花と毒
第11話 菫色の姫
壁面に並ぶ背の高い明かり取りの細窓から差し込む光が、豪奢に飾り立てられた室内に明暗を醸し出す。
城主の謁見の間である。
奥の座には、主である禿頭の老人と、黒髪を結い上げた若い娘が並んで座している。
小柄な娘は先ほどから俯いたままで、その唇はまだ一言も言葉を発していない。
「さぁジゼルや、ジロワ卿にご挨拶を」
禿頭の老人、エウーゴン卿が困惑しつつ娘に促した。
恐る恐る顔を上げた娘の肌は白磁の様に白く、大きめの濃褐色の瞳は潤んで今にも涙が溢れそうだ。
追い詰められた栗鼠の様だ。
それがジロワの最初の印象だった。
メーヌ伯との戦の後、ジロワの名は北フランスを席巻し、パリのフランス王やルーアンのノルマンディー公の宮廷において、暫く話題の中心を独占し続けた。
ポンルボイの戦いにより既に名声の確立された『眠らない番犬』メーヌ伯エルベールを相手に、味方が総崩れの中踏み止まって大逆転の勝利をもたらしたのだ。
メーヌ伯の名が巨大である分、余計にその功績は強調された。
敵手がメーヌ伯でなければ、ここまで大きな反響はなかっただろう。
そんなジロワのもとに、エウーゴン卿の使者が訪れた。エウーゴン卿の領地エショフールへの招待の使者である。
使者は盛んに主の一人娘、御年二十歳というジゼル嬢について言及する。
ジゼル嬢との婚姻申し込みを匂わせているのは明らかだったが、それならばそうと言明すればよいのに、仄めかすだけ、というのはまだ肚を決めかねている、ということか。
直接面会して人物を見極めようという腹積もりかもしれぬ。
五十になろうとするジロワに二十歳の娘。
親子ほど年の離れた相手であるが、当時として珍しいことでは無い。
次男以下の相続財産の無い騎士は、立身出世を果たしてからでなくては貴婦人に相手にされない。そのため、晩婚となることは珍しくなく、年齢差のある男女間の結婚は現代よりも多く見られた。
しばらく後の話であるが、『中世で最も偉大なる騎士』と称揚された初代ペンブルック伯爵ウィリアム・マーシャルがイングランド王の仲介で結婚したのは四十歳のときで、相手は十七歳のイザベル・ド・クレアであった。
立派な地位にある貴族の跡継ぎの中でも、例えばノルマン征服前後の時期に当時最高の知識人として尊敬を集めた、代々のイングランド王の腹心初代レスター伯爵ロベール・ド・ボーモンという人物がいる。
彼が五十歳前後で結婚した相手は、フランス王の姪にあたるイザベル・ド・ヴェルマンドワ、御年十一歳である。二人の間には三男六女が生まれたが、晩年になって妻は夫ロベールを謀殺したうえ、二代サリー伯爵ギョーム・ド・ワレンヌとの再婚を果たした。
エウーゴン卿は、ノルマンディー公リシャール二世に仕えて武功を挙げ、立身出世した立志伝の人物だ。
卿の所領は、
一方でエウーゴン卿は近親に恵まれぬお人で、血縁者としては娘が一人いるのみである。
それが何を意味するか。
この時代の騎士の遍歴・武者修行の旅とは、即ち『嫁探し』の旅である。ただし、その嫁というのは『城付きのお姫様』のことを指す。要するに逆玉の輿狙いだ。
それは相続財産がない、または貧乏騎士の子弟にとっては身の浮沈に係わる深刻な問題である。前述のウィリアム・マーシャルはその成功例の最たるものだった。
そうした未婚の騎士たちにとって、エウーゴン卿の娘は桁外れの目玉物件である。求婚者が殺到しても不思議はなかったし、実際に殺到した。
だのに、かの令嬢はいまだ未婚のままである。
噂の伝える所では、エウーゴン卿の娘は頑なに求婚を拒否している、という。
拒絶された求婚者には、若者も壮年も、美男も醜男も、実家の地位や家格も様々、あらゆる組み合わせが網羅されていた。
その全てが拒絶されるということは、この娘はそもそも結婚をする気がないのではないか、いやいやもしかしたら
妖精王や魔王というのは眉唾だが、彼女があらゆる求婚者を退けてきたのは事実だ。五十になろうという時分にやっと名を挙げた様な、自分ごときが相手にされるとは思えない。
実のところ、本来なら願ってもない機会だというのに、あまり自分の心が動かされないことにジロワは驚いていた。
どうやら、諸国に名を馳せたところですっかり野望らしきものは満たされてしまった様だ。自分に領土的野心はなかったらしい。
まぁ確かに領地経営など面倒な仕事である。幸いにしてクルスロー領は領民とも上手く付き合えており、先行きも明るい見通しが出てきた。いまさら新しい領地の統治に手を付けるのは気乗りしない。
自分の望みとは、かくも小さなものであったのか。なるほどこれではなかなか成就せぬわけだ。周りはギラつく欲望を持て余した野獣ばかりなのだから。
自らの心に整理を付けてしまうと、この招待が実に煩わしいものに思えてきた。
だが、これはあくまで大領主からの武功話を聞きたい、という招待である。ノルマンディー公宮廷の重鎮からの招待なぞ、そうそう断れるものではない。はっきり婿試しと言われれば、その気はない、と断りようもあるが、匂わせているだけなので口実にし難い。
結局、気は進まぬながら招待を受けることとなった。
クルスローからエショフールへは北北西に約十リュー弱(四十キロメートル)ほど。適切な水路がないため全て陸路となり、およそ二日から三日の道程だ。
ジロワはオルウェンを随伴としてクルスローを出立した。
初日は少し早めにペルシュ伯領のモルターニュ、二日目はムーランで宿泊し、エショフールへ至ったのは三日目の正午少し前だった。
エショフール城は中規模のモット・アンド・ベリー形式の城である。
モットとは、土を盛り上げて頂部が平坦で斜面が急峻な台形の人工の丘を作り、その頂部に
ベリーはモットと連結し、堀と城壁・柵で囲まれた区画に、使用人の住居や厩、鍛冶場、兵舎などの建物を配置したものだ。この形式の城は築城が手軽で素早く行えるため、ノルマン征服期のイングランド
現英国女王エリザベス二世が週末を過ごすウィンザー城はもともと征服王ウィリアム一世(ノルマンディー公としてはギョーム二世)がロンドン防衛のために建設したモット・アンド・ベリー形式の城であり、現代に残るラウンドタワーは、モットの名残である。
日本の築城様式で言い換えると、本丸(モット)と、二の丸~三の丸などの
エショフール城門に辿り着いたジロワ主従は、早速城内に招き入れられた。客間に案内され正装に着替えた後、城主エウーゴン卿との対面に向かう。
聞いてはいたが、エウーゴン卿はかなりの高齢であった。娘が二十歳くらい、ということは卿が結婚したのも随分年齢がいってからなのだろう。これでは婿選びも喫緊の課題だ。
一方娘のジゼル嬢の方は、ジロワが漠然と想像していたものとは真逆であった。
当初ジロワが思い描いていたのは、自分に絶対的自信を持つ迫力ある貴婦人だった。どんな求婚者でも自分にふさわしいとは思えず、その故にこれまで全ての求婚者を拒絶してきたのだ、と。
「ようこそお越しくださいました、ジロワ様。貴方様の類稀なる武功のお話を伺えるのは無上の喜びでございます。どうぞごゆるりと滞在くださいませ」
と、ジゼルは全くうれしそうではない、怯えた様子で小声の口上を述べる。
怯えた小動物、である。
保護欲を掻き立てる様な、そんな儚さと愛らしさが同居している。
二十歳、という当時としてもやや
その姿は、ジロワに意外な程の強い印象を残した。
この様子を見る限り、これまでに押し寄せた求婚者の中でも押し出しの強い者なら、強引に承諾を取り付けても不思議はないが。まだ、何か隠されたものがあるな、これは……。
当事者であるにも関わらず、埒外の傍観者的気安さが抜けないジロワであった。本来ならど真ん中の当事者であるが、得るものへの関心が薄く、失うものは何もないのである。
一通り型に嵌った挨拶を済ませて退出した後、再び一同が会したのはエウーゴン卿家中の主だった者たちが集った晩餐の席であった。
ジロワは問われるままに遍歴時代のこと、ブリヨンヌ伯の下での仕官時代、そしてメーヌ伯との戦のことを物語る。ただし、マイエンヌ卿との戦いについては、あまり詳らかに語ろうとはしなかった。
エウーゴン卿もお返しとばかり、自らの武勲話を披露した。こちらは下々には伝わらぬ雲上人の逸話や裏話を交えており、ジロワには興味深い話で飽きなかった(エウーゴン卿家中の者たちにとっては、すでに何度も聞いた話であっただろうが)。
その様に盛り上がってはいたが、一方でごく普通の客人を迎えての宴席でしかなかった。
そんな中、女主人役として同席していたジゼル嬢は俯き加減のまま無言で通し、異彩を放っている。といっても、エウーゴン卿家中ではもはやそれもお馴染みなのだろう。誰もあえて彼女に触ろうとはしなかった。
「ジロワ卿ほどのご武勇ならば、これまでも(持参金や領地付きの)よい縁談もおありだったのでは?」
エウーゴン卿の家臣の一人から、探るような問いが投げかけられた。
「……生来不調法にて、なかなかその様な恵まれたお話はございませんでした。今は領地を広げるよりも父祖伝来の地をより発展させることの方に生き甲斐を感じておりまして」
ジロワの返答に、一同から次々「無欲でいらっしゃる」「それはもったいない」との声が上がる。そこには複雑で微妙な感情が含まれていた。
「ジロワ様は、ご領地を望まれないのですか?」
それまで置物の様に存在感を失っていたジゼルが唐突に問いを発し、場は驚きで数舜静止した。
「……倍の広さの領地を得るよりも、今の領地を倍豊かにする方で努力するのが、儂には向いているようです」
広大な領地を得た方が名声は高まる。だが、名声はもう既に十分得た。領地の増加は、君主でない以上軍役の増加も伴う。ジロワの発言は名より実を取る、という意思の表れであった。
「
そして、ジゼルは初対面以来はじめて、安らいだ微笑みを見せた。
その笑顔は穏やかなものであったのに、ジロワの心臓は金槌で乱打された様だった。
何かが通じ合った。雷に打たれたかのように、直感が全身を痺れさせ、震わせた。
その後の晩餐の様子はあまりよく憶えていない。
ただ、菫色の娘の姿を盛んに盗み見ていたことだけは自覚している。
それは、晩餐を終えて客間に引き取った後の事だった。
客間自体は晩餐を行った
ジロワはジゼル嬢の表情や振る舞いを紐解こうとして、寝付けずにいた。
自分の半分の年齢にも届かぬ若い娘に、あれほど動揺させられるなどとは! そんな若さの
今夜は満月、月でも眺めながら物思いに耽ろうかと客間の窓を開けると、灯りが落とされ寝静まった城の内庭は月光に蒼く照らされている。
その内庭を、小柄な人影が小走りに駆け抜ける。
通用口の辺りで立ち止まって振り返ると、真っ直ぐジロワの方に顔を向けた。
視線が交錯する。
数舜、見つめ合ったのち、相手は身を翻して通用口を出て行った。
アレは明らかに自分を誘っていた。追って来い、と。
だが、なぜ?
なぜ『彼女』はこんな夜更けに儂を呼び出すのか?
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