第32話 守護闘士(一)

「身体の方は、もういいの?」

 砂色の髪を、二つに分けてそれぞれ肩の所で結わえた娘が、気遣いの言葉を掛けてくる。


「ジャンヌか」

 邸の裏手で斧を振るい、薪割りに励んでいた初老の男が、手を止めて応える。


「問題ない。タダ飯喰らいなんだ。せめてこれ位は役に立っておかんとな」

 男は、結構な量の薪を片付けた様子なのに、微塵も疲れを見せていない。

 いくら、心は若いままでも体はおじいちゃんなのに………声を掛けたジャンヌはそう思っても口には出さなかった。


「気にしなくてもいいのに。お嬢様もそう言ってくれてるし、一応私の命の恩人なんだから、貴方の食べる分くらい私がなんとかするわよ」

「馬鹿言え。大の男がお前みたいな小娘に養われていてどうする。立場が逆だ」

「どんなに立派な貴族様も騎士様も、大勢の農民に養われているんだから、貴方だって小娘に養われてもおかしくないわよ」

「……誰だ? お前ジャンヌにそんな考えを吹き込んだのは」


 娘は何故か得意げに胸を張って答える。


「お嬢様よ」


 祈る人(聖職者)、戦う人(貴族・騎士)、そして耕す人(農民)。

 祈る人は神に仕え、戦う人は他の二身分を守り、耕す人は他の二身分を養う。


 この三身分論は当時の主流の考え方であった。


 ラン司教アダルベロン(ユーグ・カペーをフランス王に戴冠させた同名のランス大司教の甥。十年後の一○三○年に死去)が著した『ロベール王にささげる歌』は、その考えが述べられた大陸側で最古の文献である。


 ふんっ、と鼻を鳴らした男は薪割を再開しようとするが、娘はそれを止めた。

「お昼よ。食堂へいらっしゃいな」

 ん、と短く答えて壁に斧を立てかけ、男はジャンヌの後について食堂へ向かう。


「……何か思い出しそう?」

「いや。……俺はまだ三十のつもりだが、現実のこの姿はすっかり年寄りだ。まるで悪い魔法か呪いでもかけられて、いっぺんに年を取ってしまったような気分だ」

「そう……。はやく思い出せるといいわね」

「何か、とても大事な約束とか誓いを抱えていた様な気がするんだがなぁ……」


 男の呟きを聞きながら、ジャンヌは思った。その大事な約束とか誓いって、貴方にとっては不幸の種なんじゃないの?


「無理に思い出そうとしなくたって、大丈夫よ。オルウェン」


 なぜ邸の露台にあんな曲者が潜んでいたのか分からないし、大人達が言う様に曲者とこの男の争いに私が巻き込まれただけなのかもしれない。


 だけどあの夜、オルウェンは身を挺して私を救ってくれたのだ。


 それに、お嬢様も言っていた。


 見過ごそうと思えば見過ごせた。わざわざ出てきたのは私を守るためとしか考えられない。ならば、やはり命の借りはあるといえる。


 今、オルウェンが邸で暮らしていられるのは、お嬢様がそう言って認めてくれているからだ。


 この男が私を守ってくれたのは事実だし、何とかしてやりたいと思う。


 あの夜負った怪我の所為で大量に出血し、生死の境を彷徨った後、十日目に意識を取り戻した彼は、記憶を失っていた。


 完全にではなく、(フランクの)言葉は話せるし生活に必要な手順や道具の扱い方は覚えているのだが、この十年から二十年ほどの記憶を失っていたのだ。


 見かけ四十から五十の間位の年齢と見られるが、本人の記憶では齢三十、ということで、それ位の期間の記憶が失われているのだ、と見立てられている。


 物知りのジャン老が言うには、『記憶は血に宿る』らしい。

 大量に出血した兵士が部分的に記憶を失うことがあるのはそのせいだと。

 そして、親の経験は血を介して受け継がれるのだと。


 娘にはよく分からないことだが、そういうものなのか、と聞いていた。


 それでも、何かの拍子に記憶が戻ることもある、というので期待は捨てずにいるものの、だったらジャン老の言っていることは間違っているんじゃないか、とも思う。


 記憶障害の発生原因として、海馬への血流が低下がその一つに挙げられているが、結論は現代でも出ていない。


 出産時に大量出血したことにより部分的な記憶の欠損を起こしたという話など、大量出血や強い(怪我や衝撃による)ショックで発生した例もある。


 彼の場合、あの露台で受けた怪我とそれに伴う大量出血が原因であることは、状況から推測される(それ以外に特別な原因が存在しない)。


 目覚めた時、彼はここがどこであり、倒れる前に何をしていたか、などに関してはすっかり記憶を失っていたが、自分が何者であるかについては認識していた。


 自ら名乗ったその名は。


 オルウェン・アプ・スィール。ケレディギォンはディネヴァウル王家の守護闘士チャンピオンなり。

 

 といっても、その場に居合わせた者は誰一人として、その名乗りを理解できるものが居なかった。


 そして目覚めた後、彼が最も恐慌をきたしたのは、洗面用桶の水面みなもに映った、自分の容貌を見た時であった。 


 顔を覆う髭は白く、僅かに垣間見える肌には深い皺。己が手を見てみれば、痩せて肉が落ち、弾力を失った骨張った手指。


 この時、初めて彼は自分の認識している年齢と自分の現在の年齢がかけ離れていることに気付く。

 

 一時は周囲の者たちを呪い師と決めつけ、術を解け、元に戻せと大暴れした。


 大暴れ、といっても病み上がりともまだ言えぬ病人である。

 あっさり取り押さえられ、諄々と諭されて渋々受け入れたのだ。


 商会の者たちが彼の記憶喪失に気が付いたのもこの時である。


 『お嬢様』が認めてくれたため、オルウェンは商会がルーアンに持つ邸で療養できることとなった。


 ジャンヌは本来お嬢様付きの小間使いだが、経緯いきさつもあってオルウェンの食事の世話など看病を受け持つようになる。


 無愛想で粗雑な男ではあったが、決してジャンヌに乱暴なことはしない。

 口ではあれこれと文句を付けるが、ジャンヌの言う事には大人しく従っている。

 ジャンヌにはオルウェンが飼い犬の様に思えて来た。


「この商会の女主人は……何者なんだ? ちらりとしか見たことはないが、あれはそれなりの身分の出だろう? なんで商人の真似事なんぞ……」


 ジャンヌの歩みがピタリと止まる。


「あのねぇ……。まず、言っとくけど! お嬢様の商売は真似事なんかじゃありませんから! 堅実な商売で着実に利益を積み上げ、今じゃルーアンのギルドでも実力の点で一目置かれる存在なんだからね!」


 だから、なんでお前が偉そうに胸を張るのか、と。


「……私、孤児なの。まぁ、別に珍しくもないけど。帳場のジャン老は戦の巻き添えで奥さんと子供を亡くして一人身。ほかにも、この商会で働いている子供はみんな孤児よ。大人は、子供の頃から働き始めてそのまま大人になった人たちね」


 なるほど、そういうことか。


 身寄りのない年寄りや孤児の行く末など、野垂れ死にか奴隷、ある程度成長するまで生きながらえたとしても、傭兵稼業で命を落とすか売春窟に身を置くか、というところだ。


 つまり慈善事業の一つとして社会的弱者の居場所を作ったという事か。貴族や聖職者の自己満足としては上等の部類だろう。


「まぁ、お嬢様は『商売』が好きだから、そのついでなのかもしれないけどね」


 ……前言撤回。

 

「ところで、お前はなんでご主人様に付いて行かなかったんだ? 一応、お付の小間使いメイドなんだろう?」


 問われた娘は、んー、と短く唸ったあと、答えた。

「お邸では、私にできる仕事なんてないのよ。私ができるのは、このルーアンの商館でお嬢様のお世話をすること位。ご実家のお邸でお客様の御用を承るなんてできないの。付いて行っても邪魔になるだけだし………」

 それに貴方の世話もあるしね、とは口には出さなかった。


「大事な来客がある、とかいう話だが」

「そうみたい。よく知らないけど。……貴方がお嬢様の護衛を出来るようになったら、私もお嬢様に付いて行けるようになるかもね」

「護衛?」

「うん。今も一応、何人か男の人が付いて行っているけど、単に大人の男というだけで荒事の経験なんか無いの。だからお嬢様はオルウェンに護衛役を期待しているみたい」

「俺で役に立つなら、何でもするが……。そもそも腕の立つ護衛が必要な状況なのか?」

 商売好きの女主人とはいえ、さすがに隊商を自ら率いる、などという事まではしない。遠出してもせいぜいルーアン近郊までだ。盗賊に対する備えでないとすると?


「この商会も随分大きくなって、今ではあちこちで他の商会と争いになることが増えているのよ。それで競争相手の嫌がらせが段々酷くなってきてて………。以前は『お姫様のお遊びなんて』って感じで相手にされてなかったんだけど」

「目障りになって来たのね。それでもお嬢様自身がひどい目に遭うことは多分ないだろうけど」


 それは、どうかな。女主人に危害を加えても、困った事になるのは事が露呈したときだ。逆にいえば、露呈しなければ何ら問題はない。


 おおむね、その様な『バレなければ大丈夫』という考えは上手くゆかず破綻するものだ。


 だが、重要なのは危害を加える側が、『その様な考えを持つ可能性がある』ということである。


 次に女主人と会った際には、護衛役を買って出るのと併せ、警備体制についても意見具申せねばなるまい。


 そんなことを考えながら食堂に至ると、何やら邸の方が騒がしい。


 二人は顔を見合わせ、お互いに不吉な予感を抱いていることを知った。

 食堂の入り口の前を通り過ぎ、慌ただしくなっている帳場の方で難しい顔をした小館員の男をつかまえ事情を聴く。


 彼は、強張った顔のまま、声を潜めて呟いた。


 お嬢様が、何者かに襲われてさらわれた、と。


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