第39話 動乱(二)

 あらかじめ予見されていたとはいえ、その衝撃は少なからぬものがあった。


 一○二六年八月二八日、善良公と呼ばれたノルマンディー公リシャール二世逝去。


 ただちに継嗣リシャール三世がノルマンディー公位を継ぐ。襲位を祝う祝典は服喪の明けた翌年とされた。

 

 かねての予定の通り、順当にリシャール三世が公位を継承したことは、公爵家一門ならびに公領の大貴族たちを安堵させた。


 それというのもノルマンディー公位の代替わりには存亡の危機の記憶が結びついていたからだ。


 リシャール三世の祖父である無怖公リシャール一世が襲位したのは曾祖父長剣公ギョーム一世が暗殺された直後であった。その際、フランス王やパリ大公の介入により、ノルマンディー公家はあわや滅亡というきわまで追い詰められた。


 中興の祖リシャール一世の手腕により勢力を盛り返したものの、安定した治世と公位の継承は繁栄の要諦という認識は浸透し、ノルマンディー公家の方針も対外拡張から内治の安定へと変化した。


 それゆえ、リシャール三世が穏当に公爵位を継承したことはノルマンディーの支配階級にとって歓迎すべきことであったのだ。


 ただし、ごく一部の野心を抱く者たちを除いては。




 盃に波打つ紅玉ルビーの輝きにしばし見入る。香りを確かめ、一舐め口に含んで味を確かめた。

「ふむ……。確かに最高の葡萄酒ワインだ。これなら間違いない」

「御意」

 イエモア伯ロベールは試飲の杯を名残惜しそうに卓に置き、傍に控える腹心フルベールに向けてやや不満げに溜息をもらす。

「だが、ここまでせねばならぬか? 葡萄酒一袋に村一つ分の費えをかけるなど……」

「欠くべからざる要素にございますれば。確実を期すためには、多少優れたという程度の品では足りませぬ」

 イエモア伯は嘆息して側近の言を容れた。

 この酒を入手するためには、その代価以外にも口止め料やらこちらの身元を偽装するための手間や費用が掛かっている。やむを得ないのだ。

「いよいよ、だな」

 ファレーズ城館の窓からルーアンの方角を見つめるイエモア伯ロベールが呟き、付き従うフルベールは無言で頭を垂れた。




 ルーアンのモンゴメリー邸。

 薄暗い居室の寝椅子にもたれかかるモンゴメリー卿ロジェが、蛇の眼を光らせながら舌なめずりをする。

 前金でまとまった額を「さるお方」から受け取り、借金の方はきれいに清算できた。あとは義理を果たさねばならないが、うまくゆけばこれまでの不遇をひっくり返すことも可能だ。

「ぞくぞくするねぇ。こんなデカい賭けは久しぶりだ。せいぜい稼がせてもらわにゃなぁ」




「さて、出番だな」

 ベレーム城下の悪所にある店で、ニコラが旅支度を始める。行き先はファレーズ近郊のヴァランブラ村。

 荷袋の底に、厚く布で巻いて保護した包みを仕舞い込む。

 あとはタルヴァスから差し向けられる護衛が迎えに来るのを待つ。


 護衛といっても、途中で逃げられないように監視するのが役目でもある。

 もとよりニコラには逃げるつもりなど無いが、一人旅で予想外のトラブル(例えば盗賊など)に見舞われるなど避けたいところだ。護衛(という名の監視役)も望むところ。


 ニコラとしても此度の仕事は是非とも成し遂げたい。いままで請け負った仕事の完遂に拘った事など無かったが、今度だけは事情が異なる。


 娘の望みを叶えることは、魔女との約束なのだ。




 ベレーム家のタルヴァスは、イライラと落ち着きなく周囲に当りちらした。

 それを呆れた目で眺めるタルヴァス夫人の傍らには、年長の少年とあまり顔立ちの似ていない六歳くらいの少女が寄り添っていた。

 少年はタルヴァスの長子アルノー、少女の方は娘でメーベルという。

 アルノーは怯えの混じった表情であったが、一方のメーベルは何ら感情を覗わせるものがなかった。その無感動な様はまるで月の様に……。




「イエモア伯が挙兵した、と?」


 リシャール二世が没した翌年の一○二七年八月、イエモア伯爵ロベール決起たつの報が新ノルマンディー公リシャール三世の宮廷に伝わる。


 だがその報に接しても、リシャール三世にはいささかの動揺も現れなかった。

 むしろ安堵する余裕すら感じられる。

 

「厄介事が早々に片付けられそうだな」

「……無いに越したことは御座いません。無駄な費えです」


 苦虫を嚙み潰したように諫言するルーアン大司教にリシャール三世は苦笑する。


「弟としても、一戦交えねば納得し兼ねるでしょう。しっかりと眼を醒まさせて以後は忠実なる臣下として生まれ変わらせてきますよ。叔父上は真面目でいらっしゃる」


 ただ気持ちを納得させるためだけに、どれ程の出費と人命が失われるか。出費は課税として臣下と民に降りかかる。


 ノルマンディーの安定を第一に考えるルーアン大司教ロベールには、その考えは驕り、と映った。だが、いまやこのノルマンディーの主はこの甥なのだ。

(主よ、我が主君を護らせ給え。その無事の帰還と武運長久なることを)


 続報が届く。イエモア伯は居城ファレーズ城に籠城との由。


 リシャール三世はただちに大軍を招集し、自ら鎮圧へ向かう事を宣言した。

 同時にイエモア伯救援に向かおうとする動きがないか、ノルマンディー内外の動きを探らせる。籠城するということは外部からの救援を前提としていることが考えられるからだ。

 姻戚関係を結んだとはいえ、領土欲の強いフランス王は油断ならない相手であるし、先代の時にドル―の領有を争ったブロワ伯との関係も冷え切っている。力を蓄え機会をうかがっている北方の隣国フランドル伯には隙を見せられない。

 幾分安心していられるのは、叔母が摂政となっているブルターニュ公と、北方征服に目が向いているクヌート王のイングランド王国くらいだ。


 一方、この反乱の報に接した支配者層の者たちには、やはり、と、まさか、の両極端の反応があった。


 やはり、と思った者たちにとってイエモア伯ロベールの謀反の可能性はある程度予期されていたことである。

 イエモア伯の立場からすれば、この時に立たねば機会などいつ来るか分からぬ。

 一勝負賭けようとするならばこの時しかないのだ。


 逆にまさか、と思った者たちは、到底勝ち目が無いほどにリシャール三世の体制は盤石で揺るがないものと考えていたのだ。


 いずれの立場でも、新公爵リシャール三世の優位は疑うべくもないものであった。


 討伐軍は大軍にもかかわらず異例の速さで編成された。


 可能性自体は充分に警戒されていたので備えは万全であったのだ。

 十日を経ずしてファレーズ城に籠るイエモア伯ロベールはノルマンディー公リシャール三世の大軍勢に包囲された。


 リシャール三世は戦について出し惜しみをしない。ノルマンディー公家の継嗣として戦をするからには負ける事を許されない立場だが、一方で財力と兵力はふんだんにある。ならばそれを生かさぬ手はない。


 早くから後継者として認められ、順当に君主の地位を継承し、妻はフランス王の娘、本人の資質にも目立った欠点はなく、叔父ルーアン大司教と祖母グンノール妃の後見で体制も盤石。数少ないリスク要因である身内の反乱も、早々に尻尾を出してきたのはむしろ好機。


 これ以上ない位に安定した君主の地位をお膳立てされていたリシャール三世の治世が、長きに亘っていたなら中世の歴史はどう変わっていただろうか?



 

「いまいましいほど、隙の無い包囲陣だな」


 ファレーズ城の胸壁からリシャール三世の軍勢を眺めながらイエモア伯ロベールが呟く。傍らには腹心フルベールが侍っている。

 彼は兄が無能だとは思っていない。だが、自分の方がより才能に恵まれている、自分の方がもっと上手くやれる、とも信じていた。


「……どうしても、せねばならぬか?」

 気の進まぬ様子でイエモア伯がこぼす。

「恐れながら、服従の誓約オマージュあってこそ、兄君の油断を誘えるというもの。それを避けていては此度のはかりごとは進みませぬ。もとより真っ当な力のぶつかり合いでは到底敵わぬ相手。また、既に謀反の旗を掲げた以上は謀があろうがなかろうが、誓約は不可避でございましょう」

 

 服従の誓約を捧げた後は、もはや謀反など許されない。誓約は神との約束であり、これを踏みにじることは背教であり、名誉を失い犯罪者と同義になる。


 ウェセックス伯ハロルド・ゴドウィンソン(イングランド王としてはハロルド二世)がノルマンディー公ギョーム二世とイングランド王位を巡って争った際に(政治的に)劣勢であったのは、ウェセックス伯がギョーム二世に服従の誓約をしたにも関わらず背信行為を行ったことの影響が大きかったと考えられる。


 ウェセックス伯はイングランド貴族らの推戴を受けて王位に就いたものの、国際世論は批判的であり教皇の支持も得られなかった。


 キリスト教徒同士の領地争いに関して、事後に権利を確定する際には教皇の支持が重要な要素となる。戦に勝利しても教皇の承認が無ければ奪った領地の正統な領有は認められない。


 ギョーム二世はイングランド侵攻(いわゆるノルマン征服ノルマン・コンクエスト)にあたって事前に教皇の支持を取り付け、授与された教皇の旗を押し立ててドーヴァーを渡ったのだが、それはまた後の話である。


 イエモア伯主従が不穏な会話を交わしている頃、エショフール卿として一躍大身貴族となったジロワはノルマンディー公リシャール三世の陣に居た。


 クルスローの領主としてはベレーム卿の臣下となるが、エショフール卿ならびにモントライユ卿としてはノルマンディー公の臣下となるジロワも招集を受けたのだ。


 継承したばかりの領地は妻ジゼルと家宰ロジェらに任せている。記憶が回復していないオルウェンもエショフールに残してきた。


 伴として連れてきているのは娘婿のワセリンと側近ル・グロ。ワセリンはポン=エシャンフリー卿としての初陣になる。


 肩に力の入った様子のワセリンを、ル・グロがからかう。親代わりのル・グロのそれは、ワセリンを気遣う心配の現れであろう。


 ル・グロの傍らに一人の伝令が駆け寄って何事か耳打ちした。


 表情を消して聞き入っていたル・グロは、二言三言言葉を交わして再び伝令を送り出す。そして、ジロワの方を向いて報告した。

「イエモア伯の使者が公爵の御前に参ったようです」

 恐らく降伏の使者だろう、と。


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