第11話
小石だらけの道がはじまった。元々、歩きやすく整えられた宮廷の散歩道と大聖堂の大理石の床くらいしか知らない足はすぐに根を上げる。靴の中で足が倍に膨らんでいる気がした。
村を抜けると白い細い道が山へ続く。両側に薄い雪の層、それを透かして枯れた下草が見えた。山の麓には小さな林があった。ほとんどが松で構成されており、その葉っぱも茶色く干からびてもの寂しい。分け入ると雪だまりがあり、小動物の鳴きかわす声が聞こえ、それからせせらぎがか細く流れている。
グティエルが向かったのは坑道ではなく、山の上へ向かっているように見える道だった。彼は遅れがちなラウラを不思議そうに振り返った。
「俺、早いか?」
「少し、そうでございますね」
ハアハア白い息を吐きながら言うのを眺めて、
「抱えようか?」
「いいえ、いいえ! 大丈夫でございます。ただ……ほんの少し、足を緩めていただければ」
「どのくらい? このくらい?」
「ええ、このくらい……」
ため息を飲み込んだような音を立ててグティエルは眉を下げた。
「抱えた方が早そうだ」
「魔物が出たとき、どうするのです」
「この道には出ないんだってば」
そのようにして道をたどった。
グティエルの言った通り、小道はぐるりと山裾を周り込んでユルカイアの城まで続いていた。到着するためにほとんど一日じゅう歩かなければならなかった。小石に蹴つまずき、よろめきながらラウラは歯を食いしばって彼と一緒に城の城壁までたどり着いた。
すでに夕方だった。飲まず食わずで男の足に合わせて歩いたのだ、城の尖塔が見えたときはほっとしたあまり膝が震えて崩れ落ちそうだった。すでに空腹も汗も感じなくなっていた。
崖を背にして聳える城は古く荘厳で守備に優れているが、今となっては城壁もあちこちくたびれて崩落しているところもある。頑丈な石を漆喰で固めた、高さにしては膝丈くらいしかない境界線だ。低いと侮るなかれ、これが拠点としてあるからこそ魔物たちの猪突猛進な突撃を鈍らせることができたという。かつて魔法砲兵が身を隠した石壁の、上が丸く欠けたところにグティエルは飛び乗り、
「ほら」
ぶっきらぼうに目を逸らしながらラウラに手を差し出した。
「ありがとう……」
「うん」
助けてもらって城壁を乗り越え、ラウラは城の敷地内へ入る。さぞかし騒がれるだろうと緊張していた。仮にここが宮廷でラウラの身分が皇女のままだったら、何人かの首が飛ぶ事態である。のんびりした様子のグティエルが恨めしかった。この人は一緒にきちんと説明してくれるかしら? その、山に呼ばれたのだということについて。ラウラは真剣に考え込んだ。
結論からいうとラウラがいなくなっていたことに気づいていたのはごく少数の侍女だけだった。グティエルを出迎えに出てきた馬丁や門番、城付きの騎士たちのうち一人がラウラに気づいて、
「あれ、ご一緒だったんですか」
と言ったのが唯一の反応だったと言っていい。
ラウラは彼らのやり取りからグティエルが単身、山に入って魔物を狩るのが日常茶飯事であることを知った。エンバレクの血筋はそもそもそれを生業にしていたのだということも。
(愛人の家に入り浸っていたわけじゃなかったのね)
ふらふらしながらもほっとした。では初夜がなかったことも、馬鹿にされていたわけではなかったのだろうか?
ラウラは夫を愛していなかったができることなら話し合いたいと思っていたし、思い合える夫婦になれれば素晴らしいだろうと憧れてもいた。夢物語なのは知っていた、彼女の知る限りそんな夫婦や家族は世界のどこにもいなかった。みんなどこかしらに痛みを抱え、生活を共にするせいで苦しんでいた。
「ラウラ?――」
グティエルがラウラを振り返って何か言った。城の中からマヌエラが出てきた。その優しそうな笑顔と柔らかい眼差しがふと、ラウラを捉えて丸くなった。
覚えているのはそこまでである。突然の失神は色んな人に迷惑をかけたことだろう。
ラウラはそのまま発熱して寝込んだ。グティエルがどう説明したのだか、山の気に当てられたのだと言われた。枯れ木のように痩せほそった老人が来てくれ、治療師だという。彼はグティエルが作った軟膏の出来に舌打ちすると、瓶の中の薬にそれを塗り替えた。
「傷の熱ですからそのうち引きますよ」
と言われて、夢うつつに魘されながら頷いたのだった。
事実、傷はそれほど深いものもなかったから徐々に消えていった。一番傷んだのは膝とふくらはぎだった。何度もあちこちにこむら返りが起こってひっくり返った。運動不足である。
熱の最中、彼女は不思議な夢を見た。荒野を、馬車でがたごと揺られてきた宮廷のある都へ続くあの大きな道が突っ切る荒野を、あてどなく彷徨い歩く夢だった。何かかわいいものを撫でたような気がする。あれはなんだったのだろう。
看病してくれたのは祝宴のとき給仕してくれた目の大きな娘だった。ぶつぶつ口の中で文句を言いながら、それでも手つきは優しかった。水に浸した布をきちんと絞って額に置いてくれ、髪をとかしてくれもした。黒いもじゃもじゃの髪の毛が抜けることもない丁寧なブラッシングだった。ラウラは熱に浮かされながらうっとりと笑みを浮かべた。まるでフォルテが母親であるラウラの乳母にそうされていたのと、同じことをしてもらえたように思えたのだった。
「ありがとう」
「ほんとですよ。忙しいのに余計な手間かけさせないでください!」
小娘はつっけんどんに言うが、衣服を脱がせて拭いてくれる手つき、リネンを新しいものに代えてくれたこと、寝巻きからハーブ水の匂いがすること、全部がありがたい。
「お前、名前は?」
「ルイーズ」
「ありがとう、ルイーズ」
「ふん!」
彼女は汚れた布類を両手に持って部屋を出ていく。空になったお粥の器、飲み薬を飲んだ匙も。全部ひっくるめて持てるなんてなんていい使用人だろう。くらくらする頭を枕に預け、ラウラは微笑んで彼女を見送った。
ルイーズは枕元に水差しとコップを置いていってくれた。ラウラは咳き込まないよう注意しながら水を飲んだ。
時間はゆるゆると流れていった。ラウラの部屋は三階ある居住部分の一番南側で、一番広く日当たりがいい。廊下の突き当たりだから用事がない限り誰も訪れない。バルコニーはなく、大きな窓からすぐ下が裏庭である。荒れ果てた菜園があり、稀に庭師が手入れしにくるのが見える。
宮廷にいたときのように具合が悪いのに見舞い客がひっきりなしに訪れて、全部対応しなければならないなんてことはなかった。父は生まれつき虚弱体質な人だったが、大抵客たちのせいでさらに悪くなって長患いをしていた。
五歳くらいの頃、ラウラはそれがどうにも許せなくて誰かに食ってかかったことがある。どうして父上をもっと休ませてあげないの? 挨拶ばっかりしているから眠れないんじゃない! 父に感謝されたのはあのときが最初で最後だ。結局ラウラは教育係にお尻を鞭で叩かれたけれど、やったことは後悔していないし鞭なんてへっちゃらだった。その後の母の嘲笑の方がこたえたくらい。
ゆっくり療養しながらラウラはふと、今日の日付もわからないことに気づいた。まあいいかと笑った。訪問客もおらずするべき仕事も特にない。人々の輪から締め出されたような状況で、とろとろと眠りに落ちるような日々。もう身体で痛いところはまったくなく、治りかけの傷のむず痒いような感触がくすぐったいばかり。この時間が永遠に続いてくれればいい、とさえ彼女は思う。
「ここは本当に、いいところ」
大聖堂に行かず、最初からここに来られていればよかった。タラを犠牲にすることなく。
はっと目を開ける。視線を感じたのだった。窓の外から。鳥だろうか?
そっちに視線を送ると窓の桟のところにグティエルが張り付いていた。心臓が口から飛び出るかと思った。
寝台からのたのた降りて、ラウラはよろめきながら窓へ向かった。ぎしぎしと硬い鍵をどうにかこじ開けて、締め窓の凍ったガラスをぐいぐい上へ押す。
向こう側でマントに包まれたグティエルが笑った。どけ、と手で追いやられて下がると、彼はラウラがさんざん苦労した窓をこともなげに片手で押し開いて、室内に侵入してきた。
「どこからいらっしゃるって言うんですの。どうしてそんなところから……」
「だって会いたくないと言っているというから。正式な訪問では会ってもらえないかと思って」
「え? 私はそんなことを申し上げておりませんが」
グティエルは片方の眉をひょいと上げた。
「マヌエラが余計な気を回したかな。でもお前は俺の妻なんだから、俺が気にかけるのは何も間違っちゃいない。そうだろ?」
「え、ええ。まあ。そうでございますわね」
「だろう?」
彼はにんまりと闊達に笑った。笑うとやっぱり幼く見えた。
「マヌエラはいつもそうなんだ。小さい俺が熱を出すといつも嘘ギリギリのことを言って遊び仲間を城から遠ざけた。彼女なりの気の使い方なんだよ。そうすれば誰も傷付かずに済むと思ってるんだ」
「まあ」
宮廷においてそんな余計なことをする使用人は長く勤めていられないだろう。仕える相手の意向を確認もせずには水の一杯も用意できないのが宮廷の使用人である。とはいえここは辺境の地なのだから、ユルカイアなりの倫理があるに違いない。
グティエルは肩に積もった雪を振り落とし、冗談ぽく肩をすくめた。
「気づいてもらえなかったらあのまま雪像になるところだった」
ラウラは微笑んだ。警戒心がとろけて消えた。
「マントをこちらに。お預かりいたします」
「いいよ、自分でやる。お前は具合が悪いんだろ。――寝台に戻れよ」
そういえばラウラは寝巻きのままだった。彼女はあたふたとその通りにしたが、恥ずかしさを感じるというよりは寒さから逃げられたかったのだった。
彼はマントを壁にかけ、剣も外して飾り台に置いた。この部屋の壁うちそこだけは丁寧な彫刻が入っている。石でできた厳しいエルフの老女が両手を上にしており、その上に剣を鞘ごと置くのだ。
「どうして薪がこれしかないんだ?」
とグティエルは首を傾げて呟き、手にした何かを振った。美しい輝きが目を射るよう。
「それはなんですの?」
ラウラは寝台のカーテンの裏から覗き込んで尋ねる。こちらが寝巻き一枚なのに対し、グティエルはチュニックの上に毛織物の上着、分厚いズボンに膝当てをつけている。いかにも暖かそうで、何故だろう、密室にふたりきりであることを思い知らせてくるのだった。
心臓がどきどきするのを悟られたくなくて、ラウラはそのカラフルな何かに興味があるふりをした。グティエルは小さくない咳払いをした。
「元気が出るかと思って。石の花だよ」
彼は寝台に近づき、はい、とそれを差し出した。ごちゃまぜになった宝石の集合体、に見える。だが金や銀で繋ぎ合わされている様子はなかった。宝石と宝石が入り混じり、ところどころに白い石が筋になっているのが見えた。坑道の中でさんざん見たあの石だった。宝石は紫と黄色と薄い青色で、それぞれの透明さと色とが互いを侵食するように手を伸ばして混ざり合う。たっぷり絵の具を含んだ筆を水の上に落とした時をラウラは思い出した。
「きれい」
「魔石になりそこなった宝石の混合体だから、なんの力も持ってないが。ユルカイアでは求婚のときに男が女のため坑道に潜って採ってくるんだ」
ラウラは顔を上げた。グティエルは頬を染めてそっぽを向いた。みるみるうちに血の色が彼の顔に広がって、耳まで赤くなる。照れ隠ししているのは明白だった。証拠に手が、ラウラに石の花を差し出す手が、少しだけ震えている。
みぞおちがきゅうっと収縮して口の中に唾液がどっと広がり、おそらくラウラの顔も今は彼と同じくらいに赤い。喉が干上がったようなのを唾を飲んでなんとかして、ラウラはみっともなくかすれた声で呟いた。
「嬉しいです」
人から贈り物をもらったことはある。おもに皇帝や皇后に取り次ぎをねだる貴族から。ラウラに顔を覚えてほしいと願うその令嬢たちから。しきたりだからともらえた誕生日や記念式典の見事なブローチ、ネックレス、イヤリング。過去の記録通りに模倣した作り方をされた貴重品たち。
もらった美しいものは次々に姿を消した。弟妹に下げ渡されたり、使用人の給金代わりにされたりしたのである。ラウラが生まれるずっと前から宮廷は金回りが悪かった。なくなったものたちは母の装身具や豪華なドレスに変わったかもしれないし、記念パレードの兵士たちの鎧をそれで買ったのかもしれない。名義人はラウラでも、それらはラウラのものではなかった。
「これはあなたが手ずから掘ったのですか」
「掘ったというか、鉱脈のある一点に衝撃を与えるとその起点から落ちてくるんだ」
グティエルはもごもごと言い、ラウラの顔色をうかがった。
「やっぱり気に食わないか? 金できちんと細工したものの方がよかったか」
「いいえ!」
ラウラは悲鳴じみた声で叫んで、グティエルの腕にしがみついた。そうっと彼の両手から石の花を、小鳥の雛をもらうみたいに受け取る。人生で初めての贈り物だった……皇女ではなく、ラウラニアとして何かをもらったのは。
「とても、きれいで、私は……これほどよいものをもらったことはありません」
ラウラは顔を上げた。涙が滲んだ視界に彼が気づかないでいてくれるといいのだが。
「ありがとうございます。大事にします」
「無理に喜んでみせなくてもいい。嫌なら嫌と言ってくれ」
「嘘は申しません、私は」
首を横に振ると黒髪がくるくる宙を舞う。寝巻きの開いた胸元に湿った部屋の空気がひんやり触れる。
「人に嘘はつかないことにしています。嘘に意味はありませんから。本当に嬉しく思っています。信じていただけないのは悲しいことです」
「い、いや」
ラウラがじっと見上げると、グティエルはふっと目を逸らした。
「気に入ってくれたなら、いいんだ」
「……ご無礼致しました。お許しください」
ラウラは恥いって俯いた。あまりにもお行儀悪い行いだった、男性の腕に抱きついて持ち物を奪うなど。ただでさえ見苦しい、目が小さい顔なのに近づけて、不快にさせてしまったかもしれない。
それでも両手に抱えた石の花は手放さず、太腿の上にかき抱いたままだった。冷たく整った恐ろしいほど艶やかな宝石の集合体は、名前通り花のような形をしている。中央の芯にあるのは黄金のトパーズ、花弁の先端はアメジストで、その間を繋ぐのが不思議な青い宝石の色。花脈にあたる白い石のアクセントが、星の輝きのようにラウラの目を和ませる。
「ずっと大事にします。させてください」
「そうしてくれたら俺も嬉しい。不自由はないか?」
「いいえ、何も。ルイーズもよくしてくれています」
「ルイーズが? お前の世話係はルイーズか?」
「ええ。さっきまでいてくれまして、着替えもさせてくれましたのよ」
グティエルは眉を寄せて唇を歪めた。
「マヌエラに直接世話しろって言っておいたのに」
彼はいらいらと部屋の中を歩き回り始めた。相手の不機嫌を察知すると、ラウラはいつもの癖で息を潜めてしまう。いつこっちにその感情が向けられるかわからないから。
「みんな、お前のことを爪弾きにしてる。そうだろ? 俺のことは結婚式の次の日に山に行かせておいて。こういう風になるんじゃないかと薄々わかってた」
「……戸惑っているんでしょう」
確かにユルカイア人たちは感じが悪かったが、むしろ放っておいてもらえることが嬉しかったなどとは言えない。貴婦人としての責務を放棄していると思われてしまう。
「私は、決して評判がいいとはいえませんでしたから。お聞きになったこともあったでしょう?」
ラウラは慎重に続けた。
「何かするんじゃないのかと思われているのだと思います。私でも、自分の家にそんな人が入ってきたら警戒します」
「お前は噂で聞くような女には見えない」
グティエルはきっぱりと言った。
「確かに噂は――酷かった。だがその通りの女が山の中で生き延びられると思えない。傷だらけでもちゃんと俺の指示を守って生還した。この地の生まれでもない姫さんがね。俺は噂より俺の見たものを信じる」
ラウラは下を向いて顔を隠した。くるくるうねうねと黒髪が落ちてきて、まるでヴェールのようだった。
「お仕事はよろしいのですか?」
涙声にならないよう息を詰めながら彼女は言った。
「いつまでも油を売っていてはいけませんわ。あなたはユルカイアの長なのですから」
「また明日から山に入るんだ。今日は休日だ。……邪魔だというなら出るが」
ラウラはかぶりを振った。沈黙が降りた。窓の外であられが降り始め、やがて雨になった。
「私はあなたを拒絶したことは一度もありません」
ラウラは自分の指先と、冴え冴えと透明な花を見つめながら言った。石の花は体温がうつってほのかにぬるくなっていた。
「一度も。私は……旦那様とは仲良くしたいと思っています」
「俺もだよ」
ぽつんとグティエルは頷く。それはラウラの話したことの後を引き継ぐ形に聞こえ、ふたりは同時にそのことに気づいて、気まずくはないはにかんだ空気が満ちた。
ラウラは髪のとばりの間から夫を盗み見た。彼は寝台のすぐそばの椅子に腰掛けて、テーブルの木目を指でたどっている。猫のようにすばしこいのに猫のように丸まった広い背中と、大きな肩幅。彼の顔と身体は左右対称に整っている、と思った。人の顔を見るとき、目の大きさ以外を気にしたのは初めてだった。
ぽつぽつと話が起こっては途切れた。決して不愉快ではなかった、むしろその逆だった。花とお菓子の話をラウラはしようとして、グティエルは黙った。彼は剣と魔石の話を始め、彼女は微笑んで口をつぐんだ。
話せば話すうちに、ラウラは確信を強めた。これからユルカイアでうまくやっていきたい、いかなければならないという確信だった。この人の隣で、生きていきたかった。
困ったことにラウラは恋をしかけていた。生まれてはじめて。夫となった人に。
彼女は彼の話を聞きながら、あるいは自分がとりとめもなく話しながら、ますます感情が強くなり心臓が高鳴るのに戸惑った。
この思いの先には不幸しか待っていないのを知っていたから。
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