第14話
ラウラは耳を切りそうなほど冷たい風に震えながら歩き続けていた。夢の中である。
枯れかけた草と土と岩しかない荒野で、彼女はじっと前を見ながら進む。人っ子一人いやしない、辺境の道だった。馬車から眺めたのが思った以上に心に残っていたのだろう。
灰色の地面、枯草の濃い茶色、割れた岩、低木、一年で枯れて死ぬ名前も知らない雑草、氷が張ったモグラの穴……。あたりはただ同じような風景が広がり、方位を探ろうにも曇り空で太陽は出ていない。どこに行けばいい? ユルカイアの城はどっち? 見渡しても見当もつかなかった。
びょうびょうと風が鳴る。コートの前をかき合わせ、身を縮めてとにかくラウラは進む。進まなければ始まらないから。
突然、小さな声が彼女の耳を打った。めえめえと、それは子羊の鳴き声だった。周りを見回す。いない。
荒野はただ広いばかりだが、その実小高い丘や窪地が組み合わさっている部分もある。起伏のある部分の手前、大きな岩があった。耳を澄ます。聞こえた――声はそこからしていた。
小走りに駆け寄ると、弱々しい子羊がそこにいた。弱っていたが怪我はしていないようだった。人間を見ても逃げない、たぶん羊飼いの群れから逃げ出したか置いていかれた個体だ。夢の中なのに妙に現実的にラウラはそう考えた。
「よしよし、大丈夫。助けが来たわよ」
ラウラは歌うように小声で子羊に話しかけた。子羊は潤んだ目で彼女を見返し、よろめきながらも立ち上がろうとする。ラウラは自分の巻いていたマフラーを外すと、子羊を包み込んだ。
「少しは温かい?……ああ、お母さんはどこへ行ってしまったのかしらね」
子羊は安心したようにラウラに身を預ける。腕の中のぬくもりにラウラも少なからずほっとした。手のひらにことことと早い鼓動を感じる。
「なんとしてでも帰らなくちゃ。私が逃げたのを見つからないうちに……」
ラウラは子羊をお供に、再び荒野を見渡した。残念ながらまだ、ここがどこかわからない。
遠くで狼の吠え声が聞こえた。子羊と彼女は一緒に飛び上がった。恐々顔を見合わせ、
「怖いわね。食われてしまいたくはないねえ! どうすれば逃げられるか、知ってる?」
そう問いかけた。子羊はみるみるうちに黒い目にいっぱいの涙を貯めた。
「どこにも逃れる場所はない。ここにいろと言われたらここで生きるしかない。けれどやりようはある」
ここは夢の中だから、そんなこともあるのだろう。足の裏から脳天を突き抜けるような喜びが襲ってきて、ラウラは子羊の腹に頬ずりをした。顔を上げ、生暖かい鼻息に振り返ると狼がいた。
つやつやとシルクのように鮮やかな黒い毛皮。しなやかな筋肉とラウラの指より太く長い爪と牙。瞳の色は黒だった。獣によくある黄金色や琥珀色ではなく、夜空そのもののような漆黒である。
狼の存在感は非現実的だった。堂々と立ってこちらを見る狼の頭はラウラの腰より高く、体重はラウラの三倍以上だろう。爪と牙以外の全部が黒い彼は、闇そのものだ。
(あ……)
ラウラは子羊をぎゅうっと抱きしめる。彼女の腕の中、小さな生き物は怯え嘆き震えている。
(逃げられないかもしれないのね)
目を覚ますと月が天のてっぺんに昇っていた。ラウラは元々眠りが浅いので、こうして夜中に目覚めてしまうと何をしても眠ることはできない。睡眠を諦めて寝台を出て、さて、何をしよう。手紙の整理? 手紙は誰からも来ていないし出す予定もない。髪か肌の手入れでもする? 気分ではない。
小さな机に歩み寄って引き出しを開けた。布切れや錆びた鋏や書き損じた伝票の束の間に、石の花は慎ましく収まっている。鹿のお尻の皮をよく鞣したのを取り出して、ラウラは窓べに行きかけ、ふと気が変わってコートを羽織った。数少ない宮廷から持ってきた私物だった。たんぽぽのような黄色は少し子供っぽかったけれど、こっくりした宵闇には逆に合っている。
ラウラはコートの貝ボタンをきちんと全部止めて夜の中庭に飛び出した。よく見ると花壇以外の地面は夢の中の荒野に似ていた。乾いてひび割れて、けれど一度雨が降れば瞬く間に水を吸って草原になる。生命力に溢れた名前も美醜も必要ない夢で見た世界のことを、ラウラは気に入っている。
中庭はいくつかの回廊を挟んでギデムの菜園まで続いている。ラウラが選んだのは城のどんな窓からも見えづらいはずの、菜園にほど近い花壇のひとつだった。腰掛けて、かつて噴水があったのだろう大きな丸い窪みを眺めながら膝の上の石の花を皮で擦る。きゅっきゅと小気味いい音がする。月明かりの下で宝石のグラデーションは冴え冴えと冷たく美しい。
(こんな色が自然に出来上がるなんて。人間が操る術式の効果など、たかが知れているのだわ)
一流の研磨魔法師が一流の宝石職人と組んで原石を加工したところで、これほどの石は出来上がらないに違いない。自然の神秘だった。ラウラは石をくるくる回し見惚れた。月明かりによって生まれた光が石の内部、手の届かないところで乱舞する。
失われた魔力嚢はもう傷まない。すっかりかさぶたになって体内に吸収されてしまったのだ。それはラウラが完璧になんの力も持たないただの女となったことを意味する。そのうちあったことも忘れてしまうのだろう、操った風や炎や影のことも。こうしてひとつずつ自分を納得させながら進むことが人生なのだろうか。
悲しみはなかった。何もない。カラッポだった。頭の芯にもやのかかった部分があってどうにもならない。呼んでもやってこないくせに居座り続ける眠気が、ラウラを鈍感にさせる。このまま何も感じない人間になれたら楽なのに、いつかもやは晴れてしまうときがくる。
さくりと露のかかった草を踏む音がしたのはそのときである。顔を上げると狼がいた。夢の中で見たのと同じ個体だった。丘のように大きく、現実そのものとして凛々しい。ふさふさした黒い毛並み。いかにも頑丈そうな牙と爪の白亜の色が月の下でますます白く光る。
驚きすぎると咄嗟に動けなくなるのはどんなときも同じらしい。ラウラは口を開けてその狼を見つめた。彼は人間のようにため息をついた。
「なんとね。これがあれの嫁さんかね。はあ。時代も変われば変わるもんだ……」
声はグティエルと同じだった。だが話し方は尊大で、彼と明らかに違っていた。
彼はグティエルの偽物だ、とラウラは思った。ほとんと本能的な直感だった。狼は足を踏みかえ、ゆらりと尻尾を振って彼女にさらに近づいた。
「何を考えている? 教えて」
「えっ……」
まるで心を読んだかのような言い草である。ラウラはどきりと、胸に石の花を抱きしめる。グティエルがここにいてくれたらいいと痛切に思ったが、彼女に今あるのはこの無機質な美しい花だけだった。
「教えてくれよ。俺を見てどう思った? 汚い? 大きい? 怖い? それとも、」
ぐありと牙を剥く狼の口から涎が滴った。
「強そう?」
ユルカイアの紋章をラウラは思いだす。巨大な狼が竜を踏みつけて噛み殺している絵柄だ。クォート皇国で唯一、皇国の象徴である竜を殺す絵を描くを許されたのがエンバレク家の狼だった。
かつて魔王との戦いの中で、クォートの王子は闇に取り込まれかけた。それを救ったのがグティエルの先祖であるユルカイアの貴公子だった。狼が竜を一度だけ殺し、そして竜は復活する。前より強くなって。闇の力さえ味方につけたクォートの王子は魔王を打ち負かした。その功績の半分はユルカイアの貴公子にあるとして、彼に名誉ある辺境伯の称号と皇国の守り手の地位、そして紋章の使用を許した。
「竜を殺せる狼なのね、お前は」
とラウラは言った。声はみっともなく震えていた。目の後ろにチカチカと山の中の輝きが流れていた。
「ユルカイアの狼。偉大なる……、どうして私の前に現れたの?」
「ふん」
狼は鼻を鳴らす。尻尾はぱたぱた揺れる。
「つまんないな。知ってるのか。エルフはなんでも知ってるのかよ」
「エルフじゃないわ」
「エルフみたいなもんだろ。クォートの中枢に生まれた奴らなんてみんなそうだよ」
ラウラは目の端で逃げ道を探したが、都合のいい展開は起こりそうにない。そんなことは起こりえないのに、何を期待していたのだろう? このまま噛み殺されて死ぬのだろうか? さっきから呼びかけているのにどうして魔力が集まらないのだと思ったが、魔力嚢がもうないのだった。
「マヌエラの秘密、知りたいか?」
「え?」
「さっきからえ、えって阿呆なの。グティエルは阿呆が嫌いだから、そのうちあんた嫌われるよ」
「そんなこと!」
ラウラは立ち上がった。勢いがついてしまえばそれは容易いことだった。動けないと思い込んでいただけだったのだ。
「そんなことないわ! 私、私は彼に……好かれたいと思っている」
絶句した。二の句が継げなかった。ラウラの本心とはこれだったのだろうかーーこんな馬鹿げた、最初から叶うはずのない望みが心のどこに隠れていたのだろう?
「ふん。じゃ、まずはあの女をなんとかしないと。女たちを。山に魅入られた彼女たちをさ! そんであんたがグティエルの一番になる。うん、いい計画じゃないの。決まりだな」
「待って。説明を……してちょうだい」
「説明、説明ねえ、しようがないんだよね。俺もちょっとばかし厄介な身の上でさあ。手助けはしてやれるけどあんまりやりすぎると殺されちゃうんだ。いいじゃん。俺は自由になりたい。あんたはグティエルを手に入れたい。取引しよう」
「取引」
ラウラは舌の上でその単語を転がす。目の前の狼はどう見たって普通の獣ではない。魔法に関連する生き物だ。神か悪魔の使い、あるいは精霊、そういったもの。魔力も失ったこの状態で不可思議のものに手を出すのは避けたい。だが。
「いいわ」
と、考えるより先にころんと言ってしまった。狼はにんまり笑った、ように見えた。夢の中で振り返ったときも、この笑顔をしていた気がする。唇が耳まで吊り上がるような、見たことのある笑顔。
「いいわ。いいわ。私の、目的を果たすためにあなたの力を借りる。代わりに私は何をうればいい?」
「よっしゃ、そうこなくちゃね。ーーマヌエラを殺してくれ」
息を飲み、だが今度はえ? と間抜けに聞き返さなかった。しゃがみこんだラウラは巨大な狼の顔を下から掬うように見上げた。
「俺はマヌエラの呪文でユルカイアに縛りつけられている。もうとっくの昔に行くべきところに行かなきゃいけなかったのに、それができないままなんだ。ひどいもんだよ。この苦痛! ホントは俺、狼なんかじゃないのに」
「それではなんだったというの?」
「言えない呪い、正体を暴かれれば解かれる呪文で繋がれている、マヌエラに。そのほかにもたくさんの呪いで俺の魂は粉々寸前だ! だから殺してくれ、あの女を。そしたら俺は自由になり、グティエルだって自由になる。グティエルの心を縛っているのはマヌエラと手下の女たちだから。な? いい取引だろ」
「できないわ……調べてからでなくては。あの人がどんな人なのか、私ひとつも知らないのだもの」
タラの笑顔がぱっと脳裏を通り過ぎる。呆れ返ったフォルテの美貌が歪むところ、その母親、乳母であった女性の嘲笑さえ見えるようだ。
「何も知らないまま他人を害することはできない」
ちっと狼は器用に舌打ちすると、じゃあさ、と声を張り上げた。
「わかったわかった。これから奴がどんなにひどい女か折に触れて知らせてやるよ。それならいいだろ? 納得できたら殺してくれ」
ラウラは狼を見つめた。彼は得意げに胸を張った。
「ーー考えておくわ」
「あーも、エルフ! 言質をとらせない! エルフのやり方ってこうだよなあ!」
狼は地団駄を踏み、ばっと毛が抜けて飛び交った。ラウラは思わず咳き込んだ。目を一瞬閉じ、開くと彼は跡形もなく消えていた。
そして耳もとに、ぞっとするほど近いところでグティエルと同じ声が囁いた。
「秘密を暴くこと、ひとつずつ! あの女の化けの皮を剥がすこと。俺の出すヒントを見逃さないで。あんたにとって取るべき道は俺の示すただひとつだから!」
竜巻のようなその声が消え、ラウラは耳を抑えて土の上に膝をついた。石の花はぴかぴかと光り、警告を発している。
「ああ……」
月は変わらず完璧な白さですべてのものを平等に照らしていた。ラウラは息を整えながら呻いた。いつもこうだった、彼女の人生は。悔やんだって遅いことばかりだった。
「とんでもないことに手を出してしまったかもしれないわね」
今更ながら、のことだった。
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