第16話



冬はさらに深まり、ユルカイアは氷に閉ざされていく。かつて鉱山が活気付いていた頃は、この雪原と化した荒野を突っ切ってまで隊商が行き来したというのは本当だろうか? クォート皇国皇都から、隣国を超えて砂漠の国々、海を超えた先までユルカイアの魔石は流通した。


結界魔法が土地の魔力と結びつく前、まだ人々が腕力で魔物の襲撃を撃退しなければならなかった戦乱の時代を、ラウラは思う。当時はまだ魔物の数も多く、ずる賢い個体も多かったという。今は平和な時代だ。魔物は人間の領域をどうあっても犯せない。


ギデムが死んだ。彼は農民の生まれだったが、治療師の学問を身につけることができた幸運な男だった。大学に行けたのだ。お金はエンバレク家が出したしこの家の推薦がなければそもそも入学資格がなかった。だが安全に皇都まで旅ができて、戻ってこられたのは結界のおかげだった。


葬列の最後尾にラウラはついて、その棺が土の下に隠れるのを見た。弔問客たちのすすり泣く声、彼に命を救われた者たちの心からの哀悼。ラウラが出席した葬儀は母のそれとギデムのそれだけだったが、両者がどれほど違うのかは肌でわかった。


出席者には近隣の村からやってきた人もいて、彼らはラウラを見たことがなかった。

「あれが?」

「そう、あれが……」


と密やかな声に後ろ指刺され早々に退散したものの、そしてそのことに、

「何も思うところなんてないんだろう」

「死んで診療室を好きにできることを喜んでいるに違いない」


と影口叩かれもしたけれど、ラウラは心からギデムの死を悲しんでいた。彼の治療を横から覗き見られたことで、彼女の知識は大幅に増えたからだ。


そして尼僧としての修行の一環で任された患者たちがどれほど治しやすかったかを知った。大聖堂は配慮していたのだ。おそらくは身分の高い出身の尼僧には従順で軽症の患者を回し、そうでない者は身分の低い尼僧に回した。大聖堂の提供する治療は人々への奉仕、無料だから、医者にかかれるような患者はそもそも来ない。そんなことさえ気づかずにいたのだった。


最初から最後まで真綿でくるまれていた自分の境遇に、ラウラはほとほと嫌気が差したものだった。全て知りたい、と思った。隠されていることを全部。宮廷で育つ中で知らなかったことも、大聖堂で教わらなかったことも、何もかも。


冬は深まる。川は凍り、道は雪で覆われ、辺境の長い閉ざされた期間が続く。


ギデムの死後、ラウラは一日の大半を診療室で薬を作って患者を待った。残念なことに誰も訪れなかった。マヌエラに聞いても首を横に振る。


「みんな健康でいいことでございます」

「それでも、これはおかしいわ。誰一人、どこも悪くないなんて」

優しい女性はラウラの青白い頬を撫でて微笑んだ。

「奥様、ギデム老のことを気に病んでいらっしゃるんですね。でもあれは寿命でした。仕方のないことだったんですよ」


そういうことじゃない。と言いたいのに、それは彼女もわかっているだろうにラウラは赤ん坊のように扱われる。マヌエラは笑いながら立ち去った。廊下にひとり、ラウラは項垂れた。


人々がラウラを信用しきれず、自家製の軟膏や飲み薬で不調をなんとかしようとしているのはさすがの元皇女にもわかる。どうすれば信頼を勝ち取れるのか、それがわからない。


表の方で歓声が上がった。彼女は振り返った。グティエルが帰ってきたのだったーーこの二週間、彼に会えていなかった。たぶん彼もマヌエラに湿布を貼ってもらい、それで傷を治そうとするのだろう。診療室には来ないだろう。


猛然と腹が立って、ラウラは足音も高く診療室に向かった。棚にびっしりと並べられた薬の瓶、彼女が乾燥した薬草を煮たり焼いたりしたもの、それからまだガラスの内側で息づいている植物をむしって煎じたもの、それらが整然と作り主を出迎える。


(捨てちゃおうかな)


と思ったが、もったいなくて出来そうになかった。


彼女はギデムが座っていた背の低い椅子に腰掛けて、ただ窓の外を見た。吹雪が来そうだったが部屋の中は暖炉のおかげで暖かい。今日も一日静かに過ごせそうだった。彼女はからっぽの膝をぼんやりと撫でた。


ガタンと扉が開いてグティエルが入ってきた。

「おお、寒かった。あ? お前一人か。誰もサボりに来てないなんて珍しいな」


彼はバタンと扉を閉め、鎧は着ておらず黒いシャツの上に防寒用のウールのセーターを着ていた。どちらもひどくくたびれて、血痕らしい茶色いあとが付着していた。


「ひどい目にあった。狼男の群れが出たんだがエンバレクと筋違いの群れだった。あいつら自分たちの氏族以外には敵意剥き出しで襲ってくるからーー」


「お怪我は?」

自分で思ったより硬い、毅然とした声が出たことに一番驚いたのはラウラだった。


「見せてください」

「俺は狼に遅れは取らないよ。他の魔物はともかく狼には」

「じゃあ、どうしてここまでいらっしゃったんです?」


グティエルは虚を突かれた顔をする。

「習慣だった……帰ったらここに来るのが」


ラウラは頷いた。内心に彼に対する憐れみが浮かぶのを感じた。

「お茶にしようと思っておりましたところですの。ご一緒しません?」


変事は待たずに準備を始める。グティエルの視線を背中に感じながらだと、どうしても動きがぎくしゃくしてしまう。だが嫌な感じはしなかった。結局のところラウラがグティエルと関わりたい、話がしたいと思う理由はそれだった。彼からは悪意や嫌悪を感じないから。


「どうぞ」


診療机の上のものは元々片付けられている。ラウラは夫に椅子を引いた。彼は我に返ったように瞬きした。


「ありがとう」

「本当にお怪我はなさっていないのですね」


身体の動きが滑らかだったのでラウラはほっとしたが、グティエルは片眉を上げて椅子の背を掴む。


「信用ならないのか? 俺はユルカイアの守護者だぞ。山の狼は同類だ。俺だって向こうにはなるべく怪我させなかった」

「同類?」


ティーポットとカップを並べながらラウラは首を傾げた。グティエルは座った状態でぽかんと妻である女を見上げた。


「知らないのか?」

「え、ええ……」


途端、ラウラは恥ずかしくなった。何もかもが。お茶は薬の材料でもあるローリエを煮出したもの。お茶請けは角砂糖と、糧食の一種の丸い焼き菓子。どちらも戸棚にあったものをかき集め、ティーセットに至ってはいつのものかわからない古さで、下手したらギデムのさらに前の代の治療師の持ち物だったろう。あまりにも何も知らないまま嫁いできた自分とティーセット、どちらがより恥ずかしいだろうか。


「教えてください」

「どこから話せばいいだろう……」


ふたりは同時に言った。ちょっと呆然として、そのあと、顔を見合わせほのかにはにかんで笑った。空気が和み、ラウラはグティエルの手の中で小さく見えるカップをひったくりたい衝動を抑えることに成功する。


グティエルはカップを覗き込みながら話し出した。頬の骨に当たる陽の光の陰影がなめらかだった。真剣な表情の彼は山猫というより確かに狼に似ていた。


「ユルカイアの紋章が狼なのは知っていると思うが、あれには謂れがある。百年前に暴れ竜のクォート卿と呼ばれたラベリアス・クォートを一度殺した狼騎士、ヴァダー・エンバレクの名を誇って紋章が選び直された。それまでの魔石を模した模様の上に、新しく狼が描き足されたんだ。これは知ってるな?」


「ええ。ラベリアスは私のひいおじいさんですもの。彼が魔王の狂気に当てられて狂ってしまったのを、あなたのご先祖さまが救ってくださったんでした」


「それはちょっと違う」

グティエルの笑みは少しだけ苦かった。


「ヴァダーはラベリアスに恨みがあった。ラベリアスが魔王のようなことを言い出して味方を襲ったとき、彼はこれ幸いとお前の祖先に襲いかかったという。ラベリアスが蘇ると地団駄踏んで悔しがったとも」


「そんな。知っている話と違います。ーー皇国はその話を認めないでしょう」


「そうだろうな。ユルカイア辺境伯領が冷遇されているのもその諍いの余波だと言うから。だが俺が偉そうに爵位を誇っていられるのが、皇国がユルカイアを忘れていないことの証明だ」


辺境伯の継承権を持つユルカイア氏族は五つあったが、その内エンバレク血統以外はほとんど潰えた。グティエルはエンバレク家の直径子孫であり現当主だが、従う氏族の戦士がいなければ辺境伯号も有名無実の名誉称号である。


魔物から人の世界を守る雄々しき辺境伯は、もっと尊ばれていいはずだった。だが時代とともに魔物が減り、大聖堂が結界魔法を開発し、戦士たちは必要とされなくなった。彼らを束ねる者も同じく。


それでも脈々と血と称号がひとつの氏族の中に受け継がれている、というのは確かに誉高いことだった。それは貴族の存在意義そのものでもあった。血と名誉の存続。


「エンバレクの他の家々はーーロビツ、メディア、ヴィヴェット、カランカ、いずれも途絶えたか離散した。本流の血筋がどこに行ったかわからない家もある。エンバレク家が辺境伯の称号を守っていかなくてはならない理由だ」

「さぞかし大変でしょうね」


ラウラは心から同情した。クォート皇帝位を継げる貴族の家の者たちがどう考えても不適格な皇帝である父にかけた圧力のことを思い出しながら。


「まだお若いのに、正当なお血筋をたったひとりで背負っていかなくてはならないとはーー」

「あ、いや。ひとりではないんだ」


グティエルは慌てて言った。カップがかちゃんとソーサーに戻され、はずみで茶が跳ねそうになる。ラウラは首を傾げた。


「ルイーズはメディア家の直系だ。親が早くに亡くなったのでマヌエラに育てられたんだ。それでうちにいる。俺が死んだら彼女がユルカイア女辺境伯になって、この土地を守ってくれる」


足元が崩れて坑道に落ちた気がした。表情に出すことがなかったのは厳しい皇女教育のおかげ、だが肩が震えたのは隠せなかった。寒気がしたのだと、グティエルが思ってくれればいいのだが。


「そうでしたの。それで……」


彼女はラウラの世話を嫌がったのだ。親がいなくなった子は成人するまでその身分を引き継げない。だから法律的には何者でもなく、慣習的には孤児を保護した人の身分に属する期間が発生する。


目が大きな若く美しいルイーズはメイドではなかった。彼女はラウラと同じ身分の少女であり、教育と夫の地位次第で貴婦人になれる人だったのだ。ラウラに傅くのに屈辱を感じるはずである。


両手が震えたので組み合わせて黙り込んだ。グティエルはラウラの様子に気づかないようで、意気込んで続けた。彼が彼の中で大切にしている価値観を新妻に披露してくれようといていることがラウラにはわかった。彼女はほとんど本能になった宮廷仕草で、身の入らない話を最高に興味深い議題であるかのように聞く方法を獲得していた。


「いなくなった面々はどこに行ったかというと、死んだわけじゃない。もちろん死んだのもいるけれど、それ以上に山に呼ばれた者が多い。お前がそうだったように」

「山にーーあの山に?」


「そう、あの太古の山脈にはエルフすら忘れたものがまだ残っているから。俺たちユルカイアの民の遠い先祖は狼だった。山に呼ばれ、彷徨ううちにその血が認められれば狼になる。それが山の狼だ。荒野の狼とはまったく違う。彼らは獣ではない。ユルカイアを守る戦士たちだ」


ラウラが見たことある山の魔物はナマズと虫だけである。彼女は息を吸い込んだ。思ったよりひゅうと大きな音になった。


「あなたは……本気で言ってらっしゃるの?」

「妻を騙して何になるというんだ?」


新参者を揶揄うのは誰だって楽しいことだろう。だがグティエルは真剣だった。ラウラは意味もなく口を開けて、閉めた。


「それではその山の狼たちは、あなたのーー同胞だとおっしゃる?」

「その通り。俺の兄弟たちだ。機会があったら会わせてやりたいが、あいつら山から出ないからなあ。お前をもう一度連れていくわけにもいかないし」


ラウラは言葉を飲み込んだ、こう言いたかったのだったーー大聖堂に知れたら審問官がくるでしょう。それは異端と看做されます、と。


「気のいい奴らだよ。敵対してるわけじゃないから共通の敵がいるなら手を組むだろう。彼らの牧場が大きくなりすぎたときはさすがに追い払ったけど」

「牧場ですって?」


グティエルは頷いた。なぜだろう、彼はとても誇らしげで、得意げだった。よく知った仲の仕事仲間を評価されるのが嬉しい、そうされてしかるべきだと信じているかのようだった。


「元は人間だから知恵があるんだ。小型の虫の魔物たちの糞には魔力の残滓が含まれる。魔物は魔力を摂取して生き、喰われれば体内の魔力は喰った奴のものだ。虫を岩の窪みに溜めて、その死骸を効率的に食おうと考えたんだろうな。味は良くないだろうによくやったもんだ」


ラウラは吐き気がした。彼女は顔を背け、グティエルは角砂糖を摘んで口の中を唾液で潤した。


「それを狙った大型の魔物の活動が活発になってしまったものだから、残念ながら解散願ったが」

「そうでしたの。そう……想像もつきません。あなたは私と違った世界に生きていらしたよう」

「そう思うか?」


グティエルは穏やかな笑みを浮かべる。それはもはや山猫のようには見えなかった。ラウラは彼がまだ少年と言っていい年頃であることを思い出した。先代ユルカイア辺境伯の失踪は、それほど昔のことではない。


「お前もこれから俺の世界の方に近づいてきてほしい。俺とお前は夫婦なんだから、そういうものだろ? 俺もお前の思うことを知れるようにするから」


彼の声は優しく、ラウラはつきんと魔力嚢の残滓が、そして心臓が痛むのを感じた。それはどこかしら優しい、気持ちがいい痛みだった。彼女は唇を吊り上げて笑った。


「もちろん。そうなれるよう努力いたします」


彼の笑顔は幸せそうに見えた。ラウラの勘違いでなければだが。


夜、正妻の間の化粧台に座って髪をとかしながらラウラはぼんやりと悲しみに浸っていた。というのも、グティエルの話を聞いた限りやっと自分の扱われ方について納得できたからだった。ブラシに黒髪が絡んでブチブチ千切れたが、痛くなかった。


彼女は暗黙のうちにまとめられた縁組みに割り込んできた異分子で、ユルカイア全体の敵だったのだ。


グティエルとルイーズがそのうち夫婦になるだろうということは、おそらく人々にとって常識だった。そこに人殺しの罪で追放された元皇女が入り込み、目の大きな少女が座るべき椅子に座っている。嫌われるのも当然というものだ。


そして当たり前の話であるが貴婦人は夫の愛人を我慢すべきもので、この場合、どちらがどちらを我慢したことになるのだろう? ラウラはグティエルと同じ寝台で横になる自分を想像し、それから夫とルイーズがそうしているのを想像してみた。前者より後者の方がしっくりくる気がした。


救いなのはグティエルが何も言わないことだった。ルイーズと思い合っているのか、その場合ふたりの関係はどこまでか。それが貴族らしい配慮の結果なのか、マヌエラの指示なのか、なんならもっと別の意図があるのかわからない。ラウラにできることは今の綱渡りじみた状況が暗転しないのを願うことだけだった。


グティエルが何かを得ようと動き出したら、間違いなくややこしいことになる。それはラウラにとって宮廷時代に逆戻り、あるいはもっと悪い状況を招くかもしれなかった。


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