第2話 出陣前夜

「黒毛は残していく。足白あしじろの老いぼれを使う」


 薄暗い室内で、わずかに燭台で照らされた卓を囲む一族郎党を見回し、ジロワは絞り出すように言葉を紡ぐ。

 ”黒毛”といったのは、昨年、軍馬生産で名高いウシュのグランメニル家から購入した、まだ若い体躯の優れて立派な若馬だ。

 ジロワの愛馬、足回りの毛が白い鹿毛の”足白”が年老いて弱ってきたため、思い切って購入に踏み切った。


 その若馬を、惜しんだ。


ジロワの戦に対する見通しを感じ取り、一同の肝を冷たいモノが撫でていった。


「替え馬も老馬だけを連れてゆく。そして……」


一息おいてから、巨体の領主は一気に言葉を繋ぐ。


「敗れて逃げる時は、ワセリンが皆をまとめよ。皆はワセリンに従い、一団となって逃れよ」


退却時の指揮者に娘婿むすめむこのワセリンを指名する。


「ただし、オルウェン、ル・グロ、それから……」


ウェールズ人老弓兵と、巨漢の斧使いノルマン人、それに続けて数名の老兵の名を挙げる。


「以上の者は、わしと共に殿軍しんがりを務めよ」

一同が息を飲む中、静寂を破って獰猛な笑い声が響く。


「ぶっ、ぶわははは」


 普段は滅多に喋らず、ぼうぼうの髭と長い前髪のせいで、顔の中で見えているのは眼のあたりだけ、という、何を考えているのか表情の読めない老弓兵が、めったに見せない笑声を上げると、


「あるじ殿は酸っぱい搾り汁よりも、熟した年増の方がお好みじゃ」


 と、こちらは逆に、平素から口数の多いノルマン人斧使い、タースティンという本来の名はあるが、ほぼ”ふとっちょ”ル・グロとしか呼ばれない巨漢が、ニヤニヤ笑いを浮かべておどけた。

 顔面を朱に染めたワセリンが、何かを言いかけて唇を噛み、堪える。


 老兵のみの殿軍。つまり、退却のための捨て石である。


「ロジェ」


斧使いの戯言に苦笑いを浮かべながら、ジロワは次に家宰の名を呼んだ。


「はっ」

「お主に留守を任せる。儂に万が一あれば、フルクに使いを出せ」


 普段から領地の細々した采配や揉め事の処理は、主にロジェが行っている。改めて指示を受けることはあまりない。また、勝ち戦なら留守の者がすることは特段無い。

そのため、出陣前の指図が、負け戦の場合の非常対応中心となるのは、道理である。

 だが、それにしても、今回はやけに念入りだ。

「はっ」

 家宰は、違和感に戸惑いつつ、了承するしかなかった。

 フルクは、若い頃のジロワが、ブリヨンヌ伯の下で雇われ騎士として勤めていたとき、マリーという名の下女と親しくなって産ませた子だ。

 ブリヨンヌ伯ジルベールが気紛れで名付け親となり、フルクの名を貰った。古いゲルマンの言葉で”族長”を意味するという。

 マリーはその後、エーメンガードとアワイズという二人の娘を産み、数年前に他界した。

 エーメンガードの婿となったのがワセリンであり、フルクは現在、従騎士としてブリヨンヌ伯の下で騎士修業中である。


「それから」


ジロワは努めて平静に、言葉を続けた。


「儂が捕虜となっても、身代金は支払うな」


 身代金を支払うな。


 室内がざわつく。さすがに尋常ではない指図であった。

 捕虜となったあるじを解放するために身代金を工面するのは、臣下や親族の当然の義務であり、その努力を放棄することは著しく異常で不名誉かつ無責任な行いであった。

 そのざわめきの中、一人、呵々かか大笑する者がいた。


「これはこれは、我がご領主様は欲深でいらっしゃる!」


「御坊!何を言われるか!?」

「何を言う、と言われても」


笑いを納めて応じたのは、浅黒い肌の、明らかにサラセン人(アラブ人)と思しき修道士であった。


「身代金など不要、敵城に虜とならば、その城を落として解放せよ、ということじゃろう?」


喧騒が止む。

確かに、捕虜を捕えている城自体を攻め取れば、解放に身代金はいらない。

だが、そんな意味の発言でなかったことは明らかであるし、現実味のない絵空事の類である。


「……そ、そのような」

「はて?ワセリン殿には、荷が重うございますかな?」

「!?なんの!よきお考えだとも!なるほど、城を落としてしまえば身代金など関係ないわ!」

 やけくそ気味にワセリンが威勢を上げる。普段から、勇を振るい武を張る戦士たるもの云々、と言い放つ男である。

 ここで後ろ向きなことは言えない。とんでもない所に追い込まれて退路を断たれ、狙い通りに言わされた次第である。


 だが、齢五十を数え、余命のそれほど長くない領主の解放に莫大な身代金を費やすことが割に合う話ではないのは、皆が理解していた。とはいえ、「はい、そうですか」と、抵抗なしに聞ける話でもない。


 褐色の修道士に煽られた荒唐無稽な与太ではあったが、誰もが体面を失うことなく、沙汰止みとなった。結局、うやむやにしただけではあるが。

 その後は、ル・グロの生まれたばかりの孫の名付けなど、雑事を整理して散会となった。


 一同が三々五々館を辞去する中、ジロワは、オルウェンとル・グロ、サラセン人修道士ら三名を呼び止めて奥の部屋へ招いた。


「さきほどは、世話をかけたな、御坊」


 とっておきの、やや上等の葡萄酒を各自の盃に注ぎつつ、ジロワは先ほどの席での礼を述べた。


「いえいえ、詭弁妄言で場を混ぜっ返しただけのこと。大人気ないことをいたしました」


 見ての通りのサラセン人である。名はマルコ、と名乗っていたが、領地では誰からも”お坊さん”ムワーヌと呼ばれている。片脚に障害を負い、旅を続けられなくなってこの領地に居着く様になった。


 修道士は本来、聖職者には含まれないが、修道士の中にも聖別を受け司祭に叙任されるものがあり、修道司祭と呼ばれる。彼は所属する修道院では、修道司祭であったと自称しているが、それは確かめようもないことであり、かつ、そうである方が周りも都合がよかったためか、そのまま受け入れられている。


「されど、ご領主様には、それほどにこの度の戦、危うく見えますかの?」

「さて、そうと決まったものではないが。ベレーム卿も、昨日今日なったばかりの領主ではない。戦の備えに手抜かりはなかろう。だが、」


一旦言葉を切ったジロワが、視線を落として続けた。


「この戦は、ベレーム卿のものではないからな……」


ル・マン帰還。

帰還するのは誰か?この戦いは誰のものか?


アヴェスガルド司教、である。


 ギョーム卿は(全戦力を提供しているにもかかわらず、)あくまで助っ人である。

戦力として駆り出される臣下騎士たちにとっては、ル・マンが誰のものになろうが関係がない。

敵の侵略から領地と家族を守るための戦いでもなく、領地を奪い取るための戦いでもない。

加えて、一方の大将は戦知らずの司教殿、一方は武名輝く戦上手。

守るものもなければ、得るものもない。他人の戦いであるにも関わらず、掛け金は自分の命。

それがこの戦いである。

 ジロワは弓兵と斧兵を見つめて言った。


「御坊のおかげで有耶無耶にできたが……いざその時には、お主ら、頼むぞ」


 ジロワとオルウェン、ル・グロの三人が戦場に赴くのは、これが初めてではない。

あれは幾度目か、激戦の末、命からがら戦場から撤退した時のこと。

もうここまでくれば、と倒れ込んだ草原で、満天の星空を仰ぎながら二人と交わした約束があった。


「忘れちゃあおらんよ、あるじ殿」

ノルマン人は宙を見据えながら応え、ウェールズ人はただ黙って頷く。


「すまぬな」


三人の仔細ありげなやり取りを、修道士はただ黙って見ていたが、


「ご領主様」


「何か?御坊」


修道士は居住まいを正し、眼に強い光を宿して告げた。


「ゆめゆめ、早まったご決断はなさいませぬよう、お願い申し上げます。クルスロー領の民はご領主様あってこそという者が多くございます。かく云う拙僧もその一人」


「ご安心召されよ、坊主殿」

ニヤリ。斧兵はさも可笑しそうに、

「あるじ殿にはまだまだ我ら領民のために苦労してもらわねばならん。我らにお任せあれ」

弓兵が大きく頷く。

 この男達が、そうと言うからには、これはどうも簡単には、くたばることも出来そうにない。やれやれ、諦めることすら、気ままにできぬとは、まこと人とは不自由なことよ。

 そうぼやいて見せると、修道士は今宵初めて、己が職分を思い出したように、


「それも、人の子の試練にございましょう」


のたまって、盃を干した。

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