第43話 ルーアン脱出

 灰色の空の下、行商人のものと思しき馬車が街道を南へと進んでいた。


 ルーアンから南南西へ四〇リュー(一〇〇キロメートル弱)、エショフールの北西近辺である。

 最近のノルマンディーは治安が急速に悪化していたが、ジロワ卿の治めるエショフール、モントライユとベレーム卿の領地は比較的安全という。


 余所の領地から略奪に来る軍勢など、盗賊と五十歩百歩である。

 訓練されていて重武装である分、より性質が悪いが、エショフール卿やベレーム卿らの大領主になると周辺の欲深どもも、おいそれとはちょっかいを出せない。ゆえに落ち着いていられるのだ。


 それでも当初エショフール卿は侵略に対してかなり手厳しい反撃を行っていたそうだ。大領主とはいえ舐められるような甘い態度ではすぐに付け込まれて蚕食される。


 そうした甲斐あって、いまでは『ジロワに手を出すな、割に合わない』という評判を勝ち取っていた。平和も安全も無料ではない。高い代償流された血が必要だった。


 御者台から周囲の様子を窺うが、街道を行き交う人影は見えない。

 こんなご時世に遠距離の旅行や交易に出かけるのは、リスクが高すぎる。

 それでも、この馬車は旅路へ出なければならなかったのだ。


 御者は声を潜めつつ荷台に告げた。

「もう、よろしいようです。大司教様」

 軽めの荷物を積み重ねた下に引いた敷布をめくって顔を出したのは、ルーアン大司教ロベールであった。


「うぅむ。さすがにこの老体には堪えるわい」

「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳なく存じます」

「なに、お前はようやってくれておる。パリに辿り着くまで、よろしく頼むぞ」

 御者に扮してはいるが、その正体は長年大司教に仕える従者である。

「畏れ多くございます。天気がやや怪しくなってきております。今宵はエショフールの街に宿をとりましょう」

「されば、リジウー司教ロジェが今はエショフールに在るはず。彼を頼ろう」

「承知しました」

 荷台に体を起こし、楽な姿勢をとった大司教は雨の気配を含んだ空を眺めながらこの数週間のことを思い返し始めた。




 母后グンノール妃の言葉もあり、イエモア伯ロベールのノルマンディー公襲位を黙認した大司教であったが、それが本当に正しい決断であったのか、確信できないままでいた。


 ロベール新公爵は未だ、配下に付いた者たちの教会財産侵奪を許している。

 ノルマンディー全土の教会指導者として、ノルマンディー公家の長老として、大司教はロベール公爵を諫め続けたが、のらりくらり躱されるだけで埒が明かなかった。


 大司教の苦悩は深かった。このままの状況が続けば、いずれ教皇庁との関係も悪化しかねない。

 既にノルマンディーは北方の異教の民ではないのだ。キリスト教世界の一員として組み込まれた現在、教皇庁との対立は公爵はもとより公家にとっても致命的な問題となるだろう。


 明日こそは、何としても公爵の言質をとってやらねば。ルーアン大聖堂の通り向かいの大司教館に戻り、寝所に入っても床に就くことなく思案に暮れていた大司教に、つと呼びかける声があった。

「大司教様、怪しき者たちが館を囲んでおる様子にございます」

「何!?」

「およそ、四、五十。声を抑え灯りも用いずにおりますが、館はすっかり囲まれております。いずれも武装している模様」

 やられた? 公爵か? いや、違う。公爵ならこんな荒っぽい手を用いるまでもない。ならば、その手下の強欲どもか。なんたる不遜!

「大司教様、このさまは危うくございます。僭越ながら、一時いっときお隠れになられるがよろしかろうと愚考いたします」

 長年仕えて信頼厚い側近の騎士の進言に、大司教は頷いた。

 

 急ぎ寝所を出た大司教は騎士と従者を従え、館の隅に位置する納戸へと移動した。ここには外の民家に通じる秘密の抜け穴がある。

 その存在を知るのは大司教自身と側近の騎士のみ。館に仕える使用人たちも知らない抜け穴だ。連れて来た従者も、こんな抜け穴があったとは、と驚いている。もし襲撃者が残された使用人たちを拷問したとしても、知らないものは答えようがない。


 抜け穴を通り、出口が設けられた民家で変装した騎士と従者、大司教は夜明けを待ってルーアンを脱出するため市門へと向かった。(夜明けまでは都市の門が開かないのだ)

 門には本来の役人の他に、物々しい武装をした兵士が数人張り付いていて、通過する馬車を片っ端から検分していた。

 昨晩の大司教館襲撃で大司教本人を取り押さえそこなった襲撃者一味が張っていたらしい。

 あの紋章は……ええい忌々しい! モンゴメリーの蛇モンゴメリー卿ロジェめ、あ奴か!


 ロベール一世が公爵位を襲位した直後から真っ先にその支持を表明し、教会財産の侵奪にも殊更熱心なモンゴメリー卿は、教会勢力の代表者たる大司教にとっては目の敵である。相手の側でもそうした感触は伝わらないはずがなく、これまでは互いに距離を置きながら牽制し合っていた。


 その蛇めが昨夜はとうとう本性を現しおったか。


 悔しきことこの上ないが、今の状況では為す術もない。まずはルーアンを脱して身の安全を図らねば。


 とはいえ、この門を通り抜けることができなければそれすらも危ういのだ。

 緊張のせいで口の中がカラカラに乾く。


 物々しい気配に腰の引いていた旅人たちも、このままではどうしようもなくおっかなびっくり門の前に行列を作り始める。

 フードを目深に被って変装した側近の騎士は何かを探す様にしていたが、やがて目的のものを見つけ出した。


 騎士は大司教が潜む馬車の荷台に近付き、周囲に気付かれぬよう小声で語りかけた。

「……大司教様、ご安心召されませ。身供みどもが必ず、猊下をお逃がし申し上げます。お任せあれ」

「だが……」

「お静かに。さ、しっかりと声を抑えられませ」


 そして、騎士は御者を務める従者に何やら耳打ちすると一旦馬車を離れ、ぬかるみに車輪を取られて難儀していた一人の老いた行商人に声を掛けていた。

 騎士の手伝いで老行商人の馬車はぬかるみを脱出することができ、騎士はそのまま行商人とともに門へと移動し始める。

 騎士の目配せを受け、御者役の従者は大司教が潜んでいる馬車をその行商人の馬車の前へ自然に割り込ませた。


 列の先頭では、正規の門番ではないモンゴメリー卿の手下たちが荒っぽいやり方で通行人を取り調べている。


 ただ乱暴に荷物をひっくり返すだけではなく、金目の物が見つかればちゃっかり自分の懐へ納めるのも忘れない。

 朝っぱらから市門に追剥ぎが居座った様なもので、迷惑千万この上ない。


 列は遅々として進まないが、それでもやがて大司教が隠れ潜む馬車が取り調べを受ける番がきた。

 御者台に座る従者は緊張が顔に出ないよう、必死に無表情を取り繕う。 

 人相の悪い男が馬車の荷を手荒にひっくり返して舌打ちする。

「ちっ、けち臭い荷物しかねぇぜ! おい、爺! てめぇその懐に、」

 金目の物を隠し持っていないか、そう質そうとした男の耳が、背後の微かな金属音を捉えた。


 強盗紛いの振る舞いに及んでいるとはいえ、荒事の中で生きてきた男である。

 顔つきが変わって座った眼でゆっくり振り返った。

 聞きなれた、武具の発する金属が擦れ合う音。


「おい……そこのテメェ。顔を出しやがれ」

 すぐ後ろで順番を待っていた行商人の馬車。その傍らに立つ変装した騎士に向かって、モンゴメリー卿の手下が抜剣した剣先を突きつける。

 周囲の仲間たちも状況を察知して行商人と騎士の馬車を取り囲んだ。

 列に並んで順番を待っていた周囲の旅人たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。


 急な展開に訳も分からず真っ青になる行商人の隣で、ゆっくりと騎士がフードを下ろす。

「貴様……その顔は覚えてるぜ。大司教の腰巾着野郎じゃねぇか。そっちは憶えてねぇだろうが、いつか嬲り殺しにしてやりてぇと、ずっと思っていたぜ」

 抜剣したモンゴメリー卿の手下たちが騎士を取り囲み間合いを詰める。

 騎士もマントを外し隠し持っていた短剣を引き抜いた。

 刹那、睨み合った両者だが瞬く間に激しい剣戟が始まった。


 より激しくなる周囲の混乱の中、大司教を乗せた馬車は門の外を走っていた。

 事前に騎士から言い含められていた従者は騎士たちがモンゴメリー卿の手下たちと衆目を集めている最中、置いてきぼりになっていた本来の門番に袖の下を渡してそそくさと門を通り抜けていたのだ。

「すまぬ……」

 大司教にできることは胸の内でそう呟くことだけだった。



 

 ロベール大司教はノルマンディー領東部の要衝エヴルー伯爵を兼ねている。


 東部の要衝とはいえ、東西に延びる形のノルマンディー領の中では、エヴルーはルーアンからみてほぼ南の方角に位置した。

 ルーアンとパリを結ぶ線の、やや西寄りに位置するのがエヴルーである。

 ゆえにエヴルーは対パリ、つまり対フランス王国の防衛拠点でもあり、そしてパリへ向かう経路の途上でもある。


 大司教がルーアンにある間、エヴルーの支配は長子リシャールに委ねられており、ルーアンを脱出した大司教が向かうとすれば、当然エヴルーが第一の目標となる。

 そして、それは大司教を追う者達にとっても自明の事であった。

 南へ向かう街道は厳しく封鎖されていると見た方がよいだろう。


 そこで大司教一行はまず、南西のブリヨンヌを目指した。

 そこからベルネーを経由してガセ(ガセの領主は大司教の子息であった)、エショフールと、エヴルーを大きく迂回するように移動する。


 最終目的地はパリだ。


 まずはパリへと辿り着き、ランス大司教に保護を求めるのだ。


 ルーアン大司教ロベールは、新ノルマンディー公に対し武力ではない戦いを挑むことを決意したのだ。

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