第12話
宮廷において結婚契約した夫あるいは妻に恋をするのはとんでもない無作法者と相場が決まっている。結婚というのは神聖なものであり、赤ん坊をこの世に生み出すための尊い契約であって、時間によって変化する個人的な感情などを挟む余地はないとされた。
ある夫婦の話をラウラは覚えている。ふたりは幼馴染で、子供時代はお互い思い合っていた。長じてから家格が釣り合ったので、親の意向で彼らは結婚した。夫は愛人を囲った。平民の舞台女優だった。妻が泣き喚くと親と義理の親が出てきて男の使用人に命じめった打ちにさせた。家の評判を落とす行為だったからだ。夫を愛する妻など! 子供に八つ当たりする母親よりタチが悪い。夫はただ困ったように笑ってそれを見ていただけだったという。ぼこぼこに腫れ上がった顔の妻の頭をよしよしと撫で、彼は最後にこう言ったそうだ。わかってくれよ。
それで――じゃあどうなったかというと、結果としてはこうである。夫婦は今も一緒の屋敷で暮らしている。妻の方も愛人を作った。友達のパーティーに彼らはそれぞれの愛人を伴って参加し、宮廷の正式な舞踏会や家の名が出る社交には互いに腕を組んで出席する。にこにこと、この人が連れ合いで幸せですという顔をして。
貴族とはそういうものであり、結婚とはそういうものだとラウラは教わり、自分でもそう思ってきた。連れ合いに見せかけ以上の愛情を示すのは田舎者のすることで、実際にそういう気遣いを見せた大人を少女たちの群れの中から全員で嘲笑ったこともある。遠い南から商談に出てきた人の良さそうな中年のころころ太った夫婦だった。
悪いことをした、と思いながら起き上がった。窓の外は晴れていた。ラウラは古いが虫食いひとつない室内着に着替えて、部屋の外に出てみようと思った。
理由のひとつにグティエルの存在がある。彼は再び山の坑道に入り、向こう十日は出てこない予定なのだという。魔物が出るからだ。放っておくと山の外に溢れでて人を襲うからだ。事前に、まだ雛のうちに人間の手によって数を減らし、残った個体に恐怖を覚え込ませる。
「必要なことだよ」
彼は何でもないことのように言った、遠くを見つめながら。
「俺だって嫌だし怖いけど、誰かがやらなきゃいけないんだから仕方ない」
いつも、帰ってくるときは傷だらけだという。
「お仲間は? 騎士たちは?」
「誰もいない。いても年老いている。ユルカイアにいるのはどこかで罪を犯し罰から逃げてきた流れ者、ここで生まれどこにも行きようがなかった者たちで……この中では俺が一番強い。だから俺がやるんだ」
エンバレク家も貴族の血筋だから魔力を持つ。魔力の発露は十人十色。グティエルの場合その才能は肉体の強化と異常な回復速度に当てられ、火を放ったり雷で攻撃したりといった攻撃はできないそうだ。
「わかりました。万全の態勢を整えてお待ちしております」
全て聞き終えて、ラウラはそう言ったのだった。戦役で傷ついた夫の手当は当然妻の役目だし、個人的にもそうしてやりたいと思った。尼僧としての修行で治療術を知っている。使わないでいることはできないと思ったのだった。
彼を見送ってもうひとつの理由を思い知った。変わらなければ一生このままなのだと。このまま、一生、ユルカイアの厄介者として過ごすのか?
ラウラが死んでくれた方が面倒が少なくてすむと思っている者は果たして何人いることだろう。
……故郷がある人に本当はずっと前から憧れていた。夫婦なのに心から思い合っている人たち、貴族なのに使用人が本心から忠誠を誓っている人たち、人を思いやるということが自然とできて慕われる美しい人たちに。自分がそうなれるとは思わない。けれど真似事がしたい。上っ面でいい、宮廷では得られなかたもののかけらでもこのユルカイアで味わうことができたら、あの世へいったときタラに言い訳が立つ。
無為にあなたを死なせてのほほんと生きたわけではなかったのだと。
だからラウラは二階へ降りていった。三階が主の生活の場なら二階は客人を迎え入れるための場である。客室や遊戯室、図書室に南の突き当たりは一面ガラス張りのサンルームにさえなっていた。植木鉢はひとつも置いてなく、今となっては寂れた場所だったが。マヌエラたち古参の使用人はそこに集まり、椅子を持ち込んで裁縫に精を出していた。ラウラは勇気を出してサンルームに踏み込んだ。
「こんにちは――ちょっと、いい?」
ぴたりとおしゃべりが止んだ。変わらず優しげな目元を和ませ、マヌエラが立ち上がった。残りの椅子には年若いメイドがふたり、うちひとりは大きな目のルイーズである。もうひとりの地味なメイドが年嵩の婦人に耳打ちした。白髪のその人はちらりとラウラを見上げ、興味なさげに手元に視線を落とした。
「まあ奥様。こんなところへようこそいらっしゃいました。何かありましたか?」
まるで自分こそがユルカイアの女主人であるかのような言い草に、ラウラは苦笑する。もっともこれまで城も金銭もマヌエラの管理下にあって、今もほとんどそれは変わっていない。反抗するのは無駄だろうというのはわかっていた。実際、貴婦人の多くは細かいお金の管理をマヌエラのような上級使用人に任せることが多い。貴族の女に求められるのは威厳と社交スキルであって計算能力ではない。
「いつまでもお部屋にいるのも飽きてしまったわ。何か私にできることはない?」
「お優しいことですね。でも大丈夫です。奥様には心安らかにお過ごしいただきたいと、使用人一同思っております」
ラウラはねばった。あくまで表面上は声も顔も穏やかに、両手を胸の前で組み合わせ、
「本を読むのも刺繍も飽きたのよ。誰も来てくれないのだもの。私は薬を作れるわ。縫い物もできるし火の番くらいなら使ってくれていい。家畜を潰したとき、そんなに邪魔しなかったと思うけど?」
「あなた様は高貴のおひとです、奥様」
すでにマヌエラ以外の女たちの顔は脳面のよう、唯一ルイーズの口元が釣り上がっているのが何かの感情といっていい。面倒がられているのはわかったが、ラウラは諦めたくなかった。
「家の中で役に立たないというのなら、治療師に紹介してくれない? 彼のところで何かできることを探してみるわ」
十分以上の譲歩をしてやろう、という顔でマヌエラはため息混じりに頷いた。老婦人は射抜くような目をラウラに見せた。
「まあ、先生のところなら……確かにいつも人手不足だそうでございます」
追い払えるならもうなんでもいいか、という雰囲気は宮廷でも何度も味わったそれと同じで、女というものは身分に関係なく同じような顔をするのだと知る。ラウラは嫌味にならない程度にうやうやしく礼をした。
「どうもありがとう、マヌエラ。これで退屈しなくてすむわ」
「いつまでもつことやら……」
「シッ」
女の子たちはひそひそ声で笑い転げる。気づかないふりをしてラウラはマヌエラのあとに続きサンルームを出た。老婦人の視線が背中に最後まで突き刺さっていた。
そうして案内されたのは城の一階、祝宴が開かれた大広間から細い廊下に入りしばらく進んだ先にある小部屋だった。入るとつんと薬のにおいがした。大き目の窓があってカーテンはなく、小さな庭が見える。窓辺の椅子であの老人の治療師がうたた寝をしていた。
老人は名前をギデムと言った。残念ながら半分以上ボケかかっており、
「ここのお手伝いをさせてほしいのです。調薬と簡単な診察ができます。手術の経験はありませんが知識くらいは――」
と話し出したラウラをしょぼしょぼした目で見上げ、
「息子がな、もうちょっとで来るから菓子を焼いたげとくれ」
ときたものである。面食らうラウラに笑み混じりでマヌエラは告げた。
「三十年前に亡くなった奥さんと間違えてるんです。でも怪我人病人を前にすると、シャッキリするんですよ」
目が言外にこう言っていた、ホラ、面倒でしょ? おやめになったら? ラウラはきっぱりと頷いた。こんな展開はもちろん予測していましたよ、と言うように。
「そうなんですのね。それじゃ、勝手にやらせていただきますわ」
マヌエラは引き下がった。それからラウラは戸棚の常備薬を調べ、調薬のレシピを探し、薬草の世話をして調薬して、部屋を掃除しギデムの世話をした。たまにやってくる客を見ると老人はマヌエラの言う通りピンと背筋を張ってその対応をし、それは学ぶところの多い毅然としたものだった。
一週間が瞬く間に過ぎた。グティエルが小さな診療室に顔を出したのは本人の宣言を越えて十三日目のことだった。
一階の、知らなければ見逃してしまいそうな小さな扉を彼は躊躇なく開けて、
「うわ。何でいるんだ」
黒い目を見開きパチクリした。彼の素顔はたぶんこっちで、あの山猫の笑顔は貴族としての彼の仮面なのだろう。ラウラはちょうど戸棚に新しい薬瓶を補充していたところだったが、泥まみれ白い粉まみれに輝く夫の姿を認めて踏み台から降りた。
「お帰りなさいませ。ご無事でようございました」
我ながら感情の籠らない、淡々と演技するような声になってしまったのは、幼い頃から本当の感情を表に出すなと躾られたせい、そして気を抜けば喉が詰まって涙声じみてしまうとわかったのが悔しかったせい。ラウラはグティエルが五体満足で帰ってきてくれたのが嬉しかった。
「ここで何してるんだ?」
「薬を作ったり、簡単な怪我なら見れますからそういった仕事をしております。――先生、旦那様のお帰りですよ」
と、コックリコックリ舟をこぐギデムを揺すり起こす。老人はうんうん頷くばかりでちっとも起きやしない。
グティエルはへえ、と興味深い視線を隠しもせずに扉すぐ横の籠に脱いだ鎧を詰め込みはじめた。がしゃがしゃ音が鳴り、泥が落ちる。
「汚して、マヌエラが怒りませんか」
「お役目関連ならさほど怒らないんだ」
「まあ」
「遊んできて汚したなら殴られるけど」
「まあまあ」
ギデムが目覚めた。目をこすり、こすり、グティエルを見つけると表情を柔和にする。
「おお、タイリー様。お帰りなさいませ。ドラゴンは狩れましたかな?」
「俺はグティエルだよ。父上じゃない」
「そうでしたか。それではサラマンダーくらいなら狩ったんでしょうな?」
グティエルは診療のための小椅子に腰かけ、五歳の子供のようにからから笑った。
「狩った、狩った。生皮と毒の爪をとってきたよ。干して家計の足しにしよう」
少しばかり細められた黒い目がラウラを捕らえ、彼はしいっと指を立てて首を振る。ラウラは頷いた。老人は嬉しそうに何度も手を合わせ、すると分厚い手の皮がこすれ合ってざらざら鳴った。長年酷使した、鉱石と薬に触ってきた老人の手の音。
「そうですか、そうですか。ああよかった。サラマンダーの皮なら売れます。売れたら薬草が買えますでな。子供が死なんですむようになります」
「うん。じいも腰痛の湿布を作るといいよ」
「タイリー様は優しいですな。うん、うん。そうしましょうかね。ん。また派手に切り傷作って……」
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