第8話 戦のあと(二)

 その後、短時日のうちに、ベレームとメーヌの間で使者のやり取りと交渉が重ねられ、最終的に以下の取り決めがなされた。

 

・アヴェスガルド司教をル・マンに帰還させること。

・司教はメーヌ伯の破門を解き、メーヌの聖職停止令を解除すること。

・ベレーム卿はすみやかにマイエンヌ卿アモンを解放すること。身代金は適切な相場の額による。

・メーヌ伯とベレーム卿は君臣契約を結び、ドンフロンを封領としてベレーム卿へ与えること。


 ベレーム側は、正直目を疑った。勝った、といっても最後の最後で辛くも隙を突いて撤退させただけである。これほど気前の良い条件など期待していなかった。表面上はベレーム卿の完勝といって構わない諸条件、見様によっては失敗と言ってもいい小競り合いの結果としては、気味が悪いくらいの厚遇である。


 一番目の司教のル・マン帰還は、もとよりベレーム側の目的としたものであるため、これだけでも十分な成果である。


 二番目の条件は、司教がメーヌから逃亡する際、当時の聖界諸侯が俗界諸侯に対して行う常套手段である破門と聖職停止令を行っていたが、これの停止を求めたものである。


 君主が破門宣告されると、臣下は主従契約を破棄することが可能となる。また、聖職停止令とは、領域内の聖職者・教会に対し、信徒向けに行う日常業務を停止させるものである。


 具体的には、婚姻手続きや新生児の洗礼、死者の教会墓地への埋葬などが行われなくなる、というもので、地味ながら民衆の生活には影響が大きい。


 これらは、一見強力無比な対抗手段と見えるが、完全無敵ではない。


 破門宣告を受けてすぐさま臣下が離反する様な事態は珍しく、半世紀ほど後の例だが、法王グレゴリウス七世による破門宣告を受けた神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世の場合、彼に敵対していたドイツ諸侯ですら皇帝の廃立を”一年後の期限までに破門が解かれなければ”という条件付きでしか行わなかった。


 ハインリヒ四世は雪の降る中、カノッサの城門で裸足のまま断食と祈りを捧げて法王の赦免を願った。有名なカノッサの屈辱である。


 また、破門宣告自体も、他の権限ある高位聖職者や宗教会議により取り消されることがある。そして、聖職停止令にしても、それが効力を発揮するのは民衆が生活の中で信仰を重視すればこそであり、長期に渡る不便と生活の必要から教会の権威が後回しにされるようになれば、これは教会自体の存在意義を失わせる本末転倒である。

 

 この様な諸刃の剣は、効果のある内に納めてしまうに限る。わざわざ条件に挙げずとも、司教の帰還がかなった時点で当然に為されていたであろう。

 

 四番目、メーヌ伯とベレーム卿の君臣契約。中世ヨーロッパの君臣契約、主従関係というのは、儒教社会におけるような絶対的な支配関係ではない。


 一方の側に権威の優位性を持たせ、他方に(名目的な場合も含め)土地の給付を伴う相互軍事協力契約、というのが実態に近い。主君側をリーダーとした軍事同盟である。


 もともと蛮族やヴァイキングなどの外敵に対して相互に援軍を送って助け合うところにヨーロッパの封建制の起源の一つがある。それら外敵の脅威が薄れると主君と臣下の間で領地争いの戦争を始めることも珍しくはなかった。


 今回の場合、実質的にはドンフロンを対価に、同盟関係とまではいかずとも不戦条約関係を構築するという意味合いが強い。名を捨てて実を取った、メーヌ伯からの機に乗じた外交提案である。


 ベレーム家にとって、こうした関係は他にもあった。


 もともと、ノルマンディー公の臣下としてベレーム卿が与えられていた封領はアランソンである。対してベレームの地はフランス王から封領として下されたものであった。つまりベレーム卿としてはフランス王も主君にあたる。


 これはベレーム卿の支配地が、ノルマンディー公とフランス王の勢力圏の接する所であったこと、そして、初代ロロ公以来の膨張政策を取っていたノルマンディー公家が、三代リシャール一世の時代になって領内統治の安定を目指す方向に政策転換し、フランス王領との国境に緩衝地帯を置く意義が認められたためでもあった。


 封領としてベレーム卿に引き渡そうとしているドンフロンは、メーヌ伯領とノルマンディー公領が直接、接する所であり、西をノルマンディー公臣下のモータン伯領、東をベレーム卿のアランソンに挟まれた土地であった。


 メーヌ伯の野心が北に向いているならば、その足場となる立地であったが、生憎あいにく現在のメーヌ伯の関心は南のアンジュー伯領方面に向いている。むしろ、北に守りを割かなければならないのは負担であった。


 ドンフロンを封領としてベレーム卿に与えるということは、メーヌ伯にとってノルマンディー公領との間に緩衝地帯を作り出すことになる。

 メーヌ側の目論見としては、ベレーム卿を捕えて無償でメーヌ・ベレーム間の安定状態を作り出すことが最善であったが、それが出来なかった以上、何らかの出捐しゅつえんは覚悟の上である。

 そして、メーヌ側としては、ドンフロンというのは比較的納得しうる手札であった。ベレーム家内の厭戦気分は、メーヌ側でも把握しており、望外の御馳走をチラつかせることで一気に話を決め、対アンジュー伯に集中したい。様々な思惑が絡み合って出たのがこの条件であった。


 歴史の結果として、ドンフロンをノルマンディーとの緩衝地帯にするというメーヌ側の目算は、ある程度的を得たものになったと言える。この後数世代の間、記録に残るドンフロンでの大きな戦いというのはほぼ、ノルマンディー公家とベレーム家の間に起ったものばかりだった。

 

 三番目の条件であるマイエンヌ卿の解放については、言わずもがな、わざわざ取り決めせずとも当然行われるはずのことである。あえて言えば、身代金に法外な額を吹っ掛けることができなくなる位であろうか。


 だが、今回の場合、マイエンヌ卿アモンの身柄はクルスロー卿ジロワが自ら留置している。もし、これ幸いとばかりに足元を見られたならば、差額の負担も覚悟せねばならない。


 ジロワ卿の存念を確認するため、ベレーム卿の使者がクルスローへ遣わされた。戻った使者の報告は、ジロワ卿には特段の心算なく相場に応じた身代金で異存ない、というものであった。僅かではあったが懸念事項を解消して安堵したベレーム卿は、使者が煮え切らない様子でいるのをいぶかしんだ。

 

「悪くはないのですが……」

問われて、使者は歯切れ悪く答えた。


「かの御仁ら、ともに日がな武術の稽古鍛錬に励まれ、親交を深められている由」

悪くはないのですが、と繰り返し、妙なものを見せられた気分です、と。


 確かに捕虜の処遇としては、身代金が見込める限り(大事な金蔓として)饗応やせいぜい狩猟などでもてなすことが一般的である。

武術の鍛錬?まぁ、その様な筋肉馬鹿も居るのだろう、虐待をしているのでなければ気にするな。


 気にするな、とは言いつつも妙な気分に感染されたベレーム卿であった。

 夜襲明けの朝、目通りしたジロワという初老の騎士は、確かに偉丈夫であったが、これまでの印象というのは、割と地味で目立たないものであった。分からないものだ。

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