第15話

狼と別れ、ラウラはいつベッドに入ったのだか覚えがない。うつらうつらと浅い眠りを漂い、魔力嚢のあったところがズキンと痛んで目が覚めた。ズキズキと心臓の隣で喪失を主張する、喪失のあと。


まどろみの中、意識はユルカイアにやってきたときの時間を漂った。ラウラは怒り狂っており、騎士をはじめありとあらゆる他人を威嚇していた。魔力を探知する力も操る部分も消えていた。隊長は最悪だった。風の中のスピリットたちの声が聞こえないことがあまりに悔しかった。


街や村に立ち寄り、旅籠や豪族の家に泊まったような覚えもある。だがそのほとんどを覚えていなかった。季節は春から、夏へ移り変わりつつあった。辺境の短い夏を、今思えばよく覚えておけばよかったと思う。グティエルと花の話ができたかもしれない。それとも彼のような戦う男はそうした話題を笑うだろうか?


馬車は皇国を守る大結界を抜けた。いよいよ何にも守られなくなると、一気に空気が甘くなった。――神の加護の名を借りた大聖堂の魔力から逃れ出たのだ、とラウラは感じた。


頭の中にタラの死に顔がいつまでもまとわりついて、夢の中まで追いかけてきて、元皇女を責めた。


長い長い旅路を馬車に揺られながらラウラは考えた。いつまでも死骸のように呆然としていたかったけれど、ある夜の夢の中で死んだはずのタラが起き上がり、――いくじなし! と怒られたのだった。なにもかも自分の妄想だろう。けれど。


ラウラのせいで死んだ娘に、怒られっぱなしではいられなかった。


ラウラが生き残ったのはただ運がよかったからだ。そもそも皇族は死刑にされることはないと定められている。皇族が死ぬときは、たいていが『不慮の事故』である、弟妹たちのように。本当なら彼女もそうなるはずだった。だがでっち上げとはいえ皇帝暗殺未遂という大罪をかぶせるなら、相応の見せしめにしなければならなかったのだ。ユルカイアへの追放はうってつけだった。生贄の花嫁……。


黙々と食事をとり、ただ馬車に座り続けた。馬車の床に毛布をかぶって寝た。屍になったような気持ちだった。食事も毛布も粗末なものだったが文句はなかった。


「恋人が殺されるかもってのに、皇女さまはいい気なもんだ」


と言ったのは騎士のうちの一人だった。ラウラは薄く笑ってその声を無視したが、本当は大声で笑ってやりたかった。亡き母の愛した美しいフォルテが、よりにもよって元第一皇女の愛人扱いされているのが滑稽だったのである。ラウラはずっと宮廷の厄介者だった。フォルテが? 彼女の? 色んな人がその勘違いに怒るに違いない。


もはや彼らはラウラの元肩書きに対する慇懃さも持ち合わせていなかった。宮廷人ではなく、彼らに仕える階級の男たちに見下されるのは新鮮だった。


――フォルテ。


ラウラの意識は浮上した。タラのことを思うと胸が詰まり涙が溢れたが、フォルテの美貌を思い出すと泣くのは止まった。彼に隙を見せてはならないのだった、母カティアの寵童たちのうち一番の美少年は一番のお気に入りでもあったから。メイが美しいフォルテに恋をしているのは明らかだったし、彼は宮廷の着飾った貴族たちの間をうまく泳ぎ渡る手管に長けている。母にされたように、高位身分の女たちの愛情によって彼は生きながらえるだろう。


……タラにもそういうところがあればよかった。美貌や生まれの良さ、身を守ってくれる要人との交流があれば彼女と家族は死ななかったろう。他人の好意を当たり前に受け取れるずぶとさと、傲慢な貴族らしさがあれば彼女は死ななかった。だがもしそうなら、タラとラウラは立場を越えた友達にならなかったに違いない。


ユルカイアに持っていけるのは思い出だけだと思ったのは、間違っていなかった。ラウラは目を開ける。とはいえ持ってきた思い出はいやなものばかりだ。心臓がどきどきしていた。喉がひりつくほど乾いていた。


起き上がって枕元の水差しを手に取ったが、中身は空だった。侍女たちはときどき悪気なくラウラの世話を忘れる。


自分がユルカイアにいること自体、夢のようだった。あのとき馬車で目指した場所は本当にここなのだろうか。クォート皇国から遠く離れた北の地。窓の外は吹雪。緑はこの一か月見ていない。太陽もそのうち見えなくなるのだという。天を切り裂く魔物が住まう山脈が日没を早め夜の闇を長くするから。


彼女は凍りかけた窓をこじ開け、ガラスについた氷を削り陶器の水差しの中に入れた。それを暖炉の上に置き、いつか飲み水になってくれるのを待つ。暖炉の前の安楽椅子に座り込み、寝間着のままぼんやり熾火を見つめた。薪は残り三本しかないから、今日一日はもたないだろう。あとでもらいに行かなければ……。


ラウラがユルカイアについて抱いていた空想は、粉々打ち砕かれた。もちろん物語のようなおとぎ話が展開されていると思っていたわけではない。食い詰めた冒険者、流れの魔法使い、怪しい占星術師が繰り広げる食うか食われるかの冒険譚、魔物というものが持つ不可思議の生命力を、間近に見られるかもしれないと思っていたのだ。


ズキズキと魔力嚢の残骸に痛みが走り、ラウラは夢想から目覚めて乳房の上を押さえた。暖炉の上、残り火の熱で氷が融け、水差しの中でカランと音を立てた。彼女はのろのろと水を飲み、キッチンに食事をとりに行こうか考えた。


幸いというべきか、目の大きなルイーズが盆を持って入ってきたのはそのときである。


「あ、起きてたんですか。なんで着替えてないんですか? 今日は治療師やらないつもり?」

「今やろうと思っていたところよ」

「フウン。ごはんここですからね。食器返してよ。あたしやらないですからね」

「ええ。ありがとう」


ルイーズはラウラを振り向かずベッドからリネンを引き剥がすと、ひとまとめにして部屋を出ていった。ラウラは小さな椅子とテーブルについて朝食をとることにした。


ルイーズは使用人であり、ならばラウラにあんな口をきく権利はなく、なんなら着替えも手伝ってくれるはずであって……いやだと思っていなかったし、文句を言うつもりもなかったけれど。


どうして宮廷の貴婦人たちがあんなに占いに熱中していたのか、ラウラはなんとなくわかった気がする。未来が全部暗澹として見えるのだ、一人でいると。


食事は野菜のスープとパンだった。パンは今朝焼けたものには見えなかった。ラウラは大人しく味のない堅パンを齧り、水を飲み、スープを啜った。いずれも生ぬるかった。


吹雪の中をラウラは想像した。嫁入り馬車がユルカイアの荒野に差し掛かった日のことを。はるか遠い皇国の先祖が引いたまっすぐな白い石畳。ヒュッと鳴る風の音は寂しく、だが笛の音のようにも聞こえた。一面の荒野は、あのときはまだ緑だった。低木とイバラと下草が茂っていた。遠くに見える白いかたまりは羊の群れ。青々とした草が続く土地に、ときどき石組みが見える。過去の戦士たちが魔物に対して築き上げた防衛線の名残りは、あのときはひどく堅牢に見えた。グティエルと一緒に乗り越えたそれに、歴史があることに思い至らなかった。北の地の短い夏のはじまりにラウラはユルカイアに嫁ぎ、今は冬。


「私は何をしにここに来たのかしら?」


食事が終わった。水差しの中身はまだ半分以上氷だった。


頭の片隅に幻影か夢かわからない狼のことがこびりついていたが、それに向かい合う余裕はなかった。

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