第13話


ギデムがグティエルの治療に入ると、ラウラは後学のためそれを見物した。役割は助手である。


グティエルの傷は、ひどいものだった。切れ味のよくない刃物で切られた傷が胴体を覆い、深さはさほどでなくても数の多さ、広さがむごい。そこへ軟膏を塗りつけてかさぶた代わりにしている。ギデムは油に浸した布でその層を無理やり剥がした。


「いてて」


とグティエルはうめくが、その程度ですまないほどの痛みであることはラウラにも分かった。彼のいつもの謎めいた微笑みもそのときばかりは歪む。彼女にできたのは気付けのための火酒を夫に渡すこと、それから老人の手元を真剣に見つめてやり方を頭に叩き込むことくらいだった。


じわじわと思い出したように血を垂らす傷口のうち、必要なものをギデムは縫った。グティエルはそれさえ笑いながら耐えた。すべての傷に包帯が巻かれ終えた頃、ラウラは疲労困憊して床に座り込んだ。


ギデムはうんと背中を伸ばすとよろよろ窓際に向かい、椅子にうずくまって瞬く間に眠りに落ちる。グティエルは額の冷や汗を拭いて低い音を喉で鳴らした。


「やれやれ、後片付けは俺だな」


「すみません、すぐにやりますから」


「いいよ。ちょっと酒を飲んだ方がいい。気絶されてもさすがに今の俺じゃ抱えてやれないぞ」


それほどヤワなわけではない、尼僧になろうとしていたのだ、と思いながらラウラは大人しく残りの酒で舌を濡らした。火酒の名前に恥じないカッとくる強烈な酒精だった。大昔に母が笑いながら口に流し込んできたのと同じ匂いがしたので、ラウラは顔歪めて酒瓶に蓋をする。


ありがたいことに胃がじわじわ温まり、ほどなくして足に力が戻ってきた。


グティエルは怪我人のくせにてきぱき働いた。薬の残りや包帯を棚に戻し、使い古した布を鉄鍋で煮る。ラウラは立ち上がって彼から針山を取り上げた。


「ここからはやりますわ。座ってらして。貧血になりますよ」


「それじゃ、ありがたく」


彼は疲れた様子で壁の隅の寝台に座り位こんだ、かと思ったらごろんと倒れるようにして横になった。簡易寝台に藁を詰めたマットレスを敷いて、毛布をかけただけの本当にその場しのぎの寝床なのに、今の彼にとっては極上の寝床らしい。


「そこで寝ますの?」


「んー?」


「お疲れなんですね」


「んん」


もう聞いていないのは明白だった。ラウラはなるべく音を立てずに残りの始末をすませた。窓の外を見るともう夕暮れ近い。辺境の日暮れは早く、冬も長い。


ギデムの寝る場所はこの小部屋の寝台だから、三つある簡易寝台のうち二つは埋まってしまうことになる。使用人が誰も顔を出さないのはラウラがいるからだろうか、それともグティエルが信頼されているからだろうか。


彼はたったひとりでこの領地を魔物から守っているのだという。ユルカイアが落ちぶれるとともに騎士も戦士も消えてしまったから。確かに彼らの忠誠とはあやふやなものだ。王と公爵の両方に誓いを立てておいて、いざ両者が戦争になったらどちらの味方もしない騎士だってざらにいる。


ラウラはギデムを揺すり起こし、老人はぶつぶつ文句を言いながら真ん中の寝台によじ登った。彼はまだ耄碌しきったわけではない。あとは自分でなんとかするだろう。


部屋を出る間際にグティエルの顔をラウラは覗き込んだ。あどけなく、幼く、どこか柔らかい何かに似ていた。思い出せない何かがそこにあると思った。しげしげと眺めるうちに、目は大きくないけれど彼は美しいという思いがラウラの中に定着した。おまけにいい人だ。自分の土地のため文字通り身体を張る貴族だなんて、ラウラは他に知らない。


目が大きいと言うのは古のエルフの血を色濃く継いでいるという証である。父を虜にしたメイの顔、その三分の二を占める縦長の巨大な眼球がラウラはずっと羨ましかった。男は縦になるほど大きな目を持っていなくてもいいとされるが、それにしても大きいに越したことはない。グティエルはラウラの感覚の中で、美形の範疇に収まらない。だが。


「おやすみなさい」


ラウラはグティエルの頬に口づけて灯りを消した。ギデムのいびきが響いていた。


人の気配の薄くなった城の中を歩きながら、足どりが浮かれていることに気づいた。


自分の部屋に戻って寝る支度をしたあと、ラウラは寝台に入るのを戸惑った。ユルカイア城では食事はおのおのの裁量に任されている。太陽が昇っているごく短い昼間に二食か三食を詰め込み、長い夜は家族や恋人と過ごすのが辺境のやり方だった。


ギデムは歳のせいで食が細いから夜食はいらないだろう。だがグティエルはどうか。夜になって空腹で目覚めたとき、枕元にパンでもあってほうが嬉しいのでは?


あとから考えてみればみるほど、藪蛇という言葉はこのときのラウラのためにあったに違いない。ラウラは戸棚を漁って自分用に貯めておいた黒パンと白いチーズを取り出し、スライスしてパンにチーズを乗せた軽食を作った。小さな籠にそれらを詰めて、赤ワインの小瓶を見つけたのでそれも入れた。清潔なリネンの切れ端で上を覆った。


籠を手にして診療室に戻るとき、ラウラは夢見心地だった。長い時間をかけて諦めたものを手にできるかもしれないと独りよがりに浮かれていた。


グティエルのために何かをしてみたかったのだ。彼本人ではなく、自分の夫という属性を通して彼を見ていたのだと思う。ラウラは診療室からランプの灯りが漏れていることに気づいたが、不審に思うよりむしろグティエルが痛みで起き上がったのかと心配した。


声はか細く小さく、だが鈴のように高く澄んでいた。


「心配で心配で……」


と、美しい声は言った。ラウラはぴったりと壁に背中をつけ、そうっと診療室を覗き込んだ。室内履きごしに廊下の冷えが足を這い上ってくる。


「心配かけてごめん」


上半身を起こした夫の腰のよことにルイーズは座り込んでいた。彼を見上げる横顔の、大きな猫のような目がきらきら輝いている。


「ギデム先生はなんて?」


「もうまともに会話もできやしないよ。ボケてるんだ」


「奥様のせいよ! 邪魔ばっかりするんだから。先生を弱らせてるんだわ……」


ルイーズは忌々しそうに首を横に振った。彼女は素晴らしいレースの寝間着を着てシルクの上掛けを羽織っていた。剥き出しのほっそりした足首の白さがラウラの目を焼いた。


「まだ痛む?」


「いや。一晩寝れば治るよ」


「過信しちゃダメよ。いくらエンバレクの血筋だからって限界はあるんだもの。奥様にヘンなことされなかったでしょうね?」


ラウラは踵を返した。グティエルがなんと答えるのか聞きたくなかったのだった。ルイーズのラウラに対する悪意は明白だった。それから庇われればみじめだったし、同調して罵られたら泣き叫んでしまいそうだった。


夫に恋しているわけではない、と思う。ナマズの魔物から助けてくれたのは恰好よくて素敵だった、それだけ。石の花をくれた。美しかった。返礼を、そう、礼儀正しくできることで返そうと思ったのだ。ラウラがしようとしたのはそれだけだ。


ふたりの話し声はまだぼそぼそと続いていた。ラウラはとぼとぼと歩いてきた道を引き返した。恋人たちの邪魔をして悪かったと思った。


誰かの視線を感じた気もしたし、そんなものは妄想だったかもしれない気もした。世間知らずの元皇女様であっても生まれたときから宮廷で揉まれた身、使用人たちに色々嘲笑われているだろうということは自覚していた。


ラウラは井戸の使い方を知っており、水の大切さを知っており、そして水の効率的な運び方を知らなかった。木桶からこぼさずに運ぶ方法、タライの水をなるべく節約して使う方法を知らなかった。宮廷では水は下女が運んでくれるものだった。大聖堂には水道があった。水を使う序列には厳格な決まりがあり、それが克己心を養うためのしきたりだと言われそうだろうと思っていた。


だがユルカイアで必要なのは自分の使う分の水を自力で運ぶ膂力と胆力であって、井戸を使う順番を交渉するための口のうまさや人望を集める力であって、間違ってもラウラのように井戸が開くのをぽかんと待っていることではなかった。ラウラは自分が見習い尼僧として多くのことを知り、世の中を知っていると思い込んでいた。実際は、この世の世俗の頂と聖域の頂を行き来しただけだった。


自分にできることは何もなく、やっぱり何もしないでいる方がいいのかもしれない。薄々分かっていたことだ。いい加減認めるべきだ……。


部屋に帰りつき、籠を戸棚の中に隠すように押し込んだ。恥ずかしくて恥ずかしくて、足音を立てないのも精いっぱいだった。


すべてはフォルテの言う通りだった。ユルカイアの人々ならラウラが食べたくないといえば無理に食事を取らせることはないだろう。餓死は苦しいと聞くが、ラウラが死んだせいで罰せられる人はいないだろう。


しょぼくれながらラウラは毛布にくるまって目を閉じた。その夜に夢を見た。子羊と荒野を彷徨う夢だった。

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