第20話 ルーアン

 薄曇りの空の下、北ネウストリアの大動脈であるセーヌ川を挟んだ向こう岸に、ノルマンディー最大の都市ルーアンが広がっていた。壮麗な大聖堂が対岸のこの場所からでも良く見える。


 セーヌ川流域の、より上流に位置するパリは、ブルゴーニュ・シャンパーニュなど内陸部へ至る水運の要として栄えた。

 一方、セーヌ川下流のより海に近いルーアンは、海路と内陸水路との結節点として、またノルマンディー公領の中心都市として隆盛を誇っていた。

 さらに、ルーアン大司教座が置かれるこの都市は、ノルマンディーの宗教上の中心地でもあった。現在、ノルマンディー公爵リシャール二世は、この枢要の地に宮廷を置いている。


「ジロワ卿、渡し船が確保できました。参りますぞ。ルーアンは雨が多い。天気が崩れる前に渡河して宮殿宿舎に入るが吉ですぞ。まぁ、雨が多いおかげで道端の汚物が流され、パリなんぞと違って酷い匂いに悩まされることはないのですがな」

 旅の間何くれとなく世話してくれた、気の良いベレーム卿の侍従が陽気に話し掛けてくる。ベレーム卿は既に船着き場に居るようだ。

 同行するオルウェンが荷物を担ぎ直す。

「今、参ります」

 これよりジロワは、ベレーム卿に伴われてノルマンディー公リシャール二世の宮廷へ赴く。




 エショフールの事件でジロワの婚礼が立ち消えても、クルスロー領が以前の状態に戻ることはなかった。

 領民たちは早過ぎるジゼルの死を悼んで沈痛な空気に浸り、領主はじめ首脳陣はニコラ探索の強化に、これまでよりも遙かに没頭していた。

 そこには、悔やみきれない悔悟の想いがある。

 ニコラの捜索が手詰まりとなった際、「仕方がない」「次に動きが出るのを待つ」と先送りしたことで、よりによってジゼルがその『次の犠牲者』になってしまったのだ。

 ジゼルを犠牲者にしたのは、自分たちの怠惰のため。

 そう口に出して言うものはいなかった。さすがにそれは、牽強付会だろうか。だが自覚されぬままにそうした自責の念が彼らを蝕んでいた。

 

 エショフールで知己を得たイエモア伯配下の騎士フルベールからは、現地での事情聴取の結果をまとめた報告が届いた。


・事件後、エショフール城から姿を消した人物は以下の二人。ローマから来たという旅の商人の奥方とその従者。

・上記二名はこの地に縁者はなく、婚礼の予定を聞いた、と言って上質の絹織物を献上してきた。これを喜んだエウーゴン卿親娘らが上記二名を城内に逗留させていた。

・女(奥方)は長身で黒髪、かなりの色白美形。年齢は不詳。従者の方は金髪短躯で特徴のない顔立ちの中年。

・女の方はワインを飲めない、と言って避けていた。

・城内の井戸の底から、女が着用していたドレスが見つかった。

・以上の事から、この女および従者が下手人と見られるが、変装を施していたとみられ、逃走した方角などは不明。

・また、隠れた相続人など、事件の結果により利得を得られそうな利害関係者は現れておらず、背景関係や動機も不明。

・エウーゴン卿は近年老齢もあって活動を縮小しており、政治的・経済的に対立する関係にある者は無かった。


 情報量は増えたが、解決に繋がるような決定的なものはない。


 フルベールが派遣してきた使者の口上を聞き終えたのち、まずマルコ修道士が口を開いた。

「いくつか、整理しておきましょう」

 ジロワは頷き、先を促す。

「まず、この女がニコラの女装だったとして、ですが。かの者は現在でも疑われずに女装を通せるほどの容色を維持している。 次に、従者を務めた金髪短躯の男の存在から何らかの関係にある協力者が居たこと。これは今回限り、依頼人寄りの人物なのか、元から奴の協力者であったのか、は不明です。 そして、十五年の歳月を経てこの地の近辺に現れた、この近辺に根城を築いている可能性がある、ということ」

「どこか他の地を廻って戻ってきた、という可能性は?」

「否定はできません。ほかの地で同種の事件が起きているなら、その可能性はさらに高まりますが、これまで調査した範囲でそうした記録は現在のところ見つかっていません。 どう動くか不明なものは、出発点から離れれば離れるほど存在の可能性は減ります。 まぁ、その伝で云えば事件現場が最も可能性が高くなってしまうのですが」

 マルコの推測の仕方は、確率の正規分布だ。

「……変装して逃走したとなると、男の姿になったと考えるべきか」

「いや、それは単純すぎるだろう。金持ちの女に化けられるなら、貧しい女にだって化けられる」

「結局わからん、ということか」

「ニコラの方は何に化けるか分からんとしても、その従者役の方はどうだ?」

「性別は誤魔化せても、体格は変えようがないだろう。 長身黒髪痩身の男または女と、金髪短躯の男の組み合わせ、という条件で捜索してみては?」


 様々に意見が叫ばれる中、

「それにしても、一体なぜ、誰がエウーゴン卿とジゼル殿を亡き者にしたい、と考えたのやら」

という問いには、誰も推測すら挙げることができずに沈黙するしかなかった。


 突然のベレーム卿からの使者がクルスローを訪れたのは、その様に落ち着かない状況の最中であった。


「ルーアンへ同行されたし、と?」




 ベレーム卿ギョームは『元首プリンセプス』という敬意を込めた渾名で呼ばれたように、一応は名君と見られ得る人物だった。もっとも、それは次代以降のベレーム卿があまりにも評判が悪かったせいかもしれないが。


 ともあれ、当代のベレーム卿は名門貴族の主として相応しき鷹揚な人物であった。


 そのような人柄であったため、先のメーヌ伯との戦においてジロワが示した際立った働きは義務を超えた功績であり、これに何らかの報奨を与えなければ借りを作ったままで落ち着かない、と感じていたのだ。


 そうしたところに、今回のエウーゴン卿の一件が起きた。


 これだ、と思った。ここでジロワ卿を『助ける』ことができるのは自分だけだ、と。

 ベレーム卿は急ぎ、付き合いのある宮廷重鎮や公家一門のお歴々へ、根回しについて助力を求めるために心利いたる重臣を派遣する。




「ノルマンディー公に拝謁、でございますか?」


 家宰ロジェが思わず聞き返す。

 ベレーム卿の使者の口上を受けた後、ジロワはとまどい、回答を保留して側近たちに諮った。


 現在、エウーゴン卿の領地は相続する者が居らず、宙に浮いた状態である。


 もし誰か相続権を主張しうる者があり、主君たるノルマンディー公がそれを認めれば改めて主従契約が結ばれ新領主となるのであるが、これまでも述べたように相続人は存在していない。


 そのため、今回の場合は主君にあたるノルマンディー公が新たな領主を指名して封じることとなる。


 もしジロワが指名されれば、一旦は立ち消えたエウーゴン領が改めて手に入ることとなる。だが、ジロワのような地方の小領主には宮廷での伝手が無く運動のしようもないためこれは既に無いものと考えられていた。


 ベレーム卿の申し出は、自分が仲介してエウーゴン遺領の後継指名を受けられるよう取り計らおう、というものだ。


 これがベレーム卿の考えた、ベレーム卿にしかできない『報奨』であった。 


 既に根回しは整った。ジロワの武名が喧伝されていたこと、また、ジゼルと婚約関係にあったことなども作用し、見通しは良好。ただ、此度はノルマンディー公と直接主従関係を結ぶことになるため、一度宮廷に出仕して主従契約の儀式を済ませねばならない。


 だが。


「大変僭越ではございますが、拙僧は反対でございます」

 話を聞くや、マルコ修道士が反対を述べた。

「なんと? 何故、御坊は反対なされるや?」

 これほどのベレーム卿のご厚意を踏みにじって、と言外に含みながらワセリンが問うた。

「されば、この度、ニコラが動いた契機として何があったかをお考え下さりませ。 ご領主様とジゼル様のご婚約、つまり将来のエウーゴン領の行方に関わる出来事ではございませんか。 この二つを全くの無関係と断じることは、拙僧にはできません」

「エウーゴン卿の領地に利害を持つ者は居なかったのでは?」

「我らが、そして誰もが察知しておらぬだけかもしれないのです。 逆に、何もないというなら、一体誰が何故こんな大それたことを?」

 最後のは、誰にも答えられぬ問である。

 マルコは肩を落とし、目を伏せて呟くような声で続けた。

「分かってはおります……。 この様に疑心暗鬼になれば、何もできず動きが取れなくなるだけだと。 それでも! それでも拙僧は、ご領主様を失う様な危険だけは冒したくないのです!」

 そこにはマルコ修道士の強い自責の思いが色濃く滲んでいた。

 神の視点からなら、マルコの懸念が的を外したものであることが知れただろう。

 だが、ただ人の子らが理性的に考えようとするあまりに、ニコラの突発的で不合理な暴走による意図せざる攪乱が深刻に影響したのだった。


 一同の視線は自然、ジロワへと集まった。

 これまでジロワは各人の意見を黙って聞いているのみであったのだ。


「……ルーアンへ、行こうと思う」

ジロワが断を下し、マルコはハッとして泣きそうな顔を上げる。


「エウーゴン領など、どうでもいい。 だが、儂は復讐の誓いを立てたのだ。命に代えても果たすつもりの誓いを、な。 刺客が自分から来てくれるというなら、それは願ってもないことだ」

 主の動かし難い決意を感じ取り、誰も声を上げることが出来なかった。


いざ、ルーアンへ。

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