第42話 動乱(五)

 記憶を失ったオルウェンを迎え入れた家族は、忍耐強く慎重に関係の再構築を進めていた。


 一度は最悪の場合も覚悟していたのだ。生きて帰ってきてくれただけでも、という思いも強くあった。


 むしろ、オルウェン当人の方が戸惑いが大きかった。自分が家庭を築いていた、ということがどうにも信じられなかったらしい。自分の認識している年齢と、現実の身体年齢との落差が大きいこともあった。


 それでもなんとか受け入れて前へ進もうと互いに努力していたある日のこと。


 息子の一人が母親から命じられて納屋の整理をしていた。そこへ巡回帰りのオルウェンが通りかかり、どれ手を貸してやろうと納屋に入ったのが事の起こりだった。


 クルスローから移った直後は生活環境を整えるのに忙しく、持ち込んだ荷物の中でもすぐに必要とならない品は手当たり次第に納屋に放り込まれていた状態だった。

 一家の生活に落ち着きが出てきたところでそろそろ片付けをしなければ、となったのだ。


 このとき、もともとは城勤めから戻ったジャンヌが手伝うはずだった。


 だが、ジロワとジゼルの間に生まれた子供たちの内、まだ幼い子の一人が病がちで昨晩来急な発熱で寝込んでしまっていた。その若君の看病のため、ジャンヌは城に泊まり込みとなっている。


 オルウェンの息子は手伝いの当てが外れ、一人で悪戦苦闘していたところだったので喜んで父の手伝いを受け入れた。


 整理のため、納屋の奥のあれこれを表へと運び出す。


 作業が始まってやや経った頃、オルウェンが喉が詰まったような妙な叫び声を上げて固まった。


 驚いた息子が声を掛けても、彼は身動きしない。

 一心に何かを睨みつけている。


 いったい、何を?


 息子が彼の肩越しに覗くと、その視線の先にあったのは一体の木像だった。


 オルウェンがまだ結婚前の、クルスローの森の際にある番小屋で一人暮らしをしていた頃、領主館の厨房でしつらえた食事を番小屋まで運ぶのはオルウェンの現在の妻アナの仕事であった。


 その頃、オルウェンは一体の木像を彫っていた


 女性をモチーフにしたその木像を、アナは『オルウェンの想い人ではないか』と思っていた。


 後に二人は夫婦となったが、その木像は今も残っている。


 一家がエショフールに移住した際にもその木像は新しい住居に持ち込まれていた。

 ただし、納屋の奥深くに。


 しばらくして、やっとオルウェンが振り返ったとき、息子は彼が記憶を取り戻していることを悟った。


 顔の大部分は髭で覆われていても、唯一露わな眼だけが、雄弁にその内面の変化を物語っていたのだ。


『父が戻って来た』


 息子はそう理解した。

 先ほどまでとは異質な意思がその瞳の奥に宿っているのをまざまざと感じたのだ。


「記憶が……?」

 そう問いかける息子に、彼はゆっくり頷いて応えた。


 オルウェンの回復に、周囲の者たちはおおむね安堵した。

 だが、その切っ掛けとなった状況を聞くとアナは表情を曇らせ塞ぎ込んでしまった。オルウェン自身も何やら深い苦悩に悲しみに囚われている様子であり、訳の分からない子供たちは戸惑う事しかできなかった。


 若君の発熱が落ち着き、城に泊まり込んでいたジャンヌがやっと帰宅したのは、ちょうどその混沌とした状況の渦中だった。


 彼女にも何をどうししたものかは分からなかったが、何もせずにじっとしているだけという性格ではなかった。


 何か、何かできることは?


 年上の義兄弟姉妹を叱咤し、急いで夕食の準備を始めさせた。

 そうして時間を稼ぎながら何をすべきか、必死に考えたのだ。


 お嬢様、もとい奥方様に相談するのはダメ。今はご子息の事で大変なんだから。


 こんなとき、頼れるのはやはりあの女性ひとだ。


 微妙な空気の中で夕食を終えると、後片付けを義兄弟姉妹に任せてジャンヌは衛兵長ル・グロの邸を訪れた。


 ル・グロの細君アミシアは、かってのクルスローの厨房頭。さすがにエショフールではその座を古参に譲った(貴顕の集う大宴会を催す可能性のある大貴族の厨房は、彼女の手に余ったのだ)が、その代わり女中頭としてまた乳母たちのまとめ役を任されており、悪戯好きの悪童ぞろいの若君たちを力ずくで躾けてのけるという、ジャンヌの頼れる上司だ。


「あら、ジャンヌ! 若様の看病、ご苦労様だったわね」

「ありがとう。ねぇ、アリシアさん、ちょっと相談に乗ってもらっていいかしら」

 アミシアは一瞬、肩眉を上げて怪訝な表情を見せたが、すぐに快諾する。

「実は……」


 ジャンヌは(伝聞であるが)オルウェン一家に起こった出来事を語って聞かせたうえで自分はどうすべきか助言を求めた。

 ひとしきり話を聞いたアリシアも、額に皺を寄せて唸る。

「あの髭面に記憶が戻った、ってのはいい知らせのはずなんだがねぇ。なんでこうなっちまうのか。まぁ、アナの気持ちは判るけどねぇ」

「判るんですか?」

あの娘アナはずっと気にしていたからね、あの木像のこと」

「気に、していた?」

「アナはあの木像がオルウェンの昔の女だと思っているんだよ。妻である自分や子供たちと顔を合わせても戻らなかった記憶が、『昔の女』の写し姿ひとつで戻っちまったとしたら……そりゃ遣る瀬無いよねぇ」

「あぁ、なんてこと……」

「まぁ、『昔の女』ってのはあくまでアナが思い込んでいたことで、真実、どうだってのは判らないさ。なんせあの爺いはちっとも喋らなかったんだからね。もしかしたら実は母親なのかもしれないし、信仰している女神なのかもしれない。あぁ! うちの亭主ル・グロが戻ってきていればねぇ!」

 ル・グロさんが居たら、どうにかなっただろうか? 付き合いは深いが長くはないジャンヌには、オルウェンの古い人間関係は計りようがない。


「そうだ! 坊様ムワーメがいた!」

 唐突にアミシアが声を張り上げた。

「ぼ、坊様?」

「そうそう! ちょうど御用があってマルコ司祭様がエショフールに来ているのだった。あの方ならなにかよい考えを授けてくれるはずだわ」

「マルコ様って、あのサラセン人の?」

「そうそう! 大丈夫、あの方もご領主様やうちの亭主と同じくらい、オルウェンと深い関係の古馴染みだし、なにより知恵者だからね。きっとよい考えを授けてくださるわ」


 こうしてアミシアに伴われたジャンヌは、司教館にマルコ司祭を訪ねる事となったのだ。


 領主側近の奥方として、さらに女中頭として顔も名も知れ渡ったアミシアの訪問である。二人は待たされることなく取り次がれ、旧知のアミシアと聞いたマルコも直ぐに会ってくれた。


 そして、ジャンヌの話を聞いたマルコ司祭は快く彼女の頼みを引き受けた。

「それでは、明日さっそくオルウェン殿とアナ殿にお会いして話を聞いてみるとしましょう。なに、もとより様子を見に伺うつもりでございましたのでな」


 にっ、と人懐っこい笑みを浮かべる司祭に、ジャンヌの心に重くのしかかっていた何かが軽くなった気がした。


 翌日の昼前、約束通りマルコ司祭はオルウェンの居宅を訪れた。


 記憶が戻ったと聞きましてな、と話を切り出す司祭。


 昔語りの態でオルウェンの回復具合を確かめているのが、傍で聞いているジャンヌにも分かる。

 その様子からは、彼の記憶の回復状況はまだら模様であり、部分的に欠落したままの記憶も相当あることが知れた。


 やがて話は、あのオルウェンとジャンヌが出会った夜のことに至る。

 オルウェンは、闘いの記憶はあるが何故そのような事態になったかの経緯については思い出せない、と苦々しげに答えた。

「もしやそれを気に病んでおられたか。思い出せぬものは仕方がない。今生きている者の事が大事。気に召さるな」

「いや、そうではない。 ……御坊、告解を頼めるか?」

「告解? それはもちろん拙僧の役目なれば……」

 そのまま二人は納屋を臨時の告解室とし、ジャンヌら家人はそこに近付くことが禁じられた。


 長いようにも短いようにも思える時間が過ぎ、司祭とオルウェンが納屋を出て来たのは、陽も中天を過ぎてそろそろ夕食の支度を始めようかという頃であった。


 ジャンヌが眼を瞠ったのは、あのオルウェンが司祭に深く頭を垂れて謝意と敬意を示したことだった。彼のあのような姿は想像することも出来ないものだった。


 それからマルコ司祭は柔和な笑顔でジャンヌに声を掛けた。

「奥方様にお話があります。よろしいかな?」

「は、はいっ。ただいま呼んでまいります!」


「それには及びません、ジャンヌ。私はここにいますよ」


 母屋の戸口から姿を現したアナが、マルコ司祭の前で膝を折る。

「お久しぶりでございます、お坊様ムワーメ。お元気そうで何よりです」

「おおアナ殿、久しゅうございますな。貴女様もご機嫌麗しく、と申し上げたきところなれど……いけませんな、気の病がお辛い様子。だが、これから拙僧の申し上げる事で、少しは晴れるかもしれません。ご夫君からの伝言もございますれば」

「伝言?」

 直接言えばいいのに、と言い掛けたアナに司祭が重ねるように言う。

「ご夫君は再び、言を慎む誓約の履行に戻られました。誓約により、直接お話しすることができない故、拙僧が伝言を承った次第でございます」

「言を慎む誓約、でございますか?」

然様さよう

 二人は屋内に場を移し、しばらくの間、話し込む。


 それほど長い時間ではなかった。


 話を終えて退出する際のアナの表情は、打って変るほどではないものの、以前よりも落ち着いていた。


 そして、その日よりオルウェンは記憶を失う以前と同様、ほぼ口を開くことがなくなったのだった。


 


「とまぁ、これが次第でございます」

 褐色の司祭の語りをしわぶき一つ立てずに聞き入っていたジロワとル・グロだが、話が一区切りついたところで軽くため息をもらした。


「……それであ奴の誓約というのは?」

 ジロワが尋ねると、司祭は苦笑しながら応えた。

「本来、告解の内容を他人に告げるなど、聖職者として許されるものではありませんが」

「あぁ、これはすまない。仰る通りだ」

 慌てて謝罪の言葉を述べるジロワに、司祭は首を振って答えた。

「いやいや、ご当人がそれは秘密ではない、と仰っておりましたので今回は問題ございません。むしろよい機会なのでぜひご両所に伝えてほしい、と承っております。何分、課された義務が沈黙を守ることであるため、説明したくてもできなかったそうで……」

「沈黙の義務、とは……なぜまたその様な?」

 ル・グロがこらえきれない様子で問い掛ける。

「オルウェン殿がブリテン島ウェールズの出自であることはご領主様の見立てでございましたな。いかにもその通りでございました」

「ふむ」

「オルウェン殿は彼の地にてひとかどの地位にある戦士であった由。なれど、とある機会にうっかり口を滑らせて出た言葉のせいで、当時仕えておられた主君の姫君にいたく不幸な運命さだめをもたらしたとのこと」

 司祭の言葉を聞く二人は口中に苦いものが含まれたようだった。

「オルウェン殿はそのことを強く悔やまれ、『主君のためと確信できるとき以外には言葉を発することはしない』と誓約されたのでございます」

 ふと、何かに思い当たったようにル・グロが問いを発した。

「それでは、もしやあの木像は……」

「然様、オルウェン殿の失言で悲運をかこった姫君の姿を写し取ったもの、と」

 座にはしばし沈黙の霧がかかった。

 その静寂を破ったのは、ジロワ。

「……御坊。その姫君とオルウェンは……ただ主筋の姫と臣下というだけの関係だったのだろうか?」


 一呼吸、司祭は宙を見据えて何かを思案したようだった。


 そして、ゆっくりとジロワに視線を返し、告げた。


「その姫君とオルウェン殿は……幼い頃からの許嫁いいなずけであったとのことです」

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