第26話 公都の暗闘

 クルスローの森林管理官フォレスター、老弓兵のオルウェン・アプ・スィールは、夕闇に身をひそめ、いずれのものとも知れぬ民家の屋根にうずくまっていた。


 追手のうち、すでに三人を倒した。

 あと一人。


 日の暮れたルーアンは、繁華街を除いて人の行き来が絶えて灯りも少なくなる。


 オルウェンと、彼を追う最後の一人はそれぞれ身を隠して相手の居所、気配を探りあっている。


 手持ちの武器は、短剣が一本のみ。

 投擲用のナイフは、もう無い。

 三人の追手を倒すため、すでに使い果たしていた。


 最後の短剣は投げるわけにはいかない。躱されたらそれまでだ。あと一人は斬り合いで仕留めるしかなかろう。


 息を潜めながら、オルウェンは今日この時までの出来事を思い返す。

 

  


 ジロワと伴にルーアンへと赴いたオルウェンは、一行が市街に入る直前から別行動をとっていた。


 ジロワが囮として動き回る中、それをつけ狙うものがあるとすれば、離れた所から監視する方が見つけやすかろう、という考えからである。


 ベレーム卿に連れられ有力者を巡るジロワを、オルウェンは遠巻きに護衛しつつ周囲を監視していた。

 その彼が違和感を感じたのは、あるじジロワがクレポー卿の邸を辞した直後のことだった。


 市街に溢れる大勢の通行人の中で、背の高い女と若い娘の二人連れが目に留まったのだ。

 とはいえ、どちらも見覚えのない顔である。当然ながら、丸腰で武装している様子もなく、身のこなしも隙だらけの一般人である。


 それがなぜ、こんなにも気になるのか。


 理由の分からない焦燥感が野火となり、脇下から鳩尾みぞおちへと焼け広がる。

 珍しく逡巡した末、結局オルウェンはジロワの監視を離れて二人連れの女を追う方を選んだ。


 現在ノルマンディー公が宮廷を置いているルーアンには、ノルマンディー各地から大勢の人々が集まっている。

 上は公の一門貴族から各地の有力貴族たちと、それらに仕える従者や配下の騎士、仕官の口を求めた放浪騎士や傭兵、人の集まることを商機と見た行商人や旅芸人から乞食まで、社会の縮図のように多種多様の人々が行き交っている。

 暗殺者の一人や二人どころではない。

 これだけ高位の権力者が集中していれば、それら後ろ暗い生業の人間が混じっている比率は平和な片田舎よりもはるかに高かろう。


 オルウェンが追跡している二人連れは、生粋の都育ちというほど垢抜けてはおらず、地方の商家の奥方と娘といった野暮ったさを帯びた装いである。


 一方で、オルウェンの方も一目でそれと分かる田舎騎士の従者姿である。

 こちらもその辺りに山ほど見られるありふれた恰好だ。

 追う方も追われる方も、一度人混みに紛れてしまえばそれまで、と思われた。


 人混みの中を掻き分けるように北を目指す二人連れと、それを追う森番はやがて市場を抜けて人通りの少ない込み入った造りの街区へと至る。

 目立って気付かれるのを避けるため、少し距離を空け、曲がり角では暫し立ち止まった。

 

 大きめの邸宅の立ち並ぶ辺りに入ったところで、動きがあった。

 オルウェンが追っていた女二人連れが、とある邸の裏口で別の男二人連れと合流したのだ。

 

 その男二人連れというのは、主人と見られる幾分上等な外套を纏った中背の男と、小柄な従者という組み合わせだった。


 四人のうち、従者と見られる男が屋敷の裏口をノックして声を掛けた。

 しばし誰何すいかののち、戸が開かれる。


 屋敷内へ招じ入れられる間際、先頭の主人らしき男がフードを下ろして顔を見せた。それはオルウェンの見知った顔であった。


 ベレーム卿の子息タルヴァス。


 現在ルーアンでは公爵の宮廷が開かれているため、ノルマンディー中の主だった貴族が集っている。その伝手を求めた周辺の有象無象もまた多い。


 つまり、タルヴァスがルーアンに居ること自体は不思議でもなんでもない。

 そして、ジロワたちがエウーゴン卿の事件の黒幕として想定していたのは、エウーゴン卿の権益になんらかの関りや利益のある者、である。

 タルヴァスは容疑者の線上に挙がっていなかった。

 行きずりの衝動犯による犯行と同様、合理的な関係性が見出せず、タルヴァスをそこに含むとなると、容疑者の範囲はノルマンディーの大部分の貴族・領主に及んでしまう。


 もともと親娘ともども殺害という結果は、ニコラの暴走であってタルヴァスの企図したものではなく、エウーゴン卿の事件とタルヴァスを結びつけるには人智を超えた「何か」が必要であった。


 なぜ、タルヴァス卿が此処に? 


 この時点で、オルウェンがタルヴァスに対する疑惑を確信することはできない。


 今現在、ルーアンは数多の権力者の集う場所であり、必然、数多の陰謀が重層的に同時進行する場所である。

 何らかの企みを抱いてタルヴァスがルーアンに居合わせたとしても不思議はなく、無関係である可能性は高い。


 だが。


 現在、オルウェンが集中しているのは、主ジロワが追う仇敵である。

 その彼が、切迫した焦燥感を覚える、というのであれば、それはやはりエウーゴン卿の事件に関することであるはず。

 はっきり自覚できてはいないが、「何か」があるのだ。


 オルウェンは人通りが絶えるのを待ってから、タルヴァスらが招じ入れられた邸の前を何食わぬ顔で通り過ぎつつ中を窺ってみる。


 静かで人気ひとけがない。


 この一帯は裕福な商家や、地方貴族の持ち家などとみられる比較的立派な造りの建物が多いが、市場とは正反対の閑静な街区だ。


 目的の邸を過ぎること数軒先、曲がり角を廻ったところで丁度良い足場を見つけた。周囲に人気が無いのを確認し、オルウェンは身軽に囲壁を駆け上がり、瞬く間に木組み家屋コロンバージュの屋根の上に登った。


 直接、街路から侵入するのは危険過ぎるため、数軒離れた建物から屋根伝いに侵入しようというのだ。


 かなり距離の開いた屋根同士の間も、年齢に見合わぬ跳躍力で跳び越えてゆく。

 僅かな時間で目的の邸の屋根に、音も立てずに辿り着いた。


 さて。

 辿り着いたからといって、それで万事解決ではない。


 表を通り過ぎながら観察したところでは、最上階の屋根裏部屋と思しきところのみ、窓の木扉が閉められていた。


 密会をするのに窓を開け放ったままにはすまいという、一か八かの賭けで屋根裏部屋にあたりをつけて近寄り、中を窺う。


 外れていたらそれまでだ。そのときは離れた場所で人が出て来るのを観察するしかあるまい。


 屋根裏部屋の窓の扉にそっと近寄り、耳を当てる。

 中から多少くもぐってはいるが、声が聞こえた。

 しめた、当りだ。


 だが。


 タルヴァスのものではない、あの声は……どこかで聞き覚えがある。

 どこでだ?


 刹那、風を切り裂く音に体が反応し、オルウェンは窓の脇から跳び退いた。

 びぃん、と屋根に突き立った矢が震えている。

 素早く矢の来た方向を確認する。

 通りを挟んだ向かいの邸の窓に、弓手が矢を番えているのが見えた。

 ちっ、見張りはそちらか。

 こうとなっては撤退するしかない。


 見張りのいた邸の出口からは、追手がわらわらと繰り出してきている。

 弓手から死角になる方へ迅速に移動し、来るのに辿った屋根の上の途を、逆戻りする。逃走しつつ、迎撃・反撃のための算段を練り始めた。


 まずは距離を開けねば。面倒なことになったが、仕方ない。主の下に戻るのは遅くなりそうだ。


 この時オルウェンは漠然とそう思っていたが、彼がジロワと合流することができるようになるのは、彼が思っているよりも遙かに後の事となる。




 追手に逆襲と待ち伏せを仕掛けながら、ここまでに三人を倒した。

 最後の一人とは潜伏と奇襲、反撃と逃走を繰り返しつつ、今はお互いに身を潜めながら相手の位置を探っているところだ。


 大気に混じる雨の匂いが濃くなってきている。

 ルーアンを覆う闇のベールが厚くなった。


 このまま雨になれば逃走には有利だ。

 もうしばらくの我慢か。


 隠形を続けるオルウェンがそう胸の内で計算をしていたところ、中庭に面した側の露台バルコニーの方からガタガタと、木戸を開く音がした。

 中庭に面した露台の扉を住人が押し開こうとしているようだ。 

 小間使いなのか、少女の声が聞こえる。

 オルウェンの居る位置からはその姿は見えない。つまり向こうからも見えないので慌てる必要はない。


 だが。


「――様、やっぱり雨が来そうですよ! あ、え? だっ、誰!?」


 最悪の上の、さらに最悪な展開になった。


 まず、追手が潜んでいたのが、くだんの露台であったこと。

 隠れている追手に気付かれなければ、無難に済んだかもしれない。


 だが、気付かれてしまった。


 追手はどうするだろうか?


 身元を明かして釈明する、ということはあるまい。それは密談の相手の素性をばらしてしまうのと一緒だ。

 ただちに逃走する、というのもどうか。そうできるくらいなら、そもそも追ってはくるまい。

 いや、それよりも冷静さを失って衝動的な行動に出る恐れもある。


 オルウェンは隠れていた場所を出て屋根の縁から露台を覗く。


 追手は短剣を抜いたままであり、その面貌は剥き出しであった(顔を見られた)。

 少女の手に提げられた灯りに、照らされた顔には混乱した衝動的な殺意が湧き上がっていた。


 まずい!


 屋根の縁から短剣を突き出した格好で飛び降りる。

 少女に斬りつけようとした追手の首の付け根に短剣が突き立つ。

 追手の最後の一人は、驚愕の表情を浮かべながら崩れ落ちて行く。


 一方のオルウェンも、体の中心から弾けた電撃に頭の芯を強打されていた。

 追手が少女を狙って繰り出した一撃は、頭上から割って入ったオルウェンの腹部に撃ち込まれていたのだ。


 着込んでいた厚い革の胴衣のおかげで、体が真っ二つとなることは避けられたが、胴衣を切り裂いて腹部に達した刃により脇腹が切り裂かれている。


 腹部に負った負傷は致命傷になりやすく、また、処置が悪ければ傷口から致死性の病原菌に侵される危険もある。


 出血のせいでオルウェンの意識は混濁しはじめる。


 遠くなる意識の中、崩れるように倒れてゆく時間はひどく引き伸ばされていた。

 少女の泣き声、踏み鳴らす足音、男たちの怒声。

 それらが聞こえていたような気もするが、夢のようにも感じる。


 様々な場面が脈絡もなく脳裏に再現されていく中、なぜか、昼に追い掛けたあの背の高い女と、ジゼルが殺害されるしばらく前にクルスローを訪れた怪しくみすぼらしい行商人の男の姿が重なって想起された。

 何かに気付いたような気もするが、もう筋道だった思考が難しくなる。


 ただ闇に飲まれる直前、頬を雨水が打った気がした。 

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