私は、三月はじめに退職するまで、中学教師だった。

新卒で母校の私立中学に採用され、社会科を四年間担当した。

ちょうど五年目に入る直前だった。


早朝の私のアパートから、教え子の女子生徒がパジャマ姿で出てくるところが、保護者の一人に目撃された。


その子の名前は、高橋深美。

深美と書いて「ミミ」と読む。名前の響きにふさわしく、愛嬌があり可愛らしい顔立ちなのに、中学生離れした独特の落ち着きをもっていた。


私は、二年生になった深美のクラスを担任していた。


一年生では品行方正だった深美だが、二年生になってから無断欠席が目立つようになっていた。

家庭に連絡しても、体調が優れないようだという答えしか得られない。いじめに巻き込まれているのではないだろうかと注意深く見守っていた。


夏休みが明けた頃、深美から最初の相談を持ちかけられた。

「パパが怖いんだよ」

相談にきた深美はそう切り出した。

「そりゃあどこの親だって怖いもんだ。どうした、叱られたか?」

「そうじゃなくて。酒飲むの」


私は大学時代にアダルトチルドレンについて学んでいたことがあり、その一言で、深美の独特の大人臭さを生んでいるものがみえた気がした。


アダルトチルドレンとは、アルコールや家庭内暴力などが原因で機能不全に陥った家族に育つ子ども達の総称である。

アダルトチルドレンは、ほんらい大人により果たされるべき家族機能を、自らが肩代わりしてしまうため、子どもとしての健全な成長が損なわれると言われている。妙に大人臭かったり自虐的な性格をもつ子どもに育ってしまうのだ。


「お酒を飲んで、暴れたりする?」

「うん。ときどきネー。あー、でも最近はしょちゅう? 新しいハッポー酒が出てね、それが安いからいっぱい飲んでる。飲んですぐ殴るんだ」

深美は言い渋ることもなくあっさり言った。


それが私にはショックだった。暴力が日常化していて、深美にとって当たり前のものになっていると考えられた。

「たまにお腹だけ。自分で言ってた、お腹はバレないからなんだって。パパ、警察だからそういうことよく知ってんだ」


深美の父は警察官だ。

私は、警察というものに対して、あまり好感をもっていなかった。

私の親類にも警察官がいる。本人は好人物だが、彼の結婚式で出会ったその上司達は、新郎新婦の初夜を肴にして笑う下品な男達で、虫唾が走った。

私は、教師としての自分自身もそうだったが、こうあるべき、というステレオタイプから人間をとらえてしまう。


些細なことでも重なっていくと、警察というもの全体への不信感になる。

この計画に参加したことも、警察に対するそんな反発心が働いていたのかもしれない。


そんな、警察に対する私の個人的な猜疑心も影響したのだろう。

深美の話を聞いた私は、この子をなんとしても守りたいという歪んだ正義感に燃えた。


教師というものは、すべての生徒に平等に愛を注ぐべきだ、と建前論では言うが、なかなか簡単なことではない。

教師も人間だ。

自分に助けを求める生徒は可愛いに決まっている。肩入れもしたくなる。教師なんてしょせんそんなものではないか?


児童相談所は深美本人にあっさり拒否された。

「だってそういうとこって警察に連絡して、結局パパが来ると思う」


児童相談所は、家庭問題への対応において警察に協力を求めることができるが、警察官が実際に現場に来ることはない。しかし深美の場合は父親=警察=公的機関の式が出来上がっており、不信の対象になっていた。


その辺りを探り出しているうちに時間切れとなり、結局そのときは様子見の結論になった。


それから、深美が相談をしてくる頻度が増した。次第に、深美の表情が暗くなってきているように私は感じ始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る