第19話
グティエルが診療室に入ると妻が待ち構えていて、灰白色の目で射殺しされそうだった。
「うおっ」
彼はびくついた。何もしていないはずだが何か怒られることがあっただろうか。整った顔立ちのラウラに真正面から見つめられると彼はどぎまぎしてしまう。
「お話したいことがあります、旦那様」
「お、おう。何?」
「お先に、お怪我は?」
「今日は見回りだけだったからないよ」
「ようございました」
彼女は表情を柔和にした。グティエルは戦々恐々と示された席に着いた。ついさっき行き会ったマヌエラに鎧を脱がされ、香水が入った水で身体を拭わされ、つまり淑女と会合するのに不都合ではないくらいには清潔であるはずだった。はずだ、うん。
グティエルはラウラのことを愛していないが、彼女に嫌われたくないくらいの分別はある。経緯がどうあれ彼女は彼の妻だった。神様の認めた契約は神聖なものだ。取り違えてはならない。
向い合せの席につく、ラウラはぴんと背筋を伸ばしている。古びたドレスとしっかり張った胸、均等な肩。何一つ間違ってはいないと主張するようにまっすぐな姿勢は雅やかで綺麗だった。彼女はどんなときでも凛として美しかったから、その目を見るたびグティエルはやはりと思うのだった。
(暗殺がどうのというのは、冤罪なんだろうなあ)
かわいそうに。それ以上の感情はまだ、なかった。
ラウラは書き終えた紙をずいと彼に差し出した。念のため正式な書類仕立てにしてあるが、果たして彼女の夫は妻のこういうところを憎む男だろうか? 小賢しい真似をと思うだろうか、俺を信用していないのかとひねくれるだろうか。だが彼女はこのやり方しか知らないのだった。
誰が見ても聞いても正しい、筋の通った、れっきとした根拠のある主張を静かに繰り返すこと。感情を見せたり少しでも論証に誤りがあればたちまち嘘つきに仕立て上げられてしまうのが宮廷の空気だった。他人の足を引っ張らない貴族はいなかった。ラウラはグティエルが好ましいが、それとこれとは別である。
彼女は今日、これから、夫に戦を挑むのだ。
「それで話って?」
出されたぬるい茶をごくごく飲んでグティエルは聞いた。ラウラは話し始めた。
「ご存じの通りギデム老が亡くなったあと、ユルカイアの人々は診療室に寄りつかなくなってしまいました。ここがこのあたりで唯一の病を看られるところでしたのに。そこで私は考えました」
ラウラはばん、と紙に書いた手順書を示した。グティエルはそれを覗き込み、すぐに途方に暮れた顔で妻を見返した。ちんぷんかんぷんだ、と顔に書いてある。
こほん、とラウラは空咳をして説明を続けた。
「つまり――」
古い時代、魔石は高貴と贅沢、富の象徴だった。貴族や裕福な商人、あらゆる階層の者たちがそれを欲しがった。そのイメージはまだ続いている。旅人の命を守る役目が終わってからも、というのも今の旅人は結界を張れる大聖堂の聖職者を旅に同行させるからだが、その聖職者たちだって魔力の底上げに魔石を用いる場合があり、神聖さは衰えない。
大聖堂は結界を張る上で重要な基盤に魔石をちりばめた。結界魔法が地脈の魔力を吸い上げて活用するための起点である。つい先日までただの街角や森の一画だったはずのそこは不可侵領域となり、祠が建てられ厳重に守られている。魔石には神秘のイメージが、ある。
「それを使えると思ったのです、私は。人々の治療に魔石と称した呪符を巻いた石を用いるのです」
「ごめん、何言ってるかわからない」
「もう……」
ラウラはため息をついたが、それはグティエルを恐縮させなかった。彼は目の前の女を可愛いと思い始めていた。ユルカイアのために彼女は何かをしようとしていた。彼にはそれが嬉しかったのだ。彼が愛する数少ないもののひとつが故郷だった。父母に抱きしめられた記憶がないのを寂しいと思ったことはなかったし、彼らがいなくなっても共に行こうと思わなかったが、もし故郷が滅びたら彼は一緒になって命を終えるだろう。
「いくつかの道具と材料で、偽物の魔石を作ることができます。そしてあなたが山の中で魔石を見つけたことにすればよろしいのです。あとはそれを使って、人々を癒して差し上げればよいのです。あなたがそうするのです」
「……俺は治癒の魔法なんて使えないけど」
「大丈夫、方法があります」
自身たっぷりに彼女は言い放った。
それで彼はクズ魔石を煮出して呪符にする方法なんてものがあるのを初めて知った。妻は宝石や魔石になり損ねた
「要は金メッキのようにただの石を呪符で覆うってことか? それは……本物の魔石を見たことない世代の奴らばかりだ、騙すことは可能だろう」
「騙すだなんて失礼な。ちょっと目をつむってもらうだけでございます」
グティエルは魔石を利用して自己治癒魔法を使ったことはある。傷口が治ると同時にそこに当てていた魔石は砕けてしまった。山の中にはいくらでも魔石が沸いて出て、だが買い取り手は滅多におらず、悲し気に腐っている。ほんの百年前まで神が人に与えたもうた奇跡の象徴だったのに、今となっては金銀より価値が低いのだった。
彼が山の中で治療の魔法に目覚めたことにする。実際は、ラウラが呪文を書いた呪符を発動させて癒しを行う。軽い風邪や怪我くらいなら治るだろうし、突然発動した新しい能力だから弱いのだと言い訳も立つだろう。
「必要なものは全部揃っておりますわ。方法もわかります。あとはあなたが協力してくださればいいのです。――私ではだめでも、あなたならみんな信頼するでしょう」
「お前の負担が大きすぎる」
グティエルはこめかみを手のひらの付け根でぐりぐりほぐす。いつの間にか冷めかけた茶を口に含む。
「赤ん坊が死ぬより、ましです」
「……何故そこまでする? 少なくともお前を仲間とは決して認めない奴らだ。俺のことだって内心恐れている。力ある貴族の末裔だから、辺境伯の称号を受け継いでいるから敬ってくれているようで、実際俺はひとりで魔物退治をやらされている」
「それでもです。私たちには下々のために働く義務があります」
ラウラの目は真剣である。
「私は罪もない赤ん坊が死ぬところを見たくありません。その母親が死ぬところも、父親の嘆くところもです。ユルカイアには耕作地が少なく、今となっては魔石の産出も少なく、……民の働き口がどこにもありません」
ちらり、とグティエルを見て彼が怒っていないのを確認し、
「細工や工芸の腕で稼ぐにも限度があります。人は減り続けていき、けれどまだ頑固に住み続ける人もいます。彼らは――彼らはあなたを信じているから、そうしているのです。エンバレクの若当主、魔物と渡り合える貴族の御曹司がきっとなんとかしてくれると信じている。ならばあなたはそれに応えなければなりません。そして私もまた、その手助けをしたいのです」
グティエルは自分の唇が苦笑の形に曲がるのがわかった。だが彼はうめき声を出さなかった。代わりにちょっと上を向いて剥き出しの天井の梁を、そこにぶら下げられた植木鉢やそこに植った薬草の苗、小さな花をつけた蔓、石組みの壁にかけられた乾燥した葉っぱやドライフラワーを順繰りに視線で追った。
ギデムが生きていた頃よりこの部屋は生き生きとした。ラウラが診療室を仕切り、管理してくれた結果がこれだというなら、グティエルはそれが嬉しい。その結果が誰にも享受されていないことの責任の一端は確かに彼にもある。彼女を信じるようユルカイア人に告げて回ることができたのは、彼かマヌエラくらいなのだから。
「わかった。わかったよ。やってみよう」
そうして彼は承諾した。ラウラは嬉しそうに花開くような笑顔を見せた。
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