それまで黙っていた祐二が口を挟んだ。

「いいこと言うなあ。僕も同意。いろいろ見なかったことにしないと生きてけないよね。ホンロに清く正しく生きよーとしたら、絶対負けっよね」

「磯崎さん、ろれつ回ってないじゃない」

「えへへ」


「スノはそれが出来たんだよ。だから俺はスノのことが好きなんだ。ヘンな意味じゃないぞ。人間的に好きなんだ。お前はさ、何をするにも馬鹿正直だろ。普通は出来ないことだ。それはたいしたことだよ」


敦は酔ってこそいるが真面目な顔で、決して冗談を言っている風ではない。私は、敦が自分のことを高く評価してくれたことが信じられず自嘲した。

「ドン・キホーテだよ。今回だって一人相撲しただけじゃないか」

「自分の教師としての信念で行動したんだろ? 周りがどうみようと、立派じゃないか」


「そうだよ、僕なんて、そんな風に思い入れるようなことなんてなんもないぞ。なんのために生きてるのかも分からない。すごい空しいんだ、毎日が」

「空しい?」


「なんかね、何をしても退屈な感じ。別に、これからもずっと何も変わらないし。仕事も特に面白くないし。僕は昔からこんな見た目だからモテもしないし、運動もダメだし頭も悪いし何も出来ない。それで、ずっといじめられてバカにされてきたし怒られてきた。どうして走るの遅いのとかさ、どうして勉強出来ないのとかさ。知るかよそんなこと、好きでこうなったんじゃないんだからこっちが教えてほしいっつーの!」

祐二はジョッキを飲み干した。


「あえて誤解を恐れずに言えば――」

敦がなだめるように言う。

「――たとえば障害者って、優遇してもらえるじゃないか。でもさ、普通の奴だって、苦しんだりつらかったり、助けてほしいときはある。それはダメなんだよな。五体満足なら、ちゃんと出来ないとおかしいじゃないかって。五体満足だろうがなんだろうが、つらいものはつらいよな。無理なものは無理」


「うん。そうだよ。僕は疲れたなぁ。そりゃあもっとカッコよく生まれたかったさ。もっと頭もいいほうがよかった。体力もないし。僕に尽くしてくれる女だって、こんだけ女が世の中いるのに一人ぐらいいたっていいじゃない。僕は彼女の一つも出来ないし損してばっかりでさ、いいなあ須之内さんは、中学生とラブラブか!」

「いや、だからそういう関係は――」


私は否定したが、すでに相当酒臭くなっている息を吐きながら、祐二は顔を近付けてきた。

「いや、そういう感情はあーる、絶対にあーる! 血がつながってないパパだ。いいなぁいいなぁ」

「ダメだ、酔っぱらい」

私が嘆息すると会話が途切れ、少しの間テーブルが静かになった。


由希子がぽつりと言った。

「みんな、色んなこと考えてるんだ。あたしだけじゃないね……」


ここにいる顔ぶれは皆わけありだと敦が言ったことを私は思い出した。

由希子にも何かあるのかとそのときから気になり始めた。

それを知ることが出来たのはもっと後になる。


「ほんと……今日はみんなはいい奴で……う、う」

祐二の頭が落ち着かずにふらふらと動き出した。

「どうしたの、大丈夫?」

「大丈夫……? だいじょう……」

祐二の頭は、ゴンと音を立ててテーブルに落ちた。


「おいっ、全然大丈夫じゃなさそうだ」

「結構呑んでたよ、やばいんじゃない? 呑めないんでしょ?」


由希子がそう言うのを聞いて、私は敦を見た。

「敦、なんでほっといて呑ませた?」

「呑ませてやりたかった。しょせん俺達みたいな奴らにはアルコールが必要なときもあるんだよ」

敦はそう言って、祐二の肩を軽く揺すった。

しかし祐二は頭をテーブルに落としたままうんうんと唸るばかり。


「あ、ねえ、誰かケータイ鳴ってるよ」

テーブルの上で振動しているのは、私の携帯だった。

取ろうとすると、タイミングを見計らったようにコールは止まった。

「あら、切れちゃった?」

「大丈夫、着歴が……」

液晶画面を覗いて、私は思わずうめいた。


「どうした?」

「彼女だ。盆と正月が一緒に来た」

「例の子か?」

「うん」

時計を見た。そろそろ十時になる。

祐二を放っておいて深美に電話するというのも心苦しい。私は携帯を持ったまましばらく立ち尽くした。


祐二が、急に自力で立ち上がった。

「あ、平気なの……?」

「トイレ……ヤバい」

祐二が漏らしたのはそれだけの言葉だったが、理解するには充分だった。


ふらふら歩き出した祐二は、途端に横に大きくよろけて、椅子にもたれる。

すると敦が俄然キビキビと動き出した。

「由希子、お冷やもらってきて。スノ、悪いけどそっちの肩入れてくんない? イソをトイレに連れて行こう」

「了解」

私はうなずき、携帯はポケットに押し込んだ。目の前のトラブルが優先だ。


「トイレ行くぞ! トイレ行くまで吐くなよイソ」

「うう、うう……」

このときには、祐二はもう意味のある言葉を発しておらず、私達の手でトイレの個室に押し込まれると、洋室便器こそ探し求めていた恋人だと言わんばかりに熱烈に抱きついて盛大にやりはじめた。


「うげ、げぇぇぇ……」

「吐け、吐いちゃえば楽になる……スノ、背中さすってやって」

敦は祐二の横に張り付いて、指を祐二の口に突っ込んでいる。

そのまま祐二は吐いていたので、敦の袖は吐瀉物にまみれていた。

しかし敦の表情は変わらない。淡々と、嫌な顔一つ見せなかった。


しばらく吐き続け、やがて祐二が便器から手を離した。

そのまま床に尻餅をつくと、便器と壁の間の狭い空間に押しこめられたような恰好になって、今度はぶるぶる震え出した。

「寒い……寒い……」

「トイレだから寒いよ、頑張って向こう戻ろう、な?」

敦が静かに呼びかけたが、祐二はへたりこんで震えながら唸っているだけだ。


敦が私を見上げて、かぶりを振った。

「無理」

「呑めないって言ってたのに。急性アル中でしょ。俺の愚痴に付き合ってくれたせいで?」

「それもあるけど、だけじゃないんだよ。色々あるって言ったろ?」


トイレの外から、由希子の声がした。

「お冷やもらってきたよ」


敦が手だけをドアの外に伸ばし、コップを受け取る。

「どう磯崎さんは? ダメ?」

「ああ、ダメダメ」

「どうする? ここ十二時閉店だって。もう時間ないよ」

「どっちみち、イソはそろそろ終電のはずなんだ。タクシーか、ネットカフェにでも連れてくさ」


それを聞いて、私は思わず提案していた。

「俺んち近いから、連れてく?」

「お前のとこワンルームだろ、泊められるか?」

「雑魚寝なら、なんとかなるんじゃない?」


私達が祐二を介抱する算段を話していると、本人の弱々しい声が足元から聞こえてきた。

「もういいよ、歩けるからさぁ……。こんな奴の相手しちゃダメなんだよ、みんないい奴でカッコいいんだから、ダメだよ僕なんてほっといていいの。みっともないんだから」


「はいはい。いいから寝てろ」

敦がぶっきらぼうに言い、由希子に指図する。

「お愛想しといて。俺達はタクシーつかまえる」

「了解♪」


全身が弛緩している祐二を、私と敦で両脇から抱えて、やっと店の外に連れ出した。

が、肝心のタクシーがなかなかつかまらない。せっかく手を挙げて呼んだタクシーも、泥酔した祐二を見ると乗車拒否をした。

それが何台か続いて、やっと一台だけつかまえることが出来た。


「じゃあ、終電で帰るから。磯崎さんによろしくね」

由希子がタクシーのドア越しに敦に言う。

タクシーが走り出し、由希子とはそこで別れた。


深夜ということもあって、乗ったかと思うと明大前に着いた。

駅前でタクシーを降り、すでに意識もなさそうな祐二を二人でしっかり支えて歩く。


私のアパートは、駅から徒歩五分足らずの場所にあった。

木造二階建て。六畳一間で洗濯機置き場は屋外。

立地の割に家賃が安いだけのことはあり、お世辞にもきれいとは言えないし広くもないが、住めば都だ。それなりに満足していた。


「誰かいる」

敦がつぶやいた。


二階に上がる鉄階段の下に、うずくまっている人影があった。

私達の足音に気付いて、その影が立ち上がる。


私はハッとした。

見たことのある光景の繰り返し。

「なんでケータイ出てくれなかったの! 約束したのに!」

深美の声が私を咎めた。

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