第40話 動乱(三)

 先代公爵リシャール二世危篤の折、ジロワら大領主貴族らには緊急の招集に備える様通達が行われた。

 それは特別秘密にされていた訳ではなく公然としたもので、ある意味反乱を志す者たちへの警告なのだ。新公爵は準備万端、あらゆる事態に備えているぞ、と。


 そんな中でイエモア伯が挙兵したことは、ジロワにとって意外であった。


 新公爵リシャール三世が虎視眈々ち構えているという、その状態で反乱を実行するなど自殺行為でしかない。


 戦場に絶対はない。とはいえ、これだけ彼我の戦力差があっては起こりうる偶然にも限りがあろう。


 フランス王やフランドル伯など周辺勢力でイエモア伯に呼応して兵を動かす者は見られないらしい。援軍の来ない状況で籠城を選択しているのも不可思議なこと。

 フルベールと名乗ったあの切れ者の側近が付いていて、この様な愚挙に及ぶであろうか?


 ジロワはなんとも釈然としないままでいた。


 公爵の侍従から招集を告げる使者が来た。どうやら降伏の申し出というのは本当だったらしい。


 これほど早々に降伏するなら、なぜわざわざ挙兵したのか。


 何かが喉につかえたままの様で気持ち悪い。

 心進まぬまま、ジロワは招集に応ずるべく席を立った。


「我が弟イエモア伯は、自らの力及ばざることを悟り、改めて我に服従の誓約を為した。諸卿、ご苦労であった。諸卿の尽力に対し、これより労いの酒宴を催すゆえ心ゆくまで愉しまれたい」


 侍従が公爵の言を代弁すると、本陣として徴発されたファレーズ郊外にある修道院の会堂に参集したノルマン領主貴族たちは歓声を上げた。


 侍従が手を広げて一同を鎮める。


「城内の検分と一旦の武装解除、および監視が必要でござる」


 侍従の視線がジロワの上に向けられる。

「公爵閣下よりのご指名にございます。エショフール卿におかれてはよろしく任に就かれますよう」

「承った。お任せあれ」

 大身の貴族になったとはいえ、新参の身である。

 貧乏くじが回って来るのも致し方なし。

 酒宴に居残ってもさほど居心地の良いものではない。

 渡りに船とジロワは席を立った。

 

 そのジロワの退席と入れ替わるように、一人の革袋を抱えた女がノルマンディー公の陣を訪れていた。


 もちろん、一人ではない。彼女を先導するのはモンゴメリー卿ロジェ。


 モンゴメリー卿は傍を通りかかった公爵の侍従の内でも末席の一人に声を掛けた。

「おい! そこのお前、俺が誰だか分かっているな? よしよし、さてこの女だが……ファレーズの穀物商人の妾でな。公爵様のお祝いに秘蔵の銘酒を献上申し上げたい、というなかなか殊勝な申し出をしてまいってな」

「おう、そうよ! かなりの値打ち物という事だ。きっと公爵閣下もお気に召すであろうよ。だが、不幸にも俺は何かと評判が悪くてな、この俺の紹介ではこの女とその旦那の誠心も曇った眼で見られかねん。そこで、だ。ここからはお前に引き継ぐので、お前が公爵閣下に引見させろ。なぁに、お前が僅かながらでも俺に感謝の気持ちを持ち、いつかどこかで恩返ししたい、と思ってくれればそれでいいのだ」

 モンゴメリー卿は侍従に女を押し付け、上機嫌で酒席へと滑り込む。


 面倒ごとを押し付けられた侍従の方は、うんざりした様に舌打ちをうったが、女が持ち込んできた酒がカオール(トゥールーズの北北西、ローマ時代から葡萄酒の名産地として知られた)産の逸品と聞いてにわかに態度を変えた。


 話が真であればこれは一転悪くない話になる。


 もちろん彼はただの取次に過ぎないのだが、主君のご機嫌が良くなる場面に関わり顔を覚えられるなど、侍従として絶好の機会だ。

 モンゴメリーめ、食い意地に負けて幸運を手放したな。いい気味だ。

「よし女、我に付いてまいれ」




「こっちだ、早く入れ!」

 抑えた声でモンゴメリー卿が女を呼ぶ。


 祝宴の席となった修道院の広間からやや離れた位置にある控えの間である。

 モンゴメリー卿に招き入れられたのは、さきほど公爵へ葡萄酒を献上したファレーズ商人の妾を名乗る女だ。


 酒を献上した後は侍従に案内されて別の控えの間に下がっていたが、人の目がなくなるやその部屋を抜け出し、かねてより打ち合わせの通りモンゴメリー卿が用意していた部屋へと移動した。


「誰にも見られていないだろうな? 着替えはその台の上だ、早くしろ」

 女は、躊躇いもなく服を脱ぎ捨てる。

 だが、やがて露わになった裸体は女のものではなかった。

「……なんてぇ奴だ。話は聞いていたが、ここまで見事に化けられるものかね」 

 着替え終わると、先ほどまでの女はすっかり美丈夫の従者に成り変わっていた。


 ニコラ、である。


 モンゴメリー卿はニコラの名を聞かされていない。代わりにその特殊で特別な特徴と、<月>という符丁だけを言付かっていた。


 妙に余裕のある表情で、従者姿に化けた<月>ニコラが問う。

「さきほどの侍従は?」

「とっくに始末してある。怪しまれぬうちに戻るぞ、<月>とやら」

 従者姿のニコラは肩を竦め、用心深く周囲を窺いながら部屋を出るモンゴメリー卿に従う。


 宴席は『まだ』賑わっていた。


 やれやれ間に合ったか、という安堵と、本当に大丈夫なのか、という懸念がモンゴメリー卿の胸中で渦巻き目まぐるしく位置を変える。

(次の機会があるかどうかなんて分かりゃしない。ここで決めなきゃあの御仁は……って、俺が心配してやることでもないが)


 従者に扮したニコラは壁際に立って公爵の様子を窺っていた。

(そろそろ、だが……)


 公爵の前に新しい料理が運ばれてきた。


 野鳥にイチジクの実と香草を添えて焼いたもののようだ。

 傍らの侍従が一切れ取り上げて毒見奴隷の口に押し込む。奴隷が咀嚼して飲み込み、その様子に変化が無いことを侍従が確認して、目線で公爵に是を伝えた。


 そうしてようやく公爵は新たな料理を口にするのだ。


 ニコラが先ほど献上した葡萄酒も、同様に毒見奴隷がまず確かめた後にやっと公爵の口に届いたのだった。

 くだんの酒を口にした公爵は大層満足し、妾に扮したニコラに言を賜る。

 ニコラが偽の献上の使いでなければ、これで無事役目を果たしたことになる。


 だが。


 商人の妾が仮の姿でしかないニコラにとっては、これからこそが本番であり本命の任務なのだ。


 ニコラが偽の姿で献上した銘酒は、イエモア伯が村一つ分の対価を支払って入手していたあの酒だ。


 公爵はその酒がいたくお気に召したようで、独り占めしている。


 ローマ以来の陶磁器の技術は失われていた。庶民は主として木製や素焼きの食器を用い、上流階級は金や銀などの比較的加工しやすい貴金属の食器を用いる。


 酒を貯蔵する容器にしても、樽や動物の膀胱から作った容れ物が使用された。

 二コラが持ち込んだ葡萄酒も革製の容器に収められている。


 二コラが用いる毒は無色透明無味無臭ではあるが、即効性の劇薬である。毒見役の奴隷を用いることができる公爵の様な貴人を相手には適さない。


 ニコラが用いたのは、動物の革や骨を煮詰めて精製を繰り返して得た純度の高い膠(つまりゼラチン)を用いて毒薬を包み革袋の底に貼り付ける方法だった。


 ある程度高めの室温で時間が経過した後に融解するよう何度も試作を繰り返して膠の濃度を調整した。


 さらに公爵が口にするまで融け出さないようにするため、持ち出す直前まで氷室で冷やしておいたのだ。


 膠が融ける前に酒が飲み切られてしまったり、他人の下へ廻されてしまえば暗殺は失敗である。


 事前に公爵の酒の飲み方や振る舞いは綿密に下調べしてあった。


 予想通り、公爵は酒を独占した。炎天下にあってよく冷えた葡萄酒という御馳走だ。他の者には渡したくはなかったであろう。飲むペースも想定通り。


 さて、間に合うかな?


 革袋の膨らみ具合からみて、残りは半分を切っている。

 真夏の陽気である。既に当初より温度も上がっているはず。


 まだか。


 さすがのニコラも焦りを抑えられない。


 残された時間はそれほど長くはないのだ。それは、二重の意味で、である。

 一つは今まさに進行中の酒の残量の問題(つまり暗殺の成否自体)であるが、もう一つは『イエモア伯ロベールの陰謀が成功するための残り時間』なのだ。


 今回、公爵が準備万端反乱に備えている状況下であえて打って出たのは、ここで立たねば状況が一気に不利になるからだ。


 公爵リシャール三世は、つい半年ほど前にフランス王ロベール二世の娘アデラと婚礼を挙げていた。


 二人に子が、男子が生まれていればどうなるか。


 仮に公爵リシャール三世の戦死なり暗殺なりに成功したとしても、子があれば当然それを旗頭とした勢力がイエモア伯ロベールと対立するであろう。そして流れからいって有利なのは現公爵直系である彼らとなる。


 だが、公爵が子を為す前にこの世を去ったとしたら?


 イエモア伯ロベールよりも年少の同母弟ギョームはフェカンの修道士となっている。異母弟のモージェとギョームはまだ乳幼児だ。

 血統的には叔父達の中でもルーアン大司教兼エヴルー伯ロベールが最も有力な競争相手といえるが、かの御仁は既に高齢であり、さらにその下の弟コルベイユ伯モージェにいたっては宮廷での人望や影響力が物足りない。ブリヨンヌ伯ジルベールは、そもそも非嫡出の家系で相当に不利だ。


 つまり他に有力な競争相手がいない現時点であれば、イエモア伯が公爵位を手に入れるための条件は、公爵リシャール三世の死のみ、である。


 だが、公爵に子が生まれれば、たとえ公爵を亡き者にしたとしても、更に立ちふさがる敵を打ち倒して勝ち取らなければならない。


 公爵リシャール三世に子ができる前に、というのが公爵位を狙うイエモア伯ロベールに与えられた時限なのだ。

 

 ニコラが見つめる視線の先で、人影が揺れる。


 からすの啼き声が聞こえたような気がした。


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