第48話 泥の底の月

「いつになったらあたしを殺してくれるんだい?」

 寝台ベッドの上で情事の後の裸身を隠そうともせず、魔女と呼ばれた女は戯言ざれごとを繰り返した。


 この気違いめ。


 薄暗い部屋には、怪しげな道具類や奇妙におどろおどろしい動物の頭骸骨、干した薬草などが吊り下げられ、怪しげな香が焚き込められて魔窟まくつの様相を呈していた。

 二人の寝台に寄り添う様に小さな寝台が置かれ、中では生後間もない赤子が寝息を立てている。


「俺一人で育てるのは大変だ。手が掛からなくなるまで手伝え」

「やーれやれ。あんたに殺してもらう前に、寿命でくたばっちまいそうだよ!」

「それだけの減らず口が叩けるなら、殺しても死ぬまいよ」


 出会った時から繰り返し聞かされて、慣れてしまったからだろうか。


 戯言だと、この時はまだ、そう思っていた。




 この女と出会ったのは、サレルノを出奔した後、後ろ暗い仕事に手を染めながら北へ向かって目的のない旅を続けていた途上だった。


 旅というよりも、ただ彷徨っていただけ、と言った方が正しいかもしれない。


 北へ向かって、というのも、単に行先を考えたくなかったからだ。

 半島南部のサレルノからだと、東西はもとより南へ行ってもすぐ海に突き当たる。何も考えずに歩き続けるなら、北へ向かうしかない。

 その程度の理由であったから、何かのきっかけで突然東か西へと向きを変えていたかもしれない。


 メーヌの中心地、ル・マンに至ったときのことだ。

 懐は充分潤っていたが、目立つのを避けるために上等な(上等な、といってもたかは知れていたが)宿は利用しない。

 これまでは主に悪所の売春宿や、粗末な場末の安宿を渡り歩いていた。


 酒場で食事と酒をとっていた際、向かいの席に勝手に座る女がいた。

 その風体は異様で、全身禍々しい黒づくめ。顔の半分はベールで隠され、年齢不詳でなんとも怪しい絵に描いた様な『魔女』の姿だった。

 

「南から来た人かい?」

「女なら、間に合っている。他を当たれ」

「おや残念! でも女は要らなくても、宿は要るんだろ? この時分からじゃどこも空きは無いよ?」


 周囲を見回すと、確かに飲み食いしているのは、その風体(旅装ではないこと)から地元の者たちか、もしくは既に宿を確保して食事に出てきた者たちと見える。


 給仕の中年女と目が合うと、面倒臭そうにうなずいて魔女の言葉を肯定していた。


 どうやら嘘ではなさそうだ。

 やれやれ、せっかく今夜は屋根の下で眠れると思ったのに。


 容赦なく冷え込む石畳の上で野宿するのは辛い。だが、今からでは門も閉じていて街の外にも出られない。


 仕方がない。

 騙されるのは半ば覚悟で話に乗るか。


「懐は寂しいんだ。払える額しか払えんぞ」

 かなり捻くれた応諾の返事だというのに、魔女は満足そうに目を細めて言った。

「かまわないさ! あたしが待ち焦がれた運命なんだからね!」


 なにを、とは思わなかった。

 似たような台詞はサレルノでもさんざん言われていたのだ。

 どいつもこいつも、と興醒めはしたが。




 魔女に連れられて行った先は、文字通りの魔女の棲み処だった。


 奇怪な頭蓋骨を押しのけながら、せめて文句の一言でも、と。

「これは宿じゃないな。あんたのねぐらだろう? いつもあんな風に客を漁っているのか?」

「まさか! いつもの夜なら厳重に戸締りして息を殺しながら朝を待っているもんさ。ただね、今日の夜だけは……この夜だけはあたしにとって大事な出会いがあると星が告げていたからねぇ」

 辻占の類か? そう言われてみれば、なるほどこの奇怪な棲み処の様子も頷ける。格好の舞台装置という訳だ。


「まぁ、まずは水をお使いよ」

 そう言って台所の水瓶から汲み置きの水を張った盥を運び込む。

 もぐりの宿屋にしてはよい待遇だ。

 脱いだ外套を女に渡し、肌着をはだけて遠慮なく顔や体を拭った。


「……よく、酒場の主人はお前を許していたものだな? 自分の店であれだけ堂々と客引きをされて」


 酒場は宿も兼ねている場合が多い。さきほど彼が声をかけられた酒場も、上の階は宿屋だったはずだ。

 そんな場所で、おそらくギルドに所属してなどいない魔女が客引きをしていたのだ。よく吊し上げられなかったものだ。


「なぁに、『ブルトンの星占』といやぁ、この街じゃ名の知れた術士なのさ。酒場の客寄せに貢献してやっているから多少のことは見逃してくれる。それに、この日が来ることは前々から話していたからねぇ」

 なに? 何かおかしい。


「でも、よかった」

 ベールを外した女が振り返る。存外、若く顔貌かおかたちは整っていた。

 女は長い黒髪を揺らしながら、笑みを湛えて言った。


「あたしを殺してくれるのが、あんたみたいな綺麗な男でよかったよ」


 ……これはどうも、ヤバい類か?

 降ろした荷物は、手の届くところにある。


 脱いだ外套は女が抱えたままだ。これはあきらめるしかないか……。

 まぁ、別にいつ果てようとも惜しむことのない命だ。

 だが、あまり酷い目に遭わされても困る。

 逃げられるなら、逃げておくとしよう。


 そんな彼の様子を察して女が苦笑する。

「落ち着きなさいな。別に気狂いじゃあないし、あんたに害のあることもしないよ。神かけて誓うさ」

「……お前が神に誓うって? その風体で、か? 余計信じられんな」


 禍々しい黒装束の女は一瞬きょとんとした後、自分の装いを見下ろして破顔した。

「確かに! これじゃああたしだって疑うわね。でもねぇ、そういうあんただって、そう信心深い人間には、見えないんだけどねぇ?」


 そう言われて、つまった。


 彼自身、背教の徒もいいところだ。他人の不信心をどうこう言える立場ではない。

 だが、それはこの女に気を許してよい理由にはならない。


「ああ、いいよいいよ。じゃあこう考えて。悪党同士の仁義ってやつさ。それなら少しは安心するんじゃないかえ?」

 悪党同士の仁義だと? 何だそれは?

「面白い冗談だ」

「ふふっ。それでも、やっと笑ってくれたねぇ」


 笑った、だと?


 そんなこと、いつ以来だろう。

 そもそも、これまでの生で、笑ったことなどあっただろうか?




「この街に流れ着いた頃は、そりゃあひどい目にあったもんさ」


 一つしかない寝台で、彼の肩に頭を乗せた女が昔語りをする。


「場末の顔役にさんざんに慰み者にされてねぇ。悔し紛れに言ったのさ。『死の呪いをかけてやる!』ってね。当然、鼻で笑われたさ。でもね、数日のうちにその顔役の男は荒くれ者の兵隊と喧嘩しておっ死んじまったのさ」


 女はおかしそうに肩を震わせて笑った。それが心からの笑いかどうかなど彼には分らない。


「偶然なんだけどね。それで『ブルトンの星占』に死の呪いをかけられたら本当に死んじまう、あれは本物の魔女だ、ってことになってねぇ。おかげでそれ以来ずいぶん快適に暮らせるようになったもんさ」


 嘘だ。


 そのような異端として認定されてしまえば、今度は別な生き難さが生まれる。

 決して、快適な暮らしなどできはすまい。

 だからといって同情を露にするほど興味もないし、義理もない。

 女が見せまいとする苦労なら、放っておこう。

 だが、あの一言だけは、問わずにいられない。


「……さきほど物騒なことを言っていたな? 俺がお前を殺す、だとか」


「あぁ! それそれ!」

 女は我が意を得たり、という顔で身を起こした。


「生きるのが辛いのは子供の時分からだったからねぇ。ある時おっかぁに、もう死にたい、って漏らしたことがあったのさ。そうしたらおっ母は、あ、おっ母はあたしの占いの師匠でもあったんだけどね、そのおっ母が言うには『自死なんてとんでもない! それじゃあお前の魂は永遠に同じ苦しみの中から抜け出せないよ。お前が死んでいいのは、お前の死神がお前を殺しに来た時だけさね。それならお前の魂は辛い人生から解放されるんだからね』ってさ」


 ……それは、単に寿命で死ぬまで生き続けろ、と言っているだけではないか?


 女は構わず話し続ける。

「それはいつ来るの? どんな姿をしているの? って聞いたら『いつ来るのかはお前が一人前の術士になれば星が教えてくれる。その姿は……そうさね、それは人ぞれぞれに異なっていて、そも目に見える姿などないかもしれん』って言うのよ」


 寝台に上半身を起こした女が続ける。


「でもね、ちゃんと分かったわ。ほんとに、うれしい」


 彼女は彼の顔を覗き込み、喜びに満ちた笑顔を見せた。


「あたしを殺してくれるのが、あんたみたいな綺麗な男で、本当によかった」




 もともと目的のない放浪であった。


 女のねぐらに居ついたまま数日を過ごしたとしても、何も問題はない。


 特に何かをするわけでもないが、昼過ぎに起きだし、夕刻になると女が酒場へと商売に出かけるのについて行った。


 酒場では少し離れた席で酒と食事を採りつつ、女の商売をぼうっと見守る。


 酒場の店仕舞いに合わせて女が仕事を終わると二人そろってねぐらに帰り、相変わらずひとつっきりの寝台で抱き合うようにして眠った。


 そんな日々が、十日となり、ひと月となり、やがて年を数えるようになる。


 同じ場所にこれほど長く留まることなど思いもしなかった。


 この様な生活で月日を重ねれば、やがて女が子を宿すというのも、それは当然の帰結といえるだろう。


 はじめてその事実を告げられたとき、彼は少なからず動揺した。


 自分に子ができるなど、まったく想像したことがなかったのだ。


 それは彼にとってまるで理解不能なことだった。


 父と子。

 直面する現実からの逃避ともあいまって思考が交錯する。

 

 なぜだろう?

 今更にして、やっと疑問に思うことができた。

 なぜ、あんな事をしたのか。


 彼が、サレルノを出奔し、放浪の旅へ身を投ずることとなった原因。


 師殺しを。

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ジロワ 反撃の系譜 桐崎惹句 @zach

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