第17話 我が復讐なり

 宵闇の中、脱ぎ捨てた女物のドレスで子供の頭ほどの石を包み、固く縛って井戸の中に落とした。背後に水音を聞きながら、急ぎその場を離れる。


 城門を出た後、装束は元の行商人のものに着替えている。かおは化粧を落として泥を塗りたくり、人目を惹く容貌を隠した。エショフールこの街に滞在中、この行商人姿になったことはない。

 見慣れぬ風体の余所者とあれば、騒ぎがあった際には目立ってしまう。それでも今は女装しているよりもこの姿の方が安全だ。

 エショフール滞在中に彼が化けていた『ローマから来た、美人で金持ちの旅の奥方』こそ、今現在城の衛兵たちが血眼になって探している曲者なのだから。


 殺すつもりは、なかった。

 

 娘を誘惑し、結婚をぶち壊しにする醜聞を仕立て上げれば、それで目的は達せられると、そう考えていたのに。

 こんな、糞野郎タルヴァスの嫉妬から出た益体やくたいもない仕事で、とっておきの秘薬まで使うことになるとは!




 街道脇で一度、赤口のラウルと別れたあと、エショフールに入る前に行商人の姿から旅の貴婦人に化けた。女装は手慣れたものだ。

 再度ラウルと合流すると、ラウルは結局自ら従者に化けて附いてきた。急に要求されても人の手配がつかなかったのだろう。

 ラウルは、しばらく前にそろそろ潮時だといって手下の盗賊どもを罠にかけ、まとめて片づけていたという。

 やはりこいつは信用できない。いざという時の備えは掛けて置かねばなるまい。


 婚礼を控えた令嬢が居ると聞き及び、携えた東方産の極上の絹生地(これはラウルの秘匿していた獲物を吐き出せたものだ)を婚礼衣装用に献上せんと旅の途中で立ち寄った、そう触れ込んで領主親娘に取り入っていた。


 このネウストリア(フランス)の地で生産されるのは毛織物や木綿・麻織物くらいであり、上質な絹織物はサラセンを経て東方から輸入された高級輸入品である。


 婚礼を控えたエウーゴン卿親娘にはまたとない贈り物となり、大いに歓迎されしばらくこの城に逗留しぜひ婚礼にも出席を、と要請された。

館に仕える下々の者たちにも、様々に施しを与えて手懐けてある。


 また、当時はキリスト教の影響下、神の創りたもうた自然のままの姿に手を加えることを良しとしない風潮があり、女性の『化粧』は強く抑制された時代だった。


 当時の女性の美の観点は肌の白さであり、そのために化粧以外の方法として『瀉血しゃけつ』(治療行為として行われることもあるが、この場合は人為的に血を抜いて貧血状態を作り出すこと)を用いることもあったという。

 

 そうした折、この来訪者は化粧以外の方法、ドレスの色彩や装飾品の用い方、髪の結い方などを『最新の秘密の美容法』として紹介・提案し、これに感銘を受けたジゼルや侍女たちから一層の信頼を勝ち取っていた。


 すっかり信用され、同性(と騙されていた)こともあって夜昼となく共に過ごすようになるまであっという間、深く語り合う機会も増えた。


 そうして語り合う中に、致命的なきっかけが生まれたのだ。


 生まれの違いによる幸不幸など、どうなるものでもないと理解していた。

 だが、どの生まれの者でも、程度の違いこそあれ、必ず『望んでも容易には得られないもの』を抱えていたものだ。貧乏人は富貴を、貴族はより大きな力を、商人はより大きな財産を……。

 人の子の欲望は限りがなく、それに振り回される人々は、彼の眼には一様に滑稽に映つり、彼はそれらを見下していた。その想いが、彼の危うい精神をこれまで支えてきたのだが。


 その日も、あれこれと語り合い、彼はいつものように手練手管でジゼルを飽かせることなく感心させ続けていたが、つと、婚約者の話題に及んだ際、彼女が語った想いが、彼の仮面の内にあった殺人者の本性を激しく刺激した。


 あの、娘。


 望んだものが手に入った。もうこれ以上望むものはない、と言い切った。

 その幸せがこぼれ出した笑顔が、彼の胸を貫いた。そして、己が死のみを望み続けた、あの不幸な女の顔が脳裏に浮かんで重なる。


 殺意が、弾けた。


 視界が紅く染まる。


 はかりごとが、大きくその予定を変えたのはその時だった。


 その夜、すっかり気を許した館の主と娘は、領地の側近だけの内々の晩餐に彼女(彼)を臨席させた。


 敵対者も競争者も存在せず、かつ、婚礼を控えて慌ただしい、このお気楽な館では暗殺に対する備えが疎かになっている。


 使うつもりの無かった秘薬、イスラム伝来の、秘儀の毒。


 自分は、酒を受け付けない体質だ。果物を水で割って蜂蜜を加えたものばかりを飲む、と触れ込んであった。隙だらけの厨房は、ワインに毒を仕込むのも容易たやすかった。

 乾杯のあと、参会者が一様に苦しみ悶えバタバタと倒れ始めて大騒ぎとなる。彼女(彼)一人が無事であることからワインに毒が仕込まれていたことは、すぐに見当が付けられた。


 この時点では彼女(彼)はまだ、偶々たまたま命拾いをした幸運な人間と見なされていたが、それに油断はできない。

 この場で、実は正体の知れない者が彼女(彼)一人であることに考えが至れば(それはそう遠くない)、ワインを避けていたことは逆に疑惑を高める。実際、その疑いは正鵠を得ているのだ。


 動揺した、別室で休む、と言って客室に下がった彼女(彼)はすぐさま逃走の支度を始めた。従者に化けて付き従ってきたラウルに、口汚く罵られる。殺しはしない予定だったはずだ!どうするつもりだ! と。


 手早く支度を済ませ、抜け出そうとする寸前、いまだ罵りをやめないラウルに、

「お前もさっさと逃げ出す支度をした方がいいんじゃないか? まぁ、俺が逃げ出すための囮になってくれてもいいんだが」

 ラウルは顔色を青くして慌てて逃走の支度に掛かった。それを尻目に彼は戸口からそっと抜け出す。


 夜空の下、あちこちで松明の明かりが駆け回り、怒声が響く。


 殺すつもりはなかったのに、抑えられなかった。

 どうやら自分という壊れた存在は、あの女との出会いと、人の親となったことでいささか変質したようだ。

 胸中でそう呟きながら、『旅の偽行商人』にして『ローマから来た、美人で金持ちの旅の奥方』、または、別の顔として『ブレトンの星占女』を演じる、マルコ・デ・サレルノ修道士の父の仇である『月』こと、ニコラ・デ・ベネヴェントは闇の中を駆け抜けた。




 当時に関する主たる史料である年代記作者オーデリック・ヴィタリスの著作では、エウーゴン卿とその娘の死に関して、

・エウーゴン卿がモントライユ、エショフールなどの領地を持参金として娘とジロワとの結婚を認めた

・娘が結婚の直前に死亡したため、ジロワは領地を得られなかった。

・娘の死後、すぐにエウーゴン卿も死去した。

と、簡潔な記載があるだけだ。


 だが、これらの出来事、それはジロワが名を挙げたメーヌ伯との戦も含めてだが、西暦1020年のごく短期間に起きている。


 婚約してから正式に婚姻を成立させる前、またその後に起きた一連の事件も同一年の内であることから、それは四十日以上、かつ、せいぜい数か月の間(婚約公示期間が四十日と定められていたためこれより短いことはあるまい)のことだ。


 わずか数か月の間に婚約を成立させ、かつ、その相手と父親が相次いで死去する。自然の成り行きとしては急に過ぎよう。


 その不審な死によって明確な受益者が存在する場合、証拠がなくとも歴史は「誰が殺した」かを記録する。『悪魔公』と呼ばれたノルマンディー公ロベール一世、塔の二王子を謀殺したとされるリチャード三世のように……。


 この点で、エウーゴン卿親娘の死は謎であった。それによって利益を得るものが居なかったからだ。


 『善良公』リシャール二世の安定した統治下で、ノルマンディー公領中央部に領地を有するエウーゴン卿には、特段敵対する相手はおらず、娘以外の相続人が居ないため、所領を巡る争いもなかった。


 これらの事件が、(ジゼルとの)婚姻と子供を儲けた後に起こったのであれば、ジロワが容疑者の最有力となったことだろう。持参金である領地を、名実ともに完全に手中に納めるには、そうする必要がある。


 だが今回の経緯では、ジロワは予定された全てを得られなくなる。不本意ながらジロワの身の潔白の、有力な証拠となった。


 領主ら首脳を失い動揺したエウーゴン家の家臣は、まず頼りにすべき主君の親族がいないため、ルーアンのノルマンディー公宮廷、公領南東部を統括するイエモア伯ことノルマンディー公の第二公子ロベール、そしてジゼルの婚約者であるジロワの下へと急使を送り出した。

 急報を受けたジロワは、オルウェンのみを従え、馬を飛ばしてエショフールに急行する。

 急行、とはいえ馬も人も休息は取らねばならない。途上で馬が潰れてしまっては、元も子もないのだ。

 結局、エショフール城の城門を潜ったのは、出発してから二日後の事だった。急使が到達するのに掛かったのが三日、都合事件発生から五日が経過していた。

 ジロワらは馬を降りるや、すぐに遺体が安置されている、城内の礼拝堂に駆け付けた。

 窓から差す光が、焚かれた香の薄煙に縞模様を織りなす室内の奥、祭壇前にエウーゴン卿とジゼルの遺体が、それぞれ光沢のある敷布を掛けた寝台の上に並べられていた。

 死後五日を経過したというのにいささかの痛みも見せていない。よほど腕の良い死体処理者エンバーマーが処置を行ったのだろうか。

 

ジゼルの遺体の傍らへ膝をつき、その安らかに眠る様な死に顔を見つめる。

頬を指で撫でるが、肌の温もりは感じない。


 ふと、ジゼルの胸前で組まれた両手の、袖口から覗いたものに気付いた。不吉な予感を感じながら、ジロワは十字を切って彼女の袖口に手を伸ばす。


 袖を引いて現れた上腕部に浮き出ていたのは、鮮やかな紫の斑紋だった。それは、ジロワらがマルコ修道士から聞かされていた、二コラが用いるイスラム秘儀の毒のあかしであった。


 ジロワの脳天から爪先へと、雷撃が駆け抜けた。つかの間、意識が空白になる。


 背後から覗いていたオルウェンも、それが意味するものに気付いて硬直した。


 獣の咆哮が、室内に響き渡る。


 ジロワは、叫びながら、その拳を石造りの床に打ちつけた。それは、何度も。次第に速く。そして、強く。


 自ら拳を潰しかねない勢いの主を、慌てたオルウェンが背後から羽交い絞めにして止めようとする。


「おのぉれぇえ、ニコォラァ!」

 両腕を老弓兵に固められた状態でもがきながら、ジロワは拳に代わり、宙に呪詛の言葉を叩きつける。

「最早、汝は御坊ムワーメの仇のみに非ず! 今この時より、うぬは我が仇となった! この復讐は我自身のものだ! 貴様に神の審判など受けさせぬ! 我がこの手で地獄に叩き落してくれるわ! 例え道連れになろうともな!」


その時、室内に第三の人物の声が響いた。


「死者の眠る傍ですぞ。騒ぎたければ外でなさいませ」

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