第44話 破門と聖職禁止令
一〇二八年ルーアン大司教の名の下に、ノルマンディー公ロベール一世の破門、およびノルマンディー領内の聖職者に対する聖職禁止令が宣告された。
無事パリへと逃れてランス大司教の保護下に落ち着いたルーアン大司教ロベールは、早速ローマの教皇庁と連絡をとってノルマンディー公の破門宣告と聖職禁止発令についての了承を取り付けていた。
大司教の対抗手段の本命は聖職禁止令である。公に対する破門宣告は聖職禁止令を発する上での前提・建前として必要だったのだ。
もしノルマンディー公ロベール一世に従う者たちが信仰篤い者たちであれば、破門宣告は公と臣下を分断し、ロベール一世に対する深刻な打撃となりうる。
だが、実際にはその真逆で、ロベール一世に従う者たちの多くは教会財産に対する侵奪を喜んで実行している様なならず者ばかりだ。これでは臣下の離反は期待出来ず効果が薄い。
また公が破門されたことで、周辺勢力にとってはノルマンディー領侵略の障害が減る(キリスト教徒同士では実力行使で領地を奪うことができない、という『原則』が適用されなくなる)が、外敵が現れれば逆にロベール公に対する求心力が高まり意図せぬ結果となる恐れもある。
一方、聖職禁止令とは、聖職者に対してその職務の停止を命じるものだ。
この時代の聖職者、地域の教会の役割には現代の地方自治体の住民サービスにあたるものが含まれる。
結婚の手続きと記録、赤子が生まれて洗礼を受けるとき、逆に人が死んで埋葬されるとき。民の生活に深く関わっていたのが教会である。
聖職者・教会がその業務を停止することで、結婚も、赤子の洗礼も、そして死者の埋葬も全てが滞る。
人の世の都合がどうなっていようと、死は待ってくれない。
埋葬できずに腐敗してゆく死体は切実な問題であるし、結婚の記録や新生児の洗礼も将来の見通しが不明では社会が動揺する。
信徒たるノルマンディーの民を困らせることは大司教の本意ではないし、こうしたサボタージュが諸刃の剣(追い詰められた信徒が棄教に奔ってしまっては本末転倒)であることは重々承知していたが、今現在有効な対抗手段はこれしかないのだ。
外部勢力を引き込んでノルマンディーを戦火で焼き尽くすことなど、公爵にとっても大司教にとっても望まざる展開であることは一致している。
大司教の狙いはあくまでノルマンディー領内の教会保護と原状回復であって公爵をその地位から引きずり下ろすことなど考えていない。
聖職禁止令による領内の混乱を通して教会組織が果たしている役割を為政者・統治者である公爵に認識させ、もってその保護を獲得することにある。そして、その狙い通りノルマンディー領では社会生活上の混乱が広がりつつあった。
そうした状況下にあって、当然のことながら世俗領主の全てが新ノルマンディー公ロベール一世に服していた訳ではない。物欲よりも信仰心が勝る者や独立心が強すぎる者など、決起に至る者もいたのだ。
一〇二八年ベレーム卿ギョーム一世は教会財産の保護と回復を訴え、ノルマンディー公ロベール一世に対して挙兵する。
エショフール卿となっていたジロワもその報を受け取り、心を痛めていた。
ベレーム卿との間に臣従契約を持つジロワだが、ノルマンディー公との間にも同様に臣従契約が発生している。
今回、ノルマンディー公側からの従軍要請は無かった。
一方、ジロワがベレーム卿に対して負っている従軍義務はあくまでクルスロー卿としてベレームおよびクルスローから一定距離(一日分の行軍距離)での戦闘に関してである。
従軍しない場合に代替として負担する軍役金の額も事前に決まっているが、もともと小身のクルスロー卿について定められていた賦課であるから、今やエショフール卿兼モントライユ卿となったジロワの身代であれば難なく支払うことができた。
この時点において、すでにジロワは消極的ながら新ノルマンディー公支持を表明していたため、ベレーム卿側への参戦は見送ることとなった。
とはいえ、ジロワに出世の機会をつくってくれた恩人である。心情的にはベレーム卿への贔屓の気持ちがあった。なるべく酷いことになる前、ほどほどの所で無難に手打ちになってくれればよいのだが、というのが正直な思いであった。
だが、いまだ反抗勢力が各所に存在し、いまだ権力基盤の安定しないロベール一世と、ノルマンディー領南部にあって『君主』との渾名で呼ばれる大貴族のベレーム卿との衝突である。
そう簡単に決着はつかず、もつれた挙句にしびれを切らした公爵側が譲歩して和平を結ぶ。それがこの戦の展開に対する大方の予想であった。
ベレーム卿の目論見も、本格的な戦いを求めてのものではなく、公爵の自重と政治的な譲歩を引き出すための駆け引きの一手段であったのだ。
「大司教を取り逃がしてしまったのが誤算だったな」
「御意。面目ございません」
ファレーズ城の一室。イエモア伯時代からそのまま使用している執務室内に在るのは、今やノルマンディー公となったロベールとその側近である侍従フルベールの二人だけ。
ノルマンディー公位に就いたものの、いまだノルマンディー全土にロベール一世の支配は確立していない。
ファレーズ城を中心とするイエモア伯領は依然として新公爵の本拠地であった。
既に日は暮れて深更、燭台の弱い灯りが二人の顔を薄暗く照らす。
「ベレーム卿の背後にいるのはやはり大司教か?」
「まだ裏は取れておりません。が、卿の要求から鑑みてほぼ間違いないかと」
ベレーム卿はノルマンディー領内の教会や修道院に対する保護と賠償を要求していた。
「……それでお前の献策とは?」
「そろそろ聖界とも妥協の時機かと存じます」
「そうか」
もともとロベール公には教会勢力に対する敵意など無かった。初期段階で手勢を確保するための『原資』として、手軽に切り取り放題できる教会財産を利用したに過ぎない。そういう面ではけっして敬虔な信徒とは言い難いのだが。
既にノルマンディー公位を確保した以上、方針の見直しを図る時期ではある。今後は教会寄りの大貴族たちとの関係を改善してゆかなければならない。
だが。
「その前に、ひと仕事しておくとするか」
「仕事、と申されますと?」
ロベール公は口の端を歪めて
「
続けて説明された公爵の目論見を、フルベールはじっと傾注したのちに
「畏まりました。御心のままに」
とだけ答えて公爵の御前を辞去した。
ノルマンディー公ロベール一世の、ベレーム卿謀反に対する反応は素早かった。
ベレーム卿側や世間が、実際に戦いに及ぶことはないと高を括っているのを見越した上で手持ちのありったけの兵力を集中的かつ迅速に動員し、数日のうちにベレーム城を包囲せしめたのだ。
ジロワらに招集が掛からなかったのもそのための時間を惜しんだためだ。
戦力配置や財政的な発想からは最適解とはいえない選択であるが、政治的手段として挙兵し、実際に戦端を開く気の無かったベレーム卿は狼狽してすぐさま降伏を選んだ。表面的にノルマンディー公の選択は大成功と見えた、が。
「諸卿はこのまま身を竦め、ただ指を咥えて見送るだけのおつもりか!」
燭台を灯してもなお薄暗いベレーム城の広間でタルヴァスが吠えた。
これ自体はいつものこと、である。
戦場ではどこに居るのやら存在感のないタルヴァスが、軍議の席でだけは大言壮語勇ましく振舞う、というのは。
ただ、今回はいささか事情が異なった。
一戦も交えずに降伏、というのはさすがに弱腰に過ぎる。ベレーム卿傘下に参集した者たちの思いは様々であった。
戦に参加することなく軍役を果たせて内心、得をしたと安堵するもの。そして不甲斐ない有様に、一矢報いてやりたい、と憤激するもの。
ワリン卿亡き後、ベレーム卿の最年長の子息であるフルク・ド・ベレームは、一同の意見が割れて困惑していた。タルヴァスめ、余計なことを……。
主戦派を先頭になって焚きつける弟を睨みつけるが、タルヴァスの方は目を合わせようとしなかった。
上座の父ベレーム卿ギョームの方もちらと見やるが、憔悴しうっそりと黙したままで何もしようとしない。
父ももう隠居の
ここは次代の指導者たるフルク・ド・ベレームが取り仕切らねばなるまい。
だが。
既に正式に『名誉ある降伏』の手続きを経て寛大な赦しを得た後である。ベレームの仕業と明白に分かるような衝動的な行動はとれない。
とはいえ、不満を訴える者たちをただ抑えるだけ、というわけにもいかない。
フルク・ド・ベレームが跡目を継ぎベレーム卿となったのち、大事にしなければならないのは今不満を抱えている戦う気概のある者たちの方なのだ。
結局、紋章その他証拠となり得るものは全て外した上で帰還途上のノルマンディー公の軍勢に奇襲を敢行することとなった。
いかに証拠を消そうとも誰か捕虜となる者が一人でも出れば企みは破綻する。
襲撃は行うが、決して深追いしてはならない。必ず全員無事に帰還しなければならない。その点については厳重に念押しされた。
「兄上、全員が
特徴のある鎧では特定される危険があるため、みな同じような粗末な雑兵用の鎧を着用することにしていた。だが、そうすると守り通さねばならない『貴人』の見分けもつかなくなる。
「仕方あるまい」
「我ら兄弟だけでも徴となるものを付けてはどうか? 例えば、この白布のヒレなど結び付けておけば、我が方の間だけでも兄上がどこにおわすか分かりやすい。紋章などと違って素性もばれぬ」
「ふむ」
それ位であれば……。
フルク・ド・ベレームはタルヴァスの進言を容れ、自分の兜に白布のヒレを括りつけた。同じく次兄のロベールとタルヴァス自身の兜にも同じ目印が結わえられた。
「よし!
応! と、鬨の声を上げた騎馬の一団が城門から繰り出してゆく。
珍しく手際のよいことに、既にタルヴァスが間者を放ち、ノルマンディー公の軍勢が今夜ブラヴォンの森の端で野営していることを調べ上げて報告していた。
タルヴァスの兜の下の暗い笑みは、出撃する隊列の中で彼が最後尾に位置していたことにより誰にも見られずに済んだ。
ベレーム勢の襲撃隊がブラヴォンの森のノルマンディー公軍野営地に追いついた頃、既に日はとっぷりと暮れていた。
濃い闇の先に幾つか焚火と篝火の光が横長に広がっている。あれが公爵の軍勢か。
タルヴァスの放っていた先行する物見の者たちからは敵勢がすっかり油断して武装を解いている、との報告が届けられた。
今ぞ!
フルク・ド・ベレームは突撃を命じた。敵陣に動きはなく、気付かれた気配はない。
いける! と、頂点に達した気分の直後、フルク卿は言い知れない不安の闇に包まれた。
なんだ、これは?
あまりにも手応えが無い。まさか……。
周囲から鬨の声とともに激しい弓弦の音が響く中、フルク・ド・ベレームの思考は結実する前に途絶えてしまった。彼は鎧と
野営地の地面に横たわって寝ている兵士だと思われていたのは藁束を布でくるんだ偽物だった。
暗闇の中、状況が分からずベレーム勢には気付かれていなかったが、実はフルク・ド・ベレームほかベレーム家一門の居る辺りは集中的に狙い撃ちされていたのだ。
フルク・ド・ベレームはほぼ即死、弟のロベールも重傷を負った。
ベレーム卿の息子達の中でただ一人、タルヴァスだけは無事である。最後尾であるのをいいことに彼は襲撃開始前に「白布のヒレ」を外させていたのだ。
待ち伏せていたノルマンディー公の弓兵たちは乏しい灯りの中、微かに目印となる白布を目当てに矢衾を浴びせた。
事前の情報通り、に。
もちろん情報の出所はタルヴァスである。
前公爵リシャール三世の暗殺に関して、タルヴァスが求めた見返りは「ベレーム家継承」のための助力であった。
ベレーム卿の長子で最有力の継承者候補であるワリン卿がドンフロンで疑惑の死を遂げた際、暗躍していたのはフルベールの配下である。
邪魔者を、自分で手を下さずにお互いに消し合う。なるべく疑惑が自分に向き難いように。
通り魔殺人の様に被害者と容疑者の間の関係が薄いと捜査が難航する。
ワリン卿不審死の件では(もちろんベレーム家の兄弟たちは受益者として巷には疑われたけれども)具体的な証言・証拠を得ることはできず、事件は迷宮入りで人々の関心も急速に薄れ忘れ去られようとしていた。
ノルマンディー公リシャール三世の件については、利益を享受するのがロベール一世ただ一人、という状況もありその効果は薄かったのだが、それでも状況証拠のみで物証や証言などは一切なく、反ロベール派が勢力を統合し切れない原因となっていた。
つまるところ、タルヴァスとロベール一世の協力関係は一応、うまく機能していたのだった。
ただし、ロベール一世の側はノルマンディー公の地位を得たことで一旦目的を達しているが、タルヴァスの方はまだ多くの障害を乗り越えねばならない。
タルヴァスはベレーム卿継承権者として実質最下位、末席である。
上には競争相手となる四人の兄(うち一人は早くから信仰の途へと進んでいるため、実質三人。一人はすでに暗殺されていて残りは二人)がいた。
これらを皆殺しにせねばならないのだ。
タルヴァスは脱いだ兜を荒々しく投げつけた。
壁に激しくぶつかり跳ね飛んだ兜が床を転がってゆく。
「ええい、役立たずが!」
襲撃に失敗したベレーム勢は這う這うの体で帰城したが、さきほどベレーム卿の子息らのうち、最年長のフルク・ド・ベレームはほぼ即死、次弟のロベールは重症ながら一命をとりとめたことが報告されていた。
タルヴァスとしてはここで二人の兄を一気に片付けてしまいたかったのだが、その目論見が外れたため憤激しているのである。
タルヴァスの従者、赤口のラウルことジャンは主の怒りのとばっちりを食わぬよう、気配を消して壁際に縮こまって嵐が過ぎるのを待つのだった。
「仕留めきれなかったか」
「残念ながら」
ファレーズ城の執務室で、帰還したフルベールが主ロベール一世へ報告を行っていた。
「まあよい。無傷のままでは眼が離せなかったが、これでしばしの間はベレームも動きがとれまい。結果よし、だ」
「恐れ入ります」
「それよりも気がかりな動きの報告があった。近う寄れ」
「は、御免」
フルベールがロベール一世の傍らに跪くと、主が耳打ちするように内容を告げた。
「……ブルターニュ公が」
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