第31話 イエモア伯爵とフルベール
イエモア伯領の中心地ファレーズ市街に隣接する小高い岩山に、城と言うには地味で実用一辺倒の、砦のごときファレーズ城が鎮座する。
モータン伯爵とともにノルマンディー領南西部防衛の要であり、公爵家一門のイエモア伯爵の拠点というには、あまりにみすぼらしい。
ルーアン宮廷の華美で広大荘厳な建築物に見慣れていると、同じ世界に存在していることが信じられなくなる。
数日降り続いた雨が上がり、埃を洗い流された清々しい初夏の晴天の下、城下の領民たちが浮かれ騒いでいる声がここまで届いている。
城内の館に開けられた窓の日陰の側に寄り掛かりながら、鬱陶しげに眼下を流れるアント川を眺めているのは、城主イエモア伯爵にしてノルマンディー公爵リシャール二世の第二公子、二十歳になるロベールであった。
父も母も同じ。だのにたった数年先に生まれただけで兄リシャールには君主の座へと続く栄光の道が用意されている。
一方の自分は、ただの予備。それも出番の来そうにない、報われることなく終わってゆく予備だ。
慎重に守られた兄の身には、まさかの事など、ほぼ起きまい。
この度の遠征にしても、類を見ない大軍を用意し、十全の補給体制で万に一つの間違いも起きえない準備のもと行われたという。
おそらく、兄は戦場の剣戟の音すら届かぬ場所に居たまま勝利したことだろう。
彼我の戦力が拮抗していれば広大な戦場での会戦となりうるが、戦力格差が大きい場合には味方同士が渋滞し、敵まで辿り着けない部隊が生まれる。
それだけの戦力を用意し維持できる、という事自体が総合的に『力』と云えるものの、それは個人の能力によるものではない。
だが、自分だったなら……。
「
回廊から声が掛かった。
「入れ」
許しを得て入室して来たのは、側近のフルベールである。
「密偵が戻りましてございます」
「大儀。して?」
「アルジャンタンまで南下し、その後は東に向かった模様でございます」
「……パリ(フランス王)、か」
「ドル―(ブロワ伯)の可能性も依然あるかと」
「敵だらけだな」
伯爵の嘆息に、フルベールは沈黙で応えた。
先日、イエモア伯のもとにフランス王の密使を名乗る男が訪れていた。話の内容というのが、イエモア伯に謀反を唆したうえ、決起の際にはフランス王の支援を約束するというものであった。
ロベールは即座にその男を城外に放り出した。ただ放り出すだけでなく、さらに密偵に後を付けさせた。
帰参する方向により、どこの誰の手先として送り込まれたのか、手掛かりを掴もうとしたのだ。フルベールが述べたのはその密偵の報告であった。
その男が真にフランス王の密使であるか断定できない。
そして、それが真にフランス王の密使であり、内容が真正のものであったとして、さらにロベールが謀反する気になったとしても、それでも彼はフランス王の力を借りる気にはなれなかった。今のフランス王ごときではあてにならない、というのは現実的な計算でもある。
フランス王ロベール二世は王領拡大を狙ってあちらこちらに介入しているが、どれもはかばかしい進展は得られていない。とてもではないが、有効な支援など提供できなかろう。
むしろ、周辺諸侯中でも有力なノルマンディーを内乱で混乱させる狙いで動いている、という方がありそうだ。
そして、フルベールが指摘したように、ノルマンディーが混乱して喜ぶのはフランス王だけではない。フランドル伯、シャルトル伯、ブロワ伯にアンジュー伯やメーヌ伯、縁戚関係のあるブルターニュ公でさえ、信用はできないのだ。
さらに、警戒しなければならないのは身内の方でもある。
周囲から見ても明らかなように、リシャール公子にとって一番油断がならない立場なのは、それに次ぐ継承順位にあるロベールである。
兄本人にその気がなくとも、側近たちが疑心暗鬼に陥らないとは、言い難い。
罠に嵌められ、ロベールの地位が失墜すれば彼らは安心するだろう。
当主の予備という利用価値など、兄が子を儲けるまでのことだ。
事実、兄リシャール公子にはフランス王ロベール二世の娘アデル姫との縁談が進められているという。
よりにもよってなぜ因縁深いフランス王の娘などと。一時は、父も兄も何を考えているのか、と呆れていた。
だが、将来フランス王家の血統に綻びが生じた時、次代以降のノルマンディー公がフランス王位の継承権を主張し得る可能性が生まれることに気が付いた時には、むしろ納得したものだ。
欲のためなら憎い相手とも手を握ることができる。これが君主というものか、と。
ロベールはこれまで慎重な振る舞いを心掛け、微塵たりとも謀反の教唆に惹かれようなところは決して見せなかった。
だが、だからといってそれは彼が、兄への忠誠に篤いとか、野心を有していない、ということではなかった。
こんな土埃の中で一生を終えたくなどない。ファレーズに赴いてから、その思いはより一層強くなっている。
イエモア伯の御前を辞したフルベールは、家中の諸事の差配に戻った。
あれこれと下役に指示を出しながらも、頭の中ではこれからの秘められた『大事業』について思索していた。
主人イエモア伯は、まだ若い。最初の機会を見送っても、まだ次の機会を待てるかもしれない。
だが、自分はもう老境が目の前だ。最初に訪れる機会に、必ず行動を起こす。それはあと十年と経たないうちに訪れるだろう。
彼は忠義心から主人の野望を助けるのではない。
これは、復讐でもあるのだ。
フルベールがノルマンディー公に仕える葬祭関係を取り仕切る侍従であったこと、そして公爵家の暗部(暗殺)を担って『死体製造屋』『革鞣職人』という渾名をつけられていたことは既に述べた通りである。
望んでそうなった訳ではない。職掌柄、薬品つまり毒物に精通し、その供給元である薬種商を通じて後ろ暗い生業の者たちにも繋がりがあった。
そうしたことから、半ば無理矢理押し付けられた役目だった。
性質上、大っぴらになるはずの無い役目であったが、長年それに従事すればいずれ噂にもなろう。
宮廷に在った頃には、彼が室内に入ると聞こえよがしに陰口を叩かれた。
「はて? 牛の小便臭い匂いがするぞ」
「死体製造屋が来たぞ、今度は誰の番だ?」
そうした屈辱に耐えながら長年忠勤を励んだ挙句、とうとう邪魔になったのか公子ロベールのイエモア伯赴任に伴い、地元出身の側近としてファレーズ送りとなった。
態の良い厄介払いである。
だが、それを命じられてから無事ファレーズに到着するまでは生きた心地がしなかった。
彼は公爵家の暗部にどっぷり浸かっていたのだ。用済みになったからといって自由にさせておいても(公爵家にとって)良い事など無い。
ファレーズに赴任してからも、しばらくは暗殺者の影に怯える生活だった。自分の後任の、最初の仕事が自分の始末、というのは現実的過ぎて笑えない。
だが、どんなに気を張って周囲を警戒しても、一向に暗殺者の影らしきものは見いだせない。
そんな生活が長期化し、心身の疲労が極限へと向かうのを自覚しつつあった頃、ふと、そういえば自分の後任となった者は誰だったのか、といういまさらな疑問に立ち戻った。
宮廷を離れる際には、まだ後任未定ということで、ろくに引き継ぎもせず出発したのだ。
調べてみて、愕然とした。
そして、自分に暗殺者が差し向けられて来ない理由も判明した。
後任者は、居なかったのだ。
誰もがその役目を辞退し、結局誰も引き継ぐものが居らずに空席のまま、となったという。
それはそうだ。あれだけ辛い立場だというのに、何ら報われることもないというのはフルベール自身が証明して見せたのだ。
表の役職である葬祭関係こそ、持ち回りで分担しているが、裏の役目は完全に途絶えているようだった。
これを知った時、フルベールは安堵よりも怒りと後悔で引き千切れそうになった。
公爵家のため、忠義のため、そう思って騎士にあるまじき役目も引き受けた。
だが、彼が歯を食いしばりながら尽くした役目は、実は無くてもいいものであったのだ。
公爵家にとって必要不可欠のものであれば、無理矢理にでも後任を宛がったことだろう。それをしない、ということは公爵家も無いなら無いでいい役目だと考えていたという事だ。
旨味の無い役目から逃げ回った同輩に対する、不実への怒り。
誇りを踏みにじられた忍従の日々。
そんな運命を押し付けた主君に対する恨みつらみ。
そして、馬鹿正直で盲目的な忠義心で、自分だけではなく家族の人生まで台無しにした自分自身への怒り。
フルベールには、親の贔屓目に見ても出来の良い、ゴーティエという息子が一人いたが、こんな父を持ったがため、騎士として栄達する人生は見込めそうもない。
なにより、騎士修行を引き受けてくれる先さえ見つからなかったのだ。
やむなく、フルベールはゴーティエを教会に通わせ、読み書きを習得させた。
騎士になる見込みはなくても、読み書きという技術があれば、まだ多少は未来も拓ける、そう思ったからだ。
彼の生真面目さも、惜しみ無き忠義も、空回りしていたのだ。
本来の役目も適当に流して過ごしていたなら。
裏の役目からは逃げ回っていれば。
忠義や精勤よりも世渡りを第一に考えていれば。
澱のように無念と恨みが降り積もったフルベールは、だが、イエモア伯ロベールと出会ったのだ。
身の不遇と不満を内に抱え、暗い炎を押し隠した少年。
ふとした機会に、その本性を垣間見たフルベールは壮大な陰謀の啓示を得た。
以降、この若き主人と彼は、陰謀を共有しお互いを利用する関係となった。
忠義心はない。
徹底して己が目的のために利用するだけだ。
だが利害が一致しているため、目的に沿っている限り、お互いに信頼することができたのだ。
来たるべき『その時』へ向けて。
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