ついた。敦には珍しくやや感情的になっていたようだ。

「結局、どんな理由を付けようが、俺はユキを買ったようなもんだ。いい女を俺のモノにしてみたかった。それだけなんだ。ユキが見下すキャバクラ通いの男達と同じ。俺は彼女に救いを与えたつもりだったけど、今考えれば考えるほど、ユキが俺を選んでくれたんだとしか思えない。分かるかい? 主導権はユキが持っている。ユキが俺を必要としなくなればそれまで」


「まさか。敦を捨てる女なんて。敦なら文句なしなのに。俺が女なら絶対離さないと思うけど……」


敦は苦笑した。

「同じ言葉そのまま返してやる。俺もスノが女だったらなって思うよ。実際、俺の見立てだとユキはお前のことが気になってると思う」


「そんな馬鹿な。俺なんか。敦の彼女だとばっかり思ってたから、むしろ出来るだけ遠慮というか、気を遣ってたというか……」


「ユキはね、そういうところを見抜いてると思う。それにな、さっきから言ってるけど俺とユキはそりゃセックスはしたけど、でもなんつうか恋人とは違うんだ。保護者ってのかなぁ。ドライなんだよ。だから、もしスノがユキを選ぶっていうならそれはそれで、俺は構わないよ。あ、でもミミちゃんと三角関係にならないようにね。そこはうまくやれよ」


最後のほうは私はぼうっと聞いていた。敦とユキの関係も不思議だし、ユキが私に興味を示しているというのも初耳だった。


そしてこのとき、私の心にはじめて不安が染みを作った。

私が見たくないと思っていたもの、敦の弱さを見てしまったからだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る