第38話 動乱(一)
エウーゴン旧領を受け継いだジロワがモンフォール・シュル・リスル卿ユーグの妹、ジゼル・ド・モンフォールと婚約・結婚したとの報せは宮廷を中心とするルーアン近辺など北中部ノルマンディーに瞬く間に伝播した。
ジロワの婚姻関係について現代に残る史料上、妻としてその名が明らかになっているのはモンフォール卿の妹ジゼルのみである。
(ジロワが功名を挙げた)ベレーム卿とメーヌ伯との間の戦は一○二○年のことである。
この戦功で名声を得たジロワはエウーゴン卿の娘との婚約を得るが、結婚以前に婚約者親娘の急死が続き、ベレーム卿の仲介でルーアンに上ってノルマンディー公から遺領継承を認められる。これらは前述の戦と同年あるいはそのすぐ後である。
そして、ジロワとジゼルの結婚はそのルーアン上洛以後になる(一説にはその帰途上。本稿はその説に拠っている)
このジゼルとの結婚を、一○○五年から一○一○年までのいつかの時点とする説もあるが、その場合エウーゴン卿の娘との縁談の方が後に起きた事となり、矛盾が増加する。
エウーゴン卿の娘との縁談が一○二○年としたとき、ジゼル・ド・モンフォールがそれ以前に死去もしくは離婚(正確には婚姻無効)されていなければならなくなる。
だが、この年以降に生まれたジロワの子ら(アルノーやギョームなど)がおり、少なくともこの婚約者の死の後にもジロワの伴侶となった女性がいた事は確かだ。
ジゼル・ド・モンフォールは一○七七年死去とあるので、ジロワとジゼルの結婚がエウーゴン卿の娘の死後、一○二○年以降であると考えた方が自然である。
ところで、ジロワの娘アワイズがグランメニル家に嫁いで長男ユーグを産んだのが一○三二年である。
もしアワイズがジゼルとの間の娘で、両者の結婚後に生まれた子だとすると、アワイズはどんなに年齢が高くてもぎりぎり十二歳で最初の子を産んだことになる。不可能ではないが、早過ぎる。
女性側に早婚の傾向もあった中世ではあるが、それでも出産年齢については早くても十六歳以降が普通だった。
また、年代記作者オーデリック・ヴィタリスの記述にフルクを庶子、とする記載がある。
これらのことから、ジロワにはエウーゴン卿の娘との縁談以前に(教会に認められた形式の婚姻関係ではない)妻がいた、と考える方が辻褄は合うのだ。
そしてジロワが「いなくなった後」、フルクのみが一族の多くと異なる行動をとったことの原因も関係しているのではないかと考えられる。
ジロワ家の次世代を担った主要人物は、ほぼジゼルとの間に生まれた子たちだったのだ。
アルノー、ギョーム、”
エーメンガードとアワイズは早々に他家に嫁いでおり、「後妻」の子らが多勢を占める家中では、フルクは少数派だった。
また、ジロワ一族は(年代記の記述によると)家長が家産を単独継承するのではなく、一族の合議制で家政を運営する方針を取っていた。前妻の子で少数派のフルクは肩身の狭い立場であったろう。
ジゼル・ド・モンフォールとの結婚と並行し、エウーゴン領の継承が進められていた。
ジロワは長子フルクにモントライユ(・ラルジェ)の半分を領地として与える。
フルクはブリヨンヌ伯に仕えたままであったが、早晩騎士叙任を迎えられる見通しだ。
また、娘婿ワセリンにもモントライユの南南東二リュー弱(五キロ)ほど離れたエシャンフレの地を封領として与えた。
エシャンフレはシャレントンヌ川沿いの地で、川を渡す橋の架かった地である。
『橋を渡す』という事業が教会から『奇跡』と認定される時代のこと、エシャンフレは政治・経済・軍事上の重要な拠点であった。
また永年ジロワの片腕として仕えてきた家宰ロジェもメルルローの領主としての地位が与えられた。
こうして、旧エウーゴン領内の把握を進める中で分かってきたことがある。
エウーゴン卿は、あまりそちらの方面に関心がなかったのか、領内には教会のない空白地帯が目立った。さらには空席の司教座教会まで存在したのだ。
ジロワは私財を投じ(具体的には教会建設費の負担と運営のための教会領の寄付だろう)、領内に六つの新教会を設立した。
そのうち二つはヴェルヌッセに建立され、一つは『異邦人の医師』聖パウロに捧げられ、一つは聖母マリアに捧げられたものである。
そして、聖パウロ教会の司祭には本人が重ねて辞退するところを粘り強く押し切ってマルコ修道士を迎えたのだ。
当時の教会というのは人々の誕生や死亡、婚姻に関わる事務を取り扱っている一種の行政機関である。教会の新設は住民の利便性向上に繋がる。
さらには、ワセリン(・ドゥ・ポン・エシャンフレ)やロジェ(・ド・メルルロー)、近隣領主のバルドリック・ド・ボックンセ卿らを説得し、彼らの領地内の教会と新設教会を空席になっていた司教区の管轄下に置くことに同意させた。
その上で空席の司教座に迎えるべき人物を選定し、リジウー司教ロジェに白羽の矢を立てたのだ。
ルーアンで出会った際、彼に一目置いていたジロワは早速司教就任の要請を行い了承を得たのだった。
ジロワは居城をエショフールに定め、側近らとその家族をクルスローからエショフールへ呼び寄せた。
そして、その日がやって来た。
オルウェンはジロワとジゼル夫妻に随行してエショフール城に一足先に到着していた。そこへクルスローから妻アナとその子らが移って来たのだ。
新たに養女となったジャンヌは新しい家族、養母となるアナや義理の兄弟姉妹らとの対面を控えて緊張に固まっていた。
そしてオルウェンの方も、表面上はうかがい知れなかったが、かなりの緊張状態にあった。戦で接敵を待つ間でもここまで緊張はすまい。
いかに家族とはいえ記憶を失っている彼にとっては初対面も同じだ。
自分に妻や子がいる、と聞かされて彼は激しく動揺していた。
信じられない、と絞り出すように言ったのだ。自分が家族を、妻や子を得ている姿が想像できないのだ、と。
多くは語らなかったが、あまり家庭的には恵まれていなかったことが察せられた。この時代としては珍しいことではない。
すでにアナには事情が知らされている。
怖れと期待と、様々な感情がかき混ぜられた状態で彼ら家族は再会した。
オルウェンは家族と向かい合っても、記憶を取り戻すことはなかった。全く影響が無かったかというとそうでもなく、何か懐かしい、おぼろげな愛着などは感じたが記憶というほど明確なものではない、という。
劇的な記憶の回復を期待していた者たちは落胆したが、生きて帰って来ただけでも上々、新しい家族も増えたのだし関係はまた作り上げて行けばよい、と前向きに振舞うアナの健気な姿に親しい者たちは心を痛めた。
オルウェン一家は新たな家族ジャンヌを伴い、エショフール城下に構えた住居へ移って新生活を始める。ジャンヌは奥方付きの召使として城内に詰めるため、顔合わせを終えた後は城へと戻って行った。
まだ荷物も運びこんだばかりで荷解きも終わっていない。
アナの指図の下、オルウェンと息子たち娘たちが作業に取り掛かる。以前は全く喋ることの無い父親と、ぎこちないやり取りを重ねながら少しづつ関係を作り上げようとする家族の姿がそこにあった。
息子の一人がボロ布で包まれた一抱えもある荷物を運びこんできた。
「母さん、これはどこに?」
アナは一瞬険しい顔を見せた後、表情を消して言う。
「納屋の奥に……。ずっと奥の方でいいわ」
「わかった」
息子は母の反応にかすかに違和感を覚えつつ言いつけに従った。
エウーゴン領の継承、ジゼルとの結婚。これらのイベントの後、ジロワの動静は歴史の表舞台で見られなくなる。
実はジロワの没年について、直接的に記録した史料が存在しない。
当時の習いでいえば、領主・騎士層であれば老境にいたって死を目前とする時期になると修道院へ入り俗世から引退、死去の際には修道院の墓誌に記録が残されるものだが、ジロワに関してはそうした記録が見当たらず、かといって戦死したという記録も残っていない。
ただ、伝承として息子アルノーとギョームが騎士叙任を受けるか受けないかの頃、ブリヨンヌ伯との抗争があったあたりには既に俗世からは隠れた存在となっていた模様である。
ジロワが舞台袖に隠れたこの時期、それはノルマンディー動乱の時代の幕開けでもあった。
ドンフロンはメーヌの北方にあり、ノルマンディー領との境界に位置を占める要衝である。六年前の戦の結果、メーヌ伯よりベレーム卿に割譲されて現在はベレーム卿ギョーム一世の子であるワリン卿の領地となっている。
一○二六年、そのワリン卿が暗殺された。
他の兄弟同様、残忍で貪欲として知られていたワリンには敵が多い。といっても彼が最も警戒していたのは実の弟たちである。
ある日ドンフロン近郊の森へ遠乗りに出かけたワリン卿は、従者として連れていたベリッシモ出身のローマ人兵士の手落ちに激怒し「その首を刎ねてやる!」と追いまわした。
兵士は必死に剣を掻い潜りながら韋駄天を発揮して森の小道へ逃げ込み、ワリン卿はそれを追って馬を乗り入れる。
追う者追われる者が森の中へ姿を消した。
やっとのことで他の従者たちが追いついた時に見出したのは、樹の高い枝から吊し首にされたワリン卿の遺体だった。
暗殺、という考えは誰の頭にも浮かんだ。有力な容疑者はフルク、ロベール、ギョームという弟たちである。他にも二人、兄弟がいたがそれらはセー司教となったイヴォとフルーリー修道院の修道士となったブノワは一応除外された。
だがそれら有力な容疑者たちを糾弾するには、彼らがベレーム家の身内であるがゆえに動機の点では申し分なかったものの、手段の点で問題があった。
人口が爆発的に増加する以前の時代である。
有力な大領主貴族の跡継ぎを暗殺できるほどの能力や組織力を有する闇社会への伝手というのはそう多くはない。
ベレーム家においてもそうした伝手はあるにはあるが、それを握っていたのは当主であるギョーム一世とワリン卿だった。
つまり、なんらかの新たな有力な伝手がなければこの凶行はなしえないのだ。
ワリン卿の側近たちに熱意と執念があれば、それでも犯人を突き止めることはできたかもしれない。
だが、彼らはそうはしなかった。一つにはワリン卿には男子がなく、一粒種の娘アデライザはモルターニュ伯爵ロトルーに嫁いでいた。
ワリン卿の側近らが犯人を突き止めたとしても、最早ベレーム家のうちに彼らの居所はない。
彼らは犯人探しよりも、自身の将来のために容疑者である他の兄弟たちへの寝返りに忙しかったのだ。
ベレーム家の後継を巡る家族内の相克が動き出していた。
「
「は。滞りなく」
問うた
灯りは燭台一つ、という室内で主従は企みについて言葉を交わす。
ワリン卿を暗殺するために動いたのはフルベール配下の間者たちである。
これはタルヴァスとの取引においてフルベール、イエモア伯側が負うことになった役割に関係したものだった。
「今宵はもう遅い。
「は? ……いえ、その必要はございません」
イエモア伯は皮肉な笑みを浮かべる。
「たまには親子らしいところも見せねば怪しまれるぞ」
「御意。しかしながら……それはまたの機会に」
「そうか」
イエモア伯は手を振ってフルベールに退出を命じて立ち上がり、自身の寝室へと向かった。
壁に掛けた飾り布を燭台の灯りが照らすもなお闇は深く、寝室の隅まで光は届かない。香が焚かれているのか、隠微な香りに陶然となる。
寝台には一人の見目麗しい少女が待っていた。
昨今、フルベールが『娘』として傍仕えに送り込んできた。
フルベールに娘などいない事は知っている。どこぞからの養女であろう。
だが、容姿も気立ても悪くはない。正直、かなり気に入っていた。
あくまで正妻ではなく公妾という立場ではあるが、侍従の騎士の娘としてノルマンディー公家の公子の一人の傍に上がるのである。城入りの際には正門から騎乗で迎え入れるという破格の扱いであった。
「お前に会ってゆくか? と『父親』に水を向けてみたがな。遠慮すると」
戯れにさきほどのやり取りを伝えてみる。
「いまや私はロベール様のもの。ロベール様が私の全てです。『父』の事はお気遣いなく」
少女は平然と言い放つ。
まぁ、そうだろうな。父といっても便宜上の建前だ。
「寝むぞ」
言いながら寝台に横になる。だが、言葉とは裏腹にイエモア伯ロベールの手は少女を抱き寄せその寝着をはだけていた。
唇を吸いながら、少女の名を呼ぶ。
「アーレッテ……」
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