第17話
久しぶりに昔の夢を見た。
ラウラは十歳になったばかり、奇しくも同じ誕生日の妹のために宮廷じゅうの人々が彼女の離宮に集まり、ラウラは自分の使用人たちに祝ってもらった。なんでって、母が妹の方に行ったから。父も引っ張られてそっちに行ったから。
お義理であることが見え見えのプレゼントはテディベアだったと思う。大きくてふわふわで気に入った。その翌月には乳母が友人の子供にあげるのだと言って持って行ってしまったので、彼と一緒に寝られたのは半月もなかったけれど……。皇女さまなんですから、なんでも下々に分け与えるのが当然ですよ。新しい、もっといいものがすぐもらえるでしょ。と言われて頷いた。そんな思い出だ。
誕生日パーティーという名のいつものお茶会に毛が生えたような集いが終わって、大人たちがやれやれと日常の業務に戻り、そして母がやってきた。妹のために着飾った姿で、お酒を飲んで頬が紅潮していた。
「あげるわ」
と彼女はラウラに宝石を放り投げた。ラウラはとっさにその輝きを追い、地面に落ちそうになる前に両手に包み込んだ。
断じてその宝石が欲しかったわけではない。その証拠になんていう石だったかも忘れてしまったし、すぐ手元からなくなった。ただラウラはそれを落としたくなかった。
網がかぶさってきたのは宝石を胸元に引き寄せて振り仰いだときだった。何が起きたかわからずラウラはもがいた。新調されたフリルの海老茶色のドレスが破れる音が響いた。
母は大声で笑った。鈴を振るような美しい声だった。そのときの母の愛人であった海軍大臣も大声で追従した。母より大きな声だった。それからお供していた貴族階級の軍人たちが続いた。あの中の一人でもラウラを憐れんでいてくれた男がいたのだろうか? 母親に命令された水夫の手で魚を捕まえるための網に囚われ、宙吊りになった少女のことを。仮にそんな奇特な人がいたのだとしても、彼は巧妙に内心を隠したのでラウラにはわからなかったろう。
「ばっかみたい、ずうずうしいの! ホントにもらえるとでも思ったあ?」
母は笑いすぎて浮かんだ涙を拭い、扇でぺちぺちラウラの頬を叩いた。少女はただぼんやりして、大人たちが望んだ反応を返すことができなかった。泣きわめくとか、恐怖におののくとか。金色の巻き毛を結い上げた母は頭のてっぺんに船の模型を飾っていた。海軍が海の向こうの大陸と海戦をして負けたこと、それにより海上貿易路と実入りを奪われクォート皇国はますます困窮するであろうこと、その日は妹の誕生日にかこつけて皇后の恋人の失態を隠すための派手なパーティーが昼日中から開かれていたことなどを、ラウラは大きくなってから理解した。
「あんなちっちゃな宝石が欲しいの? 他にもたくさん持ってるくせに、いっこも逃したくないの? 強欲な娘ねえ。あんたなんかが身を飾ってもかわいくないのに」
母は勝ち誇っていた。彼女は美しかった。ラウラはこくんと頷いて、さてそれから先はどうなったのだったか。覚えているのは母とその恋人がキスする向こう側に無表情の父がいたことくらいである。そのときにはすでに大人たちの誰にも味方しようだとか、かわいそうに思うとか、そういう感情はなくなっていた。
母は綺麗で奔放な美女だったが、ラウラにとっては飲み込みづらいことに賢く有能だった。彼女は皇帝である夫から統治権を半ば簒奪した。それで国じゅうが大混乱に陥ったか? 実は逆だった。この世でもっとも古いエルフの国、ローデアリア王国の純血エルフの王女はクォートの淫欲皇后としてみごとに国を切り盛りした。誰がどう見ても没落と崩壊の一途をたどる一方の皇国を、ギリギリ取りまとめていたのが母だった。
利権の温床となっていた塩の専売業者を変更し、国境紛争の外交使節を変更し、軍隊の不満は身体を使って鎮圧した。彼女の決断によって人は死んだり不幸になったりした。だが淫欲皇后は確かに国を救っていた。ラウラはそれをわかっている。
ラウラが男の子で、父に似ていたら母は淫欲皇后にならずにすんだことも、わかっている。
クォート皇国は再起をかけた二度目の海戦で大敗北を喫した。真冬の最中のことである。ラウラにそれを知らせたのはルイーズだった、というか、部屋の掃除に来た彼女がぺらぺらと怒涛のごとくその不安と興味を立て続けに話したのだった。
「怖いわ、怖い。南の大陸の野蛮人どもが海を渡って攻めてくるのかしら?」
と彼女は、むしろ大きな目をぴかぴか光らせて叫ぶように言った。
「そしたらグティエルはきっと徴兵されて、将軍になるわね! ユルカイアの将だもの、あの人は」
ラウラが気になったのはむしろ国のニュースより、これはいい機会になるのかもしれないということだった。そもそも辺境まで流れてきた時点でその報せは鮮度を失っているのだから、考えても仕方ない。
「ねえルイーズ、あなたは――私の夫と親しいのかしら?」
立て板に水と喋っていた若い娘はぴたりと止まった。それからラウラを振り返り、猫のような目をゆっくり細めて微笑んだ。
「今更気づいたのお? 鈍すぎない?」
「ええ、困ったことに。私が言いたいのは、邪魔する気はないってこと。それを知っておいてほしいの」
ラウラは腰かけた安楽椅子から少しだけ腰を浮かした。暖炉の火がぱちぱち跳ねていた。ルイーズは山になったリネンの上に座り、両足をパタパタさせる。愛らしい仕草だった。どこか母に似ている、とラウラは思う。美しい女たちはみんなどこかしら似ている。
「ま、あんたなんてここを追い出されたら行く場がないんだもんね」
とルイーズは肩をすくめる。自身に満ちた仕草の前に、ラウラはただただひじ掛けを掴んで何度も頷いた。
「温情には感謝しているわ」
「フフ。どっちが強いかホントにわかってるの? アハ。マヌエラといつ気づくかなあ? って言ってたんだけど、プ。冬になるまで気づかないなんてねえ!」
ルイーズは嬉しそうにきゃらきゃら笑ってくるんと一回転すると、
「あたしはグティエルが卑屈な魔物狩りでも凛々しい将軍様でも気にしないわ。あたし、彼の心を愛してるんだもの。地位だけで嫁いできたあんたなんかと違うんだから。あたし、グティエルが顔に傷を負ったって構わないわ」
ラウラは戦場に行って手足や聴覚や視覚に消えない傷を負ったグティエルを想像した。それはたまらなく心をざわつかせた。彼女は眉を顰る。踊るような足どりのルイーズは歌うように、
「あたしは看護婦として従軍するわ! そんでグティエルの後ろを守るの。どんなひどい傷だってあたしが治してあげるんだから。戦後のダンスパーティーでは花かんむりをかぶって……」
に戦争というものが男たちに何をもらたすかわかってもらいたかったが、自分では説得できないことはわかっていた。人は見下している人間のいうことなど聞かないものだ。
ぴたり、ルイーズの足が止まった。美しい少女は大きな目でラウラを睨みつけた。
「ほんとはダンスパーティーでプロポーズされるのがセオリーなのに、誰かのせいでそれができないのよ」
ラウラは苦笑するしかない。膝の上で手を握り合わせてただ笑った。
「ひどいわ、ひどい。あたしの人生ズタズタにしておいて笑うんだ?」
窓の外で雹が降り始め、窓ガラスががたごと音を立てた。守りの魔法がかかっているので割れることはないとわかっても、衝撃があればあるだけ魔法も疲弊するものだ。雨戸を閉めるべきだろう。
「あたしあんたなんかに負けないから!」
最後に捨て台詞を吐いてルイーズは出て行った。それでも使用済みリネンを全部持っていってくれた。いい娘である。
ラウラは立ち上がって雨戸を閉めた。室内は暗くなり、暖炉の火がますます燃え上がるよう。その光に彼女の灰白色の目は優しく痛んだ。
ラウラは若草色のドレスをクローゼットから取り出して着替えた。この元皇女が自分で着替える方法を初めて学んだのは、なんと見習い尼僧になってからだった。この知識や数年の経験がなければラウラはユルカイアの怪物か幽霊のようなものになっていたに違いない。誰も愛さず、愛されず、自分で自分のことは何一つできず、ただひたすら怨念と呪詛吐き続ける部屋の隅の埃と脂のかたまりじみた何か。そしてそれは失脚した皇族や貴族、夫に捨てられ幽閉された妻に珍しくない末路だった。
ぞくりと背筋を這い上るものがあって、ラウラは暖炉の脇の壁を見た。そこにあった坑道に繋がる穴は、グティエルの指示で綺麗に埋め立てられ煉瓦に埋もれていた。二度と妻が抜け出して彼に恥をかかせないように、使用人たちもこのときばかりは迅速に働いたものだった。もしラウラがユルカイアでこのまま誰からも相手にされない存在であり続けていたら、恐ろしい最期は決して他人事ではない。
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