第10話


グティエルについていった先、外にたどり着いた。いとも簡単に。


風がある、と思ったときにはぱっと視界が開け、縦に開いた狼の口のような亀裂から景色が見えたものだからラウラは驚いた。丘はそれほど大きくなく、山の中腹にあるようだった。まだ石組みを数えることができるほど近くにユルカイア城があった。これほど短い距離を、いったいどうして彼女はぼろぼろになりながら駆けたものだか。


グティエルは後ろを振り返り、ラウラがついてきているのを確かめた。思ったよりひどい有様だったらしい、濃い眉をきゅっと吊り上げる。


「手当しよう。来いよ」

「あ。先に城に、戻った方がいいのではありませんか。そうさせてください。痛いのです……」


すでに狂騒の熱は冷めていた。ラウラはもう、彼の言い方をすれば山に呼ばれていない。いつも通り残った諦めと自己嫌悪を抱えて項垂れているところ。


グティエルは器用に左の眉だけを上に上げると、斜め下を指さして言った。


「見えるか? 昔あそこはちょっとした村だった。魔物の襲来が激しくなって遺棄されたんだ。そこまで頑張れ。城は思ったより遠いぞ」


ラウラは手のひら大に見える城を振り返り、夫は続けた。

「起伏が激しいし、一度地下に潜らなければ通れない崖がある。ホラ、来い」


ラウラは身震いした。興奮が切れて徐々に身体の痛みも大きくなってきたところだった。身軽に先を行くグティエルのあとを彼女は続く。気を紛らわせるため昔のフォルテがいかに憎たらしかったかを思い出しながら歩き、歩き、足首の腫れが無視できないほどになる前に、なんとか集落のあとについた。


丸太でできた素朴な住戸が十軒ほど立ち並んでいるだけの、まさしく村だった。ほとんどの家は朽ち果てているようだったが一軒だけ扉がきちんと閉められ、まっすぐに建っているのがある。


「執事の家だよ。最初の日に会っただろう」

「ああ……」


ラウラは老人の柔和を装っても隠しきれない不愛想と警戒を思い出しながら頷いた。


グティエルは胸元から革紐に繋がれた鍵を取り出し、家の扉を開いた。ふわんと知らない人が暮らす場所の匂いがする。室内は揺り椅子がひとつ、暖炉、それから木のテーブルがあってその上にいくつかものが置かれていた。乾燥した薬草の束や水差しなどが。


「誰もいないから、掃除する代わりに俺が休憩に使わせてもらってる。座れよ」

「失礼いたしますわ」


ラウラはそのようにした。揺り椅子はキイと鳴って彼女のお尻を受け止める。せめて背筋を伸ばして座りたかったがそれはできなかった。身体じゅうからどっと疲労が、押し寄せてくる。傷もズキズキ痛む。


何もかかっていない壁の釘。埃の積もった桟。天井裏はなく、吹きさらしに屋根組みが見える。ほのかに漂う薬草の香りと、暖炉の熱。すべてを興味深く眺めているうちに、安心したのだろう瞼が下り始めた。細切れの睡眠が襲ってくる。ラウラは重たい頭を必死にまっすぐにする。


「眠いなら寝てもいいけど」

と言われてハッと目を開く。笑いを含んだまだ若い大人びた声だった。

「申し訳ありません。決してご厚意を無碍にするつもりは」


グティエルはもごもごと口の中で何かを言った。目元にはあの山猫の笑みの名残りがあったが、実のところそれ以外は少年らしいはにかみが見てとれた。思ったよりも夫は柔らかく幼いのかもしれない、とラウラは思った。


それは罠かもしれず、また侮辱に当たるのは確かだった。まさか表に出すわけにもいかずあたふたと手でスカートの皺を伸ばす。古いが上等の室内着がラウラのせいでぐちゃぐちゃだった。泥と石のかけらに塗れ、おまけに血までついている。


グティエルは暖炉の前に屈み込み、小さな鍋にぱらぱらと薬草を入れて火にかけた。ほどなくしてぐつぐつと沸騰する音と、いかにも苦そうで身体に良さそうな匂いがただよってくる。


「それ、お前が着ることにしたのか」

背を向けたまま彼は言った。


「この服ですか?――はい、侍女たちが用意してくれまして」

「そうか。俺の母上が着ていたものだ。覚えがある」


「左様でございますか。申し訳ございません。台無しにしてしまいました」

「いや。俺なんか山の中で何枚だめにしたか覚えてないよ」


苦笑するふうだった。鍋を片手に振り返った夫の大きな身体を見上げ、ラウラは彼に殴られたら死ぬことを思い知る。命を助けてもらったくせにどうしてそんな発想しかできないのか、自分の性格の悪さがほとほと嫌になる。


「あの、ありがとうございました」

「何が?」


白い陶器の器に鍋の中身を移しながら、グティエルは黒い目でラウラを見た。古く広く大きなテーブルの傷のように、彼はこの家に馴染んでくつろいで見えた。


「助けてくださって。ここに連れてきてくださって。放っておくこともできましたのに」


「俺が俺のものを助けるのは当たり前のことだ。ユルカイアは俺のものだ。ユルカイアに属するものも俺のものだし、お前は俺の妻になったろう? なら、俺のもの筆頭じゃないか」


歌うように彼は言い、ラウラは縮こまった。言葉の裏の意味を考えずにはいられなかった。だって契約は……書面上の結婚契約は代理人によってすまされていたけれども、本当の意味での結婚となる式も床入りも、ふたりはひとつも済ませていないのだ!


それなのに、妻と彼は言った。ラウラのことを妻と認めているのか? 結婚が真実成立していないことはどちらもよく知っているはずなのに。わけがわからない、と思ったのが情けなくも顔に出てしまったのだろう、ラウラを見てグティエルは人間の指示を取り違えた犬のような顔をした。


「いやなのは分かってる。俺だって寝耳に水だった。山から戻ったらいきなりご結婚ですよ、花嫁がそのうち到着しますからねと来たもんだ。騙し討ちされた気分だったよ」


「そん、そんな。貴族とはそういうものです……」


「うちは貧乏だ」


なんてことない事実を報告する声だった。木の匙でかき混ぜ続けた薬はペースト状になり、もう湯気を立てない。グティエルは戸棚から包帯と真っ白なリネンの束を取り出した。


「なんでもあるものを使うしかないから、きっと妻もそうしてユルカイア人を選ぶのだと思っていた。つまり、あー。俺が自分で選べるんだとばかり。そうじゃなかったから驚いたんだ」


「申し訳ありません。心に決めた方が?」


「いや、いなかった。あと、お前を嫌ってるわけじゃない。戸惑ってるんだ、俺も。たぶん」


彼はラウラの身体全体をざっと見て、器の中の薬の総量と比較する。


「お前さえ良ければきちんとした夫婦になりたいと思っているよ」


と言ったのを、はたして信じるべきなのか。


「じゃ、脱いでくれ。手当てするから」


「自分でやりますわ。布と薬をお貸しください」


グティエルはきょとんとした顔をしたあと、笑い出した。


「緊張しないでもいい。俺はマヌエラに教わって、それなりにやり方を知っている。小さい頃は生傷だらけだったんで自分でやれと投げ出されたんだ。――ホラ」


「で、でも。私も治療の心得はあります。尼僧になりたいと思って修行していたのです。怪我人も病人も看病したことがあって……」


「つべこべ言うなよ」


夫は突然不機嫌になった。


「そんなに俺に傷を見せるのがいやなのか」


「そういうわけでは」


ラウラは途方に暮れる。彼女は夫がいやなのではない。服を脱ぐだなんて状況に耐えられなかったのである。


宮廷人の女たちは皆、はるか昔にデザリングされた通りの身体的特徴をそのまま受け継いでいる。大きな乳房、引き締まった腹、そして大きな尻、細い脚。ラウラのそれはまったく違う。乳房は大きくなく、腹は油断して食べすぎた翌日などぽこんと飛び出るし、尻は長く座っているのに耐えられないほど薄く、かといって脚もさほど細いわけではない。


美しいということは伝統的な身体のラインを持っているということだ。ラウラはそうではない。彼女の身体を初夜に見た夫は恐怖して逃げるだろうと教えてくれたのは他ならぬ母だった。漠然と、いつかそういう日が来るのだろうと思って生きてきた。自分自身の醜さの結果を突きつけられる日が。


「まあいいよ。――そうだよな、お前にとって俺は全然知らない男だ。抵抗があるに決まってる。外に出てるから自分でやりな。ただし、仕上げは俺が確認する。背中の打ち身は自分じゃどうにもできないだろう? 返事は」


「わかりました」


「いい子だ」


それでそういうことになった。ラウラ本人でも把握できていないほど身体はあちこち傷まみれだった。魔力が残っていたら、魔法が使えていたらこんな傷は一瞬で治せたのに、もうそうできない。悔しさのあまり指先が震えた。負けるというのはこういうことだったのだ。


それでもなんとか傷口を洗い、薬を塗り、包帯を巻くところまでできた。どうしてグティエルは彼女の背中に痣があるのを知っていたのだろう? ラウラが服を着た絶妙なタイミングで彼は家に入ってきて、襟口の隙間から背中を覗き込んだ。


「前は終わったな? じゃ、後ろ」


そうして器用に打ち身に軟膏を塗り込み、布を当てて包帯で巻く。


「ここであれこれやるより、城に戻って治療師に見せた方がいい。軟膏はあくまで応急処置に過ぎないから」


「わかりました。あの、ありがとうございました」


「別にいいよ。務めだから」


何か大切なものをあえて放り投げたのだ、というようにぞんざいな口調だった。グティエルの笑い声はどんなときにもどこか苦いものが混じっている。


「俺はユルカイアのために生まれたんだ。ユルカイアのためならなんでもする」


誰かに言い聞かせられたことをそのまま繰り返す子供の言い方だった。ああ。ラウラは悟った。それはとてもよく見知った虚無だった。おそらく今なおラウラ自身の中に巣食うそれととてもよく似たものが、彼の中にあった。


何かを話したいと思った、その悲しさについて、どうやって育ってきたかについて、苦しみから逃れるためにとった手段について。誰かとわかり合いたいという痛烈な欲望が湧き上がるのに戸惑った。人目のない場所で異性と二人きりになったのが初めてだったので、ちょっと興奮していたのかもしれない。発情期の馬か犬みたいに。


「立てるか? もう少し頑張れ。魔物の出ない山の中の道があるから、そこを通って城に帰ろう」


夫が穏やかに手を差し出し、ラウラの夢想はかき消えた。優雅な貴族らしい仕草はどこかぎこちなく、感情の読めない笑み、長身とがっしりした体格を見上げ、彼女はぱちぱちと瞬きする。まだよく人となりを知らない夫のことが、とても頼もしく思えたのである。


グティエルはラウラの手を引っ張り立たせると、家の扉を開いた。横顔のりんとした前を見つめるあり方が、美貌ではないのに綺麗だった。


「急ごう。魔物も獣も新しい人間に興味津々だ」


「え?」


「奴らの餌になるものがここらには数少ない。興味を惹かないにこしたことはない」


ラウラは小さな破壊された村を振り返った。そこにあったものをただの残骸と思うことは、もうできなかった。広がっているのは寂しさと人恋しさ、かつて確かにあった人の営みだった。彼女は前を向いて夫のあとを追うことにした。すぐに村は終わった。

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