第9話


足を動かして前に進んだ。足首もなんだか鈍く痛む。


手探りだからさっきの倍は時間がかかる。明るい道ならなんてことない小石に蹴つまずき、急に垂れ下がってきた細い糸のような形の石に頭をぶつけ、水のある方へ、少なくとも自分がそうだと思う方向へ足を踏み出す。


急峻な坂をやっとの思いで這い上ったとき、そこには河があった。地下水が緩やかに流れている。水の匂いがして、ひんやりした空気が心地よい。足元は危うかった。ぼろぼろと崩れやすい土が巨石の上に広がっている。地面から水までの距離は遠く、川縁というよりむしろ断崖絶壁に近い。


ラウラは四つん這いになって水を覗き込んだ。口にしてみたかった。喉が渇いてひりつくほどだった。手を伸ばしてみても指先は水面に触れられない。ただ真っ黒な中に浮かぶ水面が、しんと闇のように広がるのを眺めるばかり。


彼女は苦笑して身体を起こした。灰白色の目は暗闇に強く光に弱い。一族の誰も所有していない、おそらくは母の不貞の象徴が今はこんなに頼もしい。しばらく目を瞑ってから開けると、そこには最初にいたところよりもっと大きな洞窟が広がっていた


大聖堂の天井を見上げればそこには神と天使の神話がフラスコ画法で描かれていた。こうして見上げる天然の天井は、大聖堂のそれに似ていた。つまりはクォート皇国で一番大きな建物と同じくらいだということ。


一面の星空のようだった。きらきらと煌めく宝石の輝きが、あらゆるところに顔を出す。それが水面に反射する。ゆるゆるした水の動きの中に揉まれて霧散しては再び顔を出す。繰り返し、繰り返し。なんの心配もいらない気がした。状況さえ忘れ、ラウラはこの暗い空間に見惚れていた。


「きれい」


だと、心から思う。朝の礼拝の最中にふっと意識が飛んで、古い物語の中に自分がいると感じたときのような。歌う讃美歌の歌詞に同化されて皮膚の感覚が薄くなり、自分の輪郭が薄くなっていくときのような。大きなものの中にいる、包まれている。そんな気持ちがした。


ラウラは夢見心地だった。ユルカイアにやってきてほとんどはじめて、心からくつろいでいた。


だから気づくのが遅れたのだが、すでに水面ギリギリまで魚型の魔物が迫り、久しぶりに嗅いだ人間の匂いをその触覚で探っていた。それの姿はナマズそっくりだった。ぬらぬらした鱗が明らかに宝石とは違った形で光ったので、そして灰白色の目が睫毛ごしにそれを捉えることができたので、彼女は咄嗟に横に転がった。


一瞬前までいたところに尾の一撃が飛んできて、もたれかかっていた岩を破壊した。そしてばしゃんと降り注ぐ、大量の水。粘膜が混じっていたのだろう、ぬるりと不潔な感触がして、続いて灼熱の痛みが走った。毒が含まれていたのだ。


ラウラは弾かれたように上流へ走り出したが、暗すぎたのとパニックによってその足取りはいかにものろのろと無様だった。ナマズが次に水面から飛び上がったとき、彼女と魔物の間に割り込む影があった。


きん、と高い金属音。ナマズの歯とグティエルの剣がぶつかった音。だがラウラには見えなかった。恐怖と焦りのあまり彼女は目を閉じていた。はくはくと口を開け閉めして、かろうじて見つけた岩と岩の隙間に滑り込んだのはまあ上等である。その場で棒立ちにでもなられたら、夫は妻のために腕一本も犠牲にしなくてはならなかったかもしれない。


「嘘だろ、なんでこんな……あー、くそ!」


彼は鋭く毒づくと、ナマズの魔物に向き直ってその触覚の上を走った。体重などないかのような軽やかな動きで、顔には自然とあの山猫の笑みを浮かべ、


「――ふっ」


小さく息を吐き出し、姿が消える。そのようにナマズには見えた。


グティエル・エンバレクのもっとも大きな武器の一つがその俊敏性にある。暗闇の中から湧き出る魔物を退治することに特化したユルカイアの住人の特徴で、彼は目を瞑っていてもものにぶつかることなく走り回ることができた。物心ついた頃から走り回ってきた一族の土地の洞窟であれば、なおさらのことである。


ナマズが視認できない速度でその頭の上を駆け上がった彼は、そのまま洞窟の側面壁を走り抜け、天井を蹴って一直線に下へ飛んだ。


真上からの斬撃によってナマズの頭蓋骨が砕けた。声帯のない魔物は、それでも唇を振るわせてのけぞる。


「お前が悪い。人間に手を出そうとした。ならば古い盟約に従い俺はお前を殺さねばならん。――許せ」


ユルカイアの王として、彼は小さく呟いた、そのままグティエルは再び刃を振りかぶる。


ナマズは声にならない声で慟哭したが、泣き落としは通用しない。彼はそのまま無感動に剣を押し通し、そうしてナマズの頭部はほぼ真っ二つに抉り取られた。


どうと倒れる巨体は、熊より大きく鼠より小回りがきく。のたくった死体の末期の足掻きにより、ばしゃばしゃと津波じみた水飛沫が立った。気が早い小型の魔物がわあっと水面下や上の石の下、隙間から出てきて、そのムカデやゴキブリに似た身体をくねらせ巨大なごちそうに群がり寄った。グティエルはそのいくつかを踏み潰してしまい、やれやれと首を横に振る。


か細い悲鳴が聞こえたのはそのときである。彼は剣を納めながらそちらへ急いだ。


「きゃああ、きゃ、あ。きゃああああ!」


と騒いで跳ね回っているのは間違いなく彼の妻だった。おおよそ初めて魔物を目にして狂乱しているのだろう。一発ビンタでもした方がいいのか、でも皇女様だなんて偉い人、そんなことしたら泣き出して手に負えなくなるのか?


「あー、おい」


「あ、あ、あ!」


妻は、ラウラニアはこちらを見つけるとあんぐり口を開けたままよろよろ両手を伸ばしてきた。反射的に、彼はその手を取った。


「おい、お前、」


「私虫ダメなのお……」


「は?」


ラウラは目にいっぱいの涙を溜め、何故だかグティエルを睨みつける。


「だから、私は虫が嫌いなんです! ここにこんなに虫が潜んでいるとどうして言ってくださらなかったんです⁉︎」


「いや、知らんよ」


もっともな話であった。


ラウラはぐううと歯を食いしばってグティエルの腕を掴んだ掴んだ。小さな爪が籠手に食い込むのを彼は感じた。


「そもそもなんでこんなところにいるんだ?」


「それは……すみません」


落ち着きを取り戻そうと顔の横の髪の毛を引っ張りながら、ラウラはがたがた震える身体で足踏みをした。足によじ登ろうとしていた甲虫の多足の感触を思い出すだけで泣き出しそうになる。


「部屋に穴が、石組みが出ていて、引っ張ると外れ、ああ。違います。逃げ出そうとしたわけではないのです。どうしてここまで来てしまったか私にもわかりません。ごめんなさい。許してください……」


「ああ。そうか」


何が起きたのか、ラウラ本人よりよくわかっているよという顔である。


「山に呼ばれたんだな。女子供にはよくあることだ」


「山に?」


「ユルカイアの山々には魔物が巣食う。魔物は人を食い、山は魔物を食う。だから山自体もまた、人間を呼ぶ。餌の餌を。抗えない誘惑だ。だから女たちはお守りだといって呪符をたくさん持つんだが、お前さてはまだもらってなかったんだろう」


ラウラは言葉を失った。グティエルは彼女を自分から引き剥がすと、短い背中までのマントを翻し踵を返した。


「来いよ。出口まで案内してやる」


「え、ええ……」


「俺が来るまで生きていられただけで上々だ」


と彼は言った。思ったより優しく、まるで褒めるかのような声だわ、とラウラは思った。


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