第30話 動乱の萌芽
公子リシャール様、大勝利!
もたらされた勝利の報せに、ルーアン宮廷が沸き返る。
ノルマンディー公爵の長子リシャール公子は、父公爵の命によりブルゴーニュへの遠征に赴いていた。
伝わるところによると、その兵力は十万を数える。誇張含みで見たとしても、当時として異例の大兵力である。
ブルゴーニュはもともとブルグンド族の王国であったが、フランク王国に征服され、後にフランク王国の分裂や再統合に併せるように分割と統合を繰り返していた。
そしてややこしいことに当時は、ブルゴーニュ王、ブルゴーニュ公、ブルゴーニュ伯という地位・称号を有する人物が同時に、かつそれぞれ別に存在していた。
ブルグンド王は怠惰王と渾名されるルドルフ三世。
ブルゴーニュ公はフランス王ユーグ・カペーの弟アンリ一世。
そしてブルゴーニュ伯がイタリア王の子でブルゴーニュ公アンリ一世の義理の子となっていたオットー・ギョームである。
当時ブルゴーニュは、フランス王の分家筋になるブルゴーニュ公、ブルゴーニュ公の臣下貴族であるブルゴーニュ伯オットー・ギョームが割拠し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ二世、さらにフランス王領の拡大を目指すフランス王ロベール二世による圧迫を受けて崩壊の瀬戸際にあった。
ブルゴーニュ公アンリ一世という人は最初、イタリア王アダルベルト二世の未亡人であったジュルベルジュと結婚する。このジュルベルジュがブルゴーニュ伯オットー・ギョームの母である。
その後、アンリ一世は二度結婚を繰り返し、最後の妻となるのがシャロン伯ランベールの娘マティルダである。
そして、そのマティルダの弟がシャロン伯爵兼オセール司教兼オータンのサン・ラゼール大聖堂律修司祭ユーグであった。
ユーグはアンリ一世の生前にオセール司教の地位を与えられている。
三度の結婚を重ねても、アンリ一世は男子に恵まれることはなかった。公の死後、後継者の地位は最初の妻の連れ子であるオットー・ギョームの下に転がり込む。
そして、その切っ掛けが何であったかは知られていないが、オットー・ギョームの息子レジノールと、最後の妻の弟であるユーグとの間に争いが起きたのだ。義理の孫と義理の弟の争いである。
ブルゴーニュ伯オットー・ギョームの一人息子であるレジノールは、ノルマンディー公リシャール二世の娘アデリーザを妻に迎えており、リシャール公子の義理の兄、ということになる。
ノルマンディー公リシャール二世としては、娘の嫁ぎ先であるオットー・ギョームに援軍を出すのは当然である。
だが、そこにはさらにいくつかの事情も絡んでいた。
ブルゴーニュ公アンリ一世は、フランス王ユーグ・カペーの弟である。つまりフランス王家に連なる人物であった。
そして、当時のフランス王の支配する領域は限られており、フランス王ロベール二世は王領拡大を目指していた。
そのロベール二世がオットー・ギョームによるブルゴーニュ公継承に異を唱え、継承権を主張して干渉を始めたのだ。つまり、フランス王ロベール二世とオットー・ギョームは対立関係にあった。
これが一○○四年頃の事である。
同じ年、ノルマンディー公リシャール二世の姉モードはブロワ伯オド二世と結婚した。だが、その翌年モードは子供を儲けることなく死去する。
女子の婚姻に伴う持参金(領地)は、その女子が子を儲けている場合にはその子に相続されて嫁ぎ先の領有に含まれて行くが、子が生まれずに死去した場合、実家に返還されるべきものであった。
そのため、ノルマンディー公リシャール二世が持参金であったドルー伯爵領の返還を求めたのは当然のことである。
しかし、ブロワ伯オド二世は返還を拒否した。
争いとなり、フランス王ロベール二世が間に入って裁定を行うこととなる。
一○○七年に下された裁定は、ドルー城はオドのものとし、残りの領地について返還を命ずるというものであった。
中世の経済として、城、つまり城市は極めて価値のある資産である。城を取られたのは資産の半ばを取られたに等しい。
当然すべて返還されるものと考えていたリシャール二世としては憤懣やるかたなき結果である。
誓って裁定を預けた以上、いまさら不服を唱えるわけにはいかないが、納得はできない。
不信を
リシャール二世としては、その様な関係があろうとも常識的に慣習から大きく外れた判断はできまい、という見込みがあった。結果としてその期待は裏切られたが。
こうしたフランス王に対する因縁もあり、リシャール二世はフランス王と対立する側のブルゴーニュ伯オットー・ギョーム、その子であるレジノールに肩入れする。
ちなみにここで登場したブロワ伯オド二世が、ポンルボイの戦いにおいてアンジュー伯フルク・ネッラと『眠らない番犬』メーヌ伯エルベール一世により大敗北を喫したブロワ伯その人である。
さらにもう一つ、リシャール二世が狙ったのは、世継ぎリシャール公子に武勲の箔を付ける事であった。
ノルマンディー公に限らず、代替わりは危機を
リシャール二世もすでに高齢である。来たる継承に向け、着々と手を打っていた。
リシャール公子を武勲で飾ろうとするのも、対外的対内的に動乱の芽を摘むためであった。揺るぎない後継者への安定した継承、そのための公子
前述の通り、十万という兵力は誇張含みの当時の記録としても破格である。
軍隊が糧食を自前で持ち込む、というのはずっと後、十七世紀から十八世紀になってからのことであり、それまでの長い間の常識は現地調達という名の強制徴収あるいは略奪こそが軍隊の補給であった。
その中で大兵力を派遣しようとすれば当然、現地で略奪調達できる補給品には不足が発生する。
おそらく、この遠征軍では同道した酒保商人(軍隊の後について行き、補給品やサービスを提供する商人。売春婦を伴うことも普通であった)の比率が極めて高かったのであろう。
また、遠征軍を構成する兵力にしても、軍役により賄われたものは少なかった(あるいはほとんど無かった)と考えられる。
当時の臣下領主の軍役というのは、年間に定められた日数、さらに出兵する距離に制限(大体領地から一日行軍の範囲、など)があり、それを超える場合には別途報奨を払ってやらなければならなかった。その他に純粋な臨時雇いの傭兵がいただろう。
つまり、この遠征は途方もなく『金が掛かっていた』のである。
そして、リシャール公子は期待通りの成果を挙げた。
シャロン伯に捕らえられていたレジノールを救出し、逆にシャロン伯を捕虜としたのだ。
シャロン伯ユーグは滅亡を回避するため、オセール司教の地位を放棄せざるを得なくなる。
いかに綿密周到にお膳立てされていたとはいえ、大勝利である。
ノルマンディーに隣在する周辺諸侯は、警戒心を刺激された。
先代リシャール一世の頃からノルマンディーは拡張政策を転換して内政の充実に努めており、周辺に対する脅威とはなっていなかった。
だがそれは、これからもそうであることを保証はしない。
戦に強い君主を得た時(例えそれが思い込みに過ぎなくても)、ノルマンディーが
現に、デンマーク・イングランド王(この時点ではまだノルウェーの王位には就いていない)を兼ねるクヌート一世は、今も盛んに北方に侵略の手を伸ばして暴れ続けている。クヌート王の妃はノルマンディー公リシャール二世の妹である。
一方、ノルマンディー領内では、次代の主君に人物を得たといって安堵と期待が沸き上がっていた。
そして、どこにでも例外があるように、それを喜ばぬ者たちがノルマンディーの内にも存在したのだ。
ここにも一人。
乱世を望む者が陰謀の火を燃やしていた。
名をイエモア伯爵ロベールという。
のちに『悪魔公』と渾名される、当時まだ二十歳の若者であった。
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