第12話 ブルーベルの森
ジロワは城を抜け出す人影を追って宿館を出た。
通用口には見張りがおらず、閉ざされてもいない。不審な状況ではあるが、不都合ではない。
裏手に広がる疎林へ続く
ジロワの姿を認めると、その人影は林の中へ駆け出す。遅れじ、とこれを追う。
樹間には、月光の下でもそれと分かる青紫の
ブルーベル
疎林の林床を覆い尽くす鮮やかな色彩の敷布は、ブルーベルの群生だ。
北部ヨーロッパに広く分布し、四月と五月の境の頃、細めの釣り鐘型で青味の強い紫の花を咲かせる。
春、この花の色で染め上げられた幻想的な風情の森は『ブルーベルの森』と呼ばれる。
森に分け入る一本道をしばし進むと、やや開けた場所に出た。
空地の中央にジロワを誘い出した娘が背中を見せてたたずむ。
月光とは色味の異なる蒼い花の海が足元に広がっている。
「
ジゼル嬢は、振り返りつつ囁いた。
「少々、城の中ではできないお話をいたしたく、お越しいただきました」
二人の関係は、単に客と主人の娘というもの。城内の密室で面会など、できるものではない。
「……
「窓の鎧戸に石を投げ当ててお起こしするつもりでした」
「そう上手くいきますかな?」
「上手くいきました。……鎧戸が開かねば、それまでのこと」
周囲を探る。二人、いや三人か。会話が聞き取れるかどうかという距離に伏せた護衛の気配。
樹間が広く月明りが届くので人影も確認できる。抑止力となるため、あえて隠そうともしていない。
さすがに一人きりで夜の森に男を誘い込むほど不用心ではない、か。
「それで、お話とは?」
ジロワの問いかけに、ジゼルは一呼吸おき、やがて決意を定めたように切り出した。
その内容に、一時ジロワは
だが、彼に宿った熱情はすでに選択の余地を奪っていた。
「あぁ、めでたい!」
なぜか永らく婚姻を受け入れようとしなかった一人娘が、やっとその気になってくれた。
エウーゴン卿は積年の懸案が解決し、心が浮き立っていた。いささか歳のいった相手で、にわかに成り上がった感はあるが申し分ない名声の騎士である。
年老いてから生まれた一人娘である。当初こそほかの男にくれてやるなど我慢ならん、というものであったが、その娘が立て続けに求婚を拒絶するようになると次第に不安が高まり募っていた。
一代で身代を成した老齢のエウーゴン卿にはほかに継承者たる子弟はいない。
娘が未婚のままであれば領地を受け継ぐものがいなくなり、臣下も路頭に迷ってしまう。
また娘だけでは軍役を果たすのは困難で、
もっとも義務不履行で即、領地没収となるかどうかは主君と臣下の(軍事的)力関係による。
おいそれと手を出せないほど強力な臣下の場合、主君側は臣下の力が弱まるまで待ち続ける。
好機至れば昔の義務不履行を大義名分として利用する。消滅時効など存在しない時代だ。
結局実力がものをいう世ではあったが、キリストの信徒同士での争いには諸々の制約が存在していた。義務不履行による領地没収だとか継承権の主張などという大義名分は口実に過ぎない。が、その口実が必要とされていたのだ。
のちの征服王によるイングランド征服でも、そうした制約への対処が見られる。イングランド王国もキリスト教徒の国であったため、その征服を正当化するためには様々な条件を克服する必要があったのだ。
イングランド王ハロルド(・ゴドウィンソン)がまだウェセックス伯だった頃、乗船の難破によりノルマンディー公ギョーム二世(征服王)の捕虜となった。
ハロルドはギョーム二世に対して臣従を誓約させられた(これは後のイングランド王位継承についてギョーム公へ協力することを含ませていた)が、エドワード証誓王の死後、ハロルドはギョーム公を差し置いてイングランド王として即位する。ギョーム公は、これを誓約違反として糾弾した。
またギョーム公は、後にカンタベリー大司教となるベック修道院長ランフランクの仲介により、ローマ教皇との関係を深め、教皇から教皇旗を授与された。
これはキリスト教徒同士の戦いで正当性を主張するために必須の『錦の御旗』である。
そして教皇から課された、戦後の大修道院(ヘイスティングスの戦場に遺跡が残こるバトル修道院がそれである)建設の履行もこれに含まれる。
征服王によるイングランド侵攻いわゆるノルマン制服というのは、このように軍事行動だけではなく政治的にも周到な準備の上に行われた事業であった。
一方、相手が異教徒(ローマ教会に対する異端宗派も含まれてくる)に対してはそうした制約は存在しない。
異教徒から奪った土地は切り取り勝手である。のちの十字軍遠征に積極的に関与した騎士・領主たちの動機にはそうした事情もあった。
さて、話を戻してエウーゴン卿である。
ジロワとジゼルが昨夜、城の裏手の森で会っていたことは護衛の者から報告があった。
そこでどのようなやりとりがあったのか知れない。だが、今朝になって娘は、ジロワとの婚約を望むと申し出をしてきた。
はやる気持ちを
さればいずれの気も変わらぬうちにとばかり、昼過ぎにはエショフールの教会司祭を急かして早速婚約公示の手続きを済ませた。後は公示期間の満了する四十日後以降の都合良き日を定めて正式に婚姻の誓いと祝宴を執り行うこととなる。
だがエウーゴン卿ほどの大身となれば、祝宴の賓客への招待や準備だけでも大事である。公示期間終了、即というわけにはいかない。また、婚姻後の夫婦の居所や領地経営についての取り決めなど処理せねばならない雑事は山ほどある。おそらく数か月、ことによると来年のこととなろう、というのがエウーゴン卿に仕える老練な家宰の見立てであった。
もっとも、この件で頭を悩ませるのは当人達ではない。ジロワ側もエウーゴン卿側も、諸事を取り仕切るのは結局のところそれぞれの家宰の役目となる。
エウーゴン卿の家宰は早速手配に取り掛かかり、ジロワも早急にクルスローへ帰還する必要があった。クルスローではまだ誰もことの成り行きを知らずにいる。早急にロジェと打ち合わせし、協議のために彼をエショフールへ派遣しなければならない。
婚約したばかりではあるが、ジゼルと二人きりの時間も取れず出立となった。
エウーゴン卿とジゼルは見送りのためエショフール領の外れまで同行してきた。大勢の伴を連れての盛大な見送りである。エウーゴン卿の喜びの大きさが形となって表れていた。
いざ惜別のとき、ジゼルは微笑みながら、
「一度、クルスローのご領地をお訪ねしたく存じます。ブルーベルの花の終わらぬうちに」
と一時の別れを告げた。
「ぜひお越しくだされ。お待ちしております。では」
別れを告げ、見送りの一団から離れて馬を進めても、その姿が見えなくなるまでジロワは何度も振り返り手を振っていた。
やがて、完全に視界の届かぬところまで来ると、やおら馬腹に拍車を入れ、
「さて、急ぐぞ森番!」
と駆け出した。
後に従うオルウェンは、相変わらず長髪と髭に覆われていてその表情は窺えなかったが、一つため息をこぼすと主を追ってこちらも馬を駆け出させた。
馬を駆けさせながら、ジロワは昨夜の森での会話を思い起こしていた。
「結婚して領地を手に入れたら、その後は私を修道院に押し込めてしまえば後は思いのまま、どうせ父は長くは生きられない。そう言い放った求婚者がかって居たのです。たまたま侍女が通りがかってそれを耳にしました」
「それは……だが、しかし……」
「ええ、仰りたいことは分かります。侍女一人の証言であって、真偽は定かではありません。彼女が何らかの意図を持って偽りを述べた可能性はございます。ですが、それはそれとしても別に気付かされたことがあったのです」
「父の少なからぬ所領は、妾と不可分であり求婚者の方々は当然それを前提にしている、と。では、先ほどの御方の様な考えを持たない人を、妾はどのようにして選べばよいのでしょう?」
エウーゴン卿に近親は彼女一人だ。卿が亡き後、彼女を保護できるのは夫たる者のみだが、その夫が味方でなければ彼女は孤立無援になる。
「……某も子供の頃、夜中に抜け出して森を徘徊したことがあります」
「え?」
「まぁ、見つかってはこっぴどく叱られましたが。実際、夜の森は獣がうろつく危険な場所です」
ジゼルはジロワが何を言おうとしているのか、図りかねて戸惑っている。
「クルスローにも、ブルーベルの森があるのですよ。某もそれに魅せられておりました。貴女にもお見せしたく存じます。我が領地へお越しくださいますかな?」
「……それは、父の領地を捨てて、ということでしょうか?」
「お嫌ですか? 小さな領地で富貴に縁のない土地ではありますが」
つまり、駆け落ちの誘いである。身一つで自分のところへ来い、と。
平時のジロワでは、とても言えない内容である。
実際のところ、駆け落ちしようがエウーゴン卿の領地を相続するのはジゼルであることに変わりはないので意味はない。
だが、激怒したエウーゴン卿が領地返上や譲渡という行為に及べば、現実となる可能性もある。
領地など無くても、貴女が欲しい。ジロワが訴えたのは、その覚悟だった。
ジゼルは俯いてしばし沈黙したのち、城への戻り途に歩を進めた。
ジロワとすれ違う際、下を向いたまま
「明日、父に貴方様との結婚を願い出ます」
と告げた。
そして、数歩進んだところで振り向きざま、
「まさか、お断りになど、なられませんよね?」
そう言って少し涙目の笑顔をジロワに見せたのだった。
それが昨晩、月夜のブルーベルの森での二人のやりとりであった。
ジロワが帰還するとクルスローは大騒ぎとなった。
出立する前は仕方なく義理を果たしに行く風情だった領主が、一転ノルマンディー公宮廷の大貴族の一人娘との結婚を決めてきたというのだ。
最も同情されるべきは家宰ロジェであろう。
現代風に例えて言うなら、これは大企業と新興中小企業の合併交渉の様なものである。手をこまねいていれば大に飲み込まれてしまう。
主君ジロワを飾り物にしないためには、少しでも有利な条件で話をまとめなければならない。一方、婚礼自体をつつがなく取り仕切る責任もある。その交渉と実務を一手に担うのはロジェなのだ。
ジロワの力となるためには、我欲ではなく自分たちクルスロー領の面々が側近としての地位を確保しなければならない。
相手は百戦錬磨の大貴族の家中である。厳しい交渉であることは間違いない。
「家宰殿お一人では大変でしょう。及ばずながら、拙僧もお手伝いいたしましょう」
マルコ修道士の協力の申し出は心強い援軍であった。
剣弓の戦ではル・グロやオルウェンに任せきりだが、これは自分の戦場だ。
「苦労を掛けるが頼むぞ、ロジェ」
主君の
「お任せあれ」
当事者たちがそれぞれに激動に身を委ねている中、報せを受けた周辺のものたちは、あるいは落胆し、あるいは得心し、そして新たな怒りを生み出すものもあった。
その怒りが、次なる悲劇の引き金となることを、まだ誰も知らない。
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