第20話



グティエルは妻がこれほど恨まれている理由がわからない。確かにクォート皇国はユルカイアが滅びるのを手ぐすね引いて待ち構えているが、それはラウラの意思ではないだろう。彼女はクォート皇国そのものでも淫欲皇后本人でもない。どうしてそれがわからないのだろう?


「なあミネルバ。なんでだと思う?」


と彼は尋ねた。サンルームはさんさんと降り注ぐ冬の日光を吸収し、暖炉がなくても少し肌寒い程度の気温に保たれている。久しぶりの好天だった。だが午後にはまたすぐに雪が降り始めることだろう。


ミネルバはマヌエラの友人の老婦人で、かつてグティエルの母の侍女だったという。銀髪をきちんとまとめ、姿勢がいいところはラウラに似ていると彼は思っていた。くっきりと刻まれた顔の皺も年輪のようで、知恵深さを感じていいものだ。彼女はその頬に無数の皺を寄せながら、


「新しい血を運んでくれる花嫁なら歓迎されましょう。けれど竜の血はいけません。竜であるクォートの血は我ら狼のユルカイアに不幸をもたらします」


「なんだよそれ? ラウラは関係ないだろうに。彼女も俺も生まれる前の単なる迷信だろう」

老婦人は静かに年若い主を見返した。

「お若い。土地に押し込められた民の考えることもお分かりでない。それでは彼女を守ることなどできますまい」

「……なんでそう言い切れる」

「もうお行きなさい。疲れました」


グティエルは不服を隠しながらサンルームを後にした。彼はユルカイアを愛していたが、そこに暮らす人々が彼のことを崇め優しく接してくれながら、ある一点を超えたところで突然突き放すことについて幼い頃から悩んでいた。


一番大事なところを、みんな彼と共有してくれないでた。


それはおそらく、力無い者たちが生き延びるために組んだ徒党の中のルールだった。グティエルはじめ辺境伯の継承権を持つ者はその上に据える神輿であり、平民たちの仲間ではなかった。決して。


それを寂しいと思わなくなったのはいつだったろう。一人で山の中に放り込まれ、魔物を倒せと言われた十三歳のとき? あの日、彼は自分が彼らにとって一本の剣であり、対等な対象ではないことを知ったのだった。人々はグティエルのことを便利な魔物狩りとして扱った。食事や寝床を与えれば魔物を倒してくれる剣聖、貴族の坊ちゃん、大事な後取り息子、いつかクォート皇国に物申してユルカイアを昔の繁栄に立ち返らせてくれる人。


グティエルは疲れ切って帰った日には使用人たちの輪に入って暖炉の火に当りたかった。話を聞いてほしかったし、彼らの話を聞きたかった。誰と誰が恋仲で、喧嘩して、また仲直りして……そんなどうでもいい話を。


「グティエル様にそんな、恐れ多い!」


と彼らは言う。笑いかけてくれる。大事にしてくれる。彼が魔物を狩れる魔力持ちの貴族の少年だから!


グティエルは診療室にたどり着き、扉を開いた。診療机を部屋の中央に引っ張り出して呪符を書いていたラウラが振り返り、笑った。


「グティエル様。今日は遅かったですのね」

彼は心臓が縮むのを感じた。


それまで廊下ですれ違った使用人たちは堅苦しく礼をし、目を向ければ笑いかけてくれた。年老いた家令に命じれば彼は家宝のバイオリンをグティエルに捧げるだろうとわかっていた。ルイーゼに頼めば彼女は喜んで服を脱ぐだろう、そして彼に悦楽を提供するに違いない。グティエルが欲しいのは、彼らのそうした尊敬でも労りでもなかった。そうではなかったのだ。彼はそのことにようやく気づいた。


「ラウラ」


彼は妻に笑いかけた。彼女は作業に戻った。彼女はーー彼女のことを何も知らない、とかれは気づいた。一度、山に迷い込んだ彼女を助けた、触れ合いらしい触れ合いはあのときだけだった。


「ミネルバのところへ行っていたんだ」

「どなた様ですか?」


ラウラがまだユルカイアに定住する全員と顔を合わせたわけではないのだ、ということにグティエルの胸は痛んだ。彼女を人々に紹介する役目は夫であるグティエルの義務だったのに、彼はそれを怠ったのだ。


「マヌエラと仲のいいおばあちゃん。会ったことないか?」

「ああ……」

心当たりがあったようで、彼女は頷いた。


ミネルバは幼い彼の家庭教師として基本的なことを教えてくれた。マヌエラが乳母ならミネルバは師である。あとになって両親を亡くしたルイーズが仲間に加わるまで、グティエルの世界は歳をとった女たちによって構成されていた。


そのことを彼は率直に告げ、彼女の反応を待った。ラウラは迷うことなく手を動かしながら、おとなしく夫の話すことを聞いている。グティエルの方も自分の仕事に取り掛かっていた。ラウラが書いた呪符で割れたり欠けたりした魔石のかけらをくるみ、馴染ませるのである。


呪符にまとめられた魔力のかたまりと、中核となるクズ魔石。そこにグティエルが魔力を流し込み、両者はひとつのものに融合される。呪符に書かれた呪文は腹痛や頭痛に効く回復の呪いから、病人怪我人の体力回復を助ける祈りのような術式まで幅広い。


袋の中、残りのクズ魔石はみるみるうちに減っていた。


「だから、俺にとっては大事な人だ。小さい頃からわからないことがあればすぐ教えてくれたから、今でも頼ってしまう」

なんのことはないというように、軽い口調でラウラは返した。

「何かわからないことがおありになったの?」


沈黙が診療室に満ちた。それにしても本当にこの部屋には誰も来ない。悪意や善意、人の感情のすべてから切り離され、冬の間ずっとここにひとりでいてはラウラはおかしくなってしまうだろう。


今となってはグティエルはラウラを敬愛していた。いずれユルカイア人たちのことを愛するように愛せるようになるだろうと確信していた。あるいはもうなっているのかもしれない。彼らと彼女の架け橋となり、ラウラが安心して過ごせるようにこの城を変えるのだ。彼にはその義務があり、また彼自身の望むところでもある。


グティエルは下を向いたラウラの姿を盗み見た。彼女は凛々しく美しかった。引き結んだ唇の一本線すら綺麗である。彼の妻となった女は思慮深く美しく純粋な心を持っていた。ーー誰が自分を嫌い、厭い、仲間はずれにして嘲笑う相手のために薬を作ってやろうとするだろう? 仮にグティエルが彼女の立場に押し込められたら剣を抜いて暴れただろう。彼は戦士だったから。彼女は? 彼女には何の力もない。魔力の気配を感じない。仮に噂通り彼女が罪人として魔力嚢を潰される刑罰を受けたなら、それは貴族が貴族であると誇れる原点を失ったということである。


グティエルは彼女にそんな罰が似合わないのを知っている。


夫がいつまでも答えないので、ラウラは顔を上げ不思議そうに彼を見た。息が詰まる感じがした。グティエルはゆるゆると首を横に振った。


「お前に対する態度を皆が改めるよう、いい言い方はないかと思ったんだ」

ラウラはガラスペンを取り落とした。黒いインクがぽたぽたとテーブルクロスにしみをつける。


「それは、ご心配に及びませんわ」

声が震えていると彼は思った。

「時間が解決してくれます」

「ただ待っているわけにはいかない。俺の言うことならみんな聞いてくれるだろうから。言うタイミングと、言い方次第だよ」


ラウラは目をすがめて脳裏を駆け抜ける数々の記憶を思い返していた。そう、結局のところ人間同士の関係というのは複雑でありながら単純で、最も適したときに適した言い方をされれば聞いてもらえるお願いも、そうでない環境で耳にされるとその結果にならないといったことがよくあって……。


ラウラはいつも間違えていた。タイミングも、言い方や誰に伝言を頼むのか、どんな顔と服装でいればいいのかさえ。

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