第18話



今の彼女にできることは薬を作り続け、診療室でいつか来る出番を待つことだけだった。いつか、彼女の治療の知識や技術が必要とされるときを。いったい、いつ? 彼女は自分がそう邪険にされるほどのものではないと、グティエルとルイーズの仲に嫉妬するだけの無駄飯食らいではにと、証明できるのだろう。そんな日が本当に来るのだろうか?


診療室は冷え切っていた。すでに菜園は雪に覆われ使い物にならない。ギリギリまで頑張っていた植木鉢も残らず室内に引き込んである。ラウラは暖炉に火をつけた。ーー寒さのせいだろうか。足の裏から脳天をつんざくほどの寂しさが襲いかかってきた。


自分はすでに元皇女ではなく、ユルカイアの厄介者なのだと強く感じたのはこのときが初めてではなかったが、火打石ひとつ満足に扱えず、火の魔法は呪文を唱えても巻き起こることなく、当然だ、魔力嚢がもうないのだから……そう思った瞬間、身体が動かなくなった。


ラウラはしょんぼりと徐々に大きくなる火を見つめた。立ち位置があまりに近すぎたので、ひとつに縛って肩の前に流した黒髪の先っぽが燃えそうになった。


「危ないな、早く避けろよ」


不機嫌な声が右手から聞こえてきた。視線を移すとあの狼だった。冗談のように大きな身体をうまく小さくして、重ねた前足に顎を乗っけている。犬みたいに愛らしい姿勢だった。ラウラの頭のてっぺんから顎の先ほどもある牙さえなければもっと可愛かっただろう。彼女はくすくす笑い出し、みぞおちは熱で温まり血が流れ出した。


「燃えるぞ、燃えたいのかよ、あんた?」

「そうね。燃えたら困るわ」


言いながら鉄鍋を火にかけ、水を注ぎ、残り少ないクズ魔石を放り込む。戸棚にあった麻袋の中にこれがあるのを見つけたのは、冬がはじまってすぐのことだった。袋は三つあって、うち一つは空だった。


クズとはいえ魔石である。これらを長時間煮出すと魔石は魔力と石に分離して、水に浮いた魔力を紙に吸わせるとそれが力を持つ呪符になる。あとは知識次第、正しい知識を持つ者が正しい呪文や魔法陣をそこに描けば、呪符は治療の魔法包帯になり、あるいは敵を殺すための魔法起爆布になる。


なかなか面倒なやり方だから、今はこんなことをしている人は滅多にいない。大聖堂が地脈の魔力を活用する結界魔法を開発して以来、魔石に宿ったささやかな魔力を使う方法さえ廃れつつあるのに、ましてやそれより小さなクズを使う理由はないからだ。ラウラがいかに毎日ヒマかということである。


「あいつは?」

と狼は鼻を鳴らし、しっぽをぱたんと振った。

「知らないわ。あなたが知らないなら私にはよっぽどわからないもの」


この狼は普通の野生動物以上に気配に敏感で、ラウラがひとりでいるときしか出てこない。用心深く、きっと敵や獲物に対しても残酷なのだろうと思われた。彼は目を閉じ耳をピクピク動かした。


「山にはいないようだぞ。またぞろマヌエラにろくでもないことでもやらされてるんだろう」

「ろくでもないこと?」

「人殺しか、脅しだよ」


ラウラは目を尖らせて狼を見た。彼にとって小娘の視線などなんでもないようだった。どこ吹く風でわざとらしく欠伸をする。


「……マヌエラに敵がいるってこと?」

「違うね。マヌエラの敵じゃないさ。ユルカイアの敵だよ。あの女はユルカイアのためだけに生きている」


ユルカイア。クォート皇国から見捨てられたこの土地に、敵? ラウラは肩をすくめた。


「何故、私にそんなことを吹き込むの。あなたの言うことを信じる根拠があると思うとでも? あなたは魔法の生き物で、信頼するに足る存在ではないわ」

「そうとも、信じなくてもいいんだ」

余裕綽々、を体現するかのような態度である。


「俺はあんたがマヌエラに告げ口したら困ったことになる。だがあんたはそうしない。もちろん俺だってあんたに魔力がなく身を守るすべがない点を突いたりしない。俺たちは対等だよ」


「――恐ろしいひとだこと」

「俺に言わせりゃあんたの方が恐ろしいね」


アハハ、と笑いながら狼は立ち上がった。すでに彼の足元は陰に溶けはじめ、やはり狼というのは実態を持たないのだとラウラは知る。


「こんな古い方法でクズを寄せ集めて呪符にするような真似、どこで習った?」

「大聖堂で。教えてくれた人は、誰だってできる方法だと言ったわ」


昔のやり方というのはどれだってそうだとラウラは信じている。教えてくれた尼僧長にはもう二度と会えないだろうが、彼女の手つきや力の入れ具合、呪符ごとの細かな特徴にどんな呪文を組み合わせるのが最適かなど、その内容はずっと忘れないでいるつもりだ。


「恐ろしいエルフ。魔石を操る種族。ユルカイアの古い友」


彼の声は囁くようで、その質も深さも滲む感情もまるきりグティエルに似ている……。ラウラはくらくらした。息が詰まって冷や汗が出た。夫がこんな声をかけてくれたことは一度もない。ラウラは、グティエルにこんな声で話しかけられたら病気になるか舌を噛むだろう。


「エルフはいにしえの呪文を知る。古いやり方で、じっくりコツコツ、敵を追い詰めるための準備をする。永遠に相手を許さない。だから敵に回してはいけないんだ、決して。グティエルがそれを理解しているといいんだが!」


「なんのことを言っているの。私はエルフじゃないわ」

狼はくるりと丸くなり、黒い影のかたまりになり、陰にとろけた。あとにはからっぽのように思える部屋と、ラウラが残される。暖炉の火があかあかと燃える。


「魔石……」


ひとり、呟いた。それはなんらかの光明のようにラウラには思われた。誰も何も気づいていない何かの……。


彼女が知らないうち、窓の外では慌ただしく葬式が執り行われていた。近隣の農婦が産んだ赤ん坊が三日で死んだのだった。もし若夫婦がラウラの元を訪れていたら、彼女は尼僧の教育で授かった知識を総動員して小さな命を助けようとしたことだろう。ない魔力を絞り切ってでもきっとそうしただろう。


だがそうなることはなかった。ユルカイアの民はクォート皇国を許さない。神聖皇帝を、神聖皇后を、その子供たちを許さない。それは百年かけて培われた苦しみの結果だ。ここは魔王を殺すため死んだすべての者たちの怨念の吹き溜まり。その努力を無視し続けた国が悪いのか、それとも?


ユルカイアは魔石の上に成り立つ土地だ。ならば人々は必ず、魔石への信愛と深い信頼を持っているはずだ。ラウラは呪符を作ることができ、そして、そして。


ラウラの中でカチリと音を立てて歯車が組み合わさった。彼女は誰も来ない診療室の机に向かい、猛然と書き物をはじめた。


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