第21話
「俺は、魔物から人を救ってお礼を言われたことはない」
唐突に刃を突きつけるような口調で彼は言った。信じられない思いでラウラは彼を見つめた。棚の上に広げた木の盆の上で、彼はもくもくとクズ魔石に呪符を巻きつけている。暖炉の上の鍋の中、沸騰したお湯でそれと同じものが茹でられている。
「どうしてですか。あなたはユルカイアの守護天使です」
「でも恐れられてる」
いっそのんびりした声だったが、彼が傷ついていないなどとラウラには言えなかった。肩は緊張しておらず、石に呪符を巻き付ける音も単調で、だがグティエルの全身が諦めを知っているのを彼女は知った。その感情をとてもよく知る者には、わかるのだ。
ーー私たちは、同じことを知っているのだ。
と、まさか声に出して言うわけにはいかない。それは敗北だった。傷の舐め合いは許されない。
「ありがとうと言われたのは初めてだったから。俺はお前のためにできるだけのことをしてやりたいんだ」
ラウラはペンを再び手に握ったが、どうにも震えて文字を書けそうになかった。
彼女は夫がすべてを持っていると思っていた。ユルカイアは貧しかったが彼はその頂点に立っていた。人々は彼を好きで、彼もまたユルカイア人を愛しているように思えたのだった。現実はラウラのような世間知らずには見えない側面を持っていたのだろうか?
「何故ですか。あなたは彼らを守っています」
「エンバレク家の貴族が住民のために魔物を殺すのは当たり前のことだ。当たり前のことにいちいちお礼を言うやつなんていないさ。俺はそれが当然だと思っていたんだがーーその結果、お前が爪弾きにされる原因になったんなら、それは間違っていたってことだ。俺が悪かった。考えなしだった。……ごめんよ」
「いいえ、いいえ」
ラウラは前を向いたまま首を横に振った。彼が見ているのがわかった。
「あなたはいい人です」
「どうして?」
「悪い人なら逃げています」
ーー私のように。
「踏みとどまっているなら、誰かのために戦えるなら、それはいい人です」
父のような皇帝の家臣として宮廷にはべる貴族より、自分の領地で暮らす貴族の方をラウラは好いていた。代官任せではなく自らその土地を納めるのはどんな気持ちだろう? 意地悪な人は彼らのことを、平民の上に立っていると確認し続けなくては生きていけないのだなどと言うけれど。
自分の居場所を自分の土地に定めて、そこのために生きること。地に根を張った生き方。穀物の成長に気を配り、天候を見定め、必要があれば魔法でもって平民を助ける素朴な人生は……きっと素晴らしいに違いないと思ったのは間違いではない。本心はただ逃げたかっただけだったのだろう、それでも。
「ユルカイアで私にできることがあって幸いでした。尼僧のヴェールをかぶった経験があってよかった……」
グティエルはふっと笑い出した。ラウラは釣られて小さな笑みを浮かべた。
それからの日々はまるで矢継ぎ早に振る流星群のようで、一日の始まりと終わりがあっという間だった。ふたりで人々を騙しだまし、治療を施す日々が始まった。グティエルが他人にも治療を施せる魔力を発露したのだ、というと人々は納得した。
「だから、治療の呪文に魔力を通せるようになった。これから見つけた魔石を治癒の石に変えて、みんなに配るよ」
自分がひょうひょうと嘘をつける人間だということをグティエルは発見する。使用人から家族へ、近隣の村へ、村から寒さを逃れて城壁の中に避難していた人々へ、噂は広がった。
魔物退治に出なくてもいい日、グティエルは城の大広間を開放し人々に偽物の魔石を配る。
「若様、魔物は来ないのかね?」
と萎んで小さく土の色になった肌の元鉱夫がよろよろしながら言うものだから、
「冬場で魔物の動きも鈍っている。逆にやれることがあってよかったよ」
と返した。鉱夫は安堵したように息を吐き、そこから腐った内臓の腐臭がした。ユルカイアから逃げ出せないのは、今となってはこんな具合の人々ばかりである。
彼らはかわるがわる言う。
「やあ、やっぱりグティエル様はユルカイアの領主だ」
「魔力を持つ貴族はやっぱり特別」
「これまで魔物退治くらいしか活躍してなかったけど、これからもっと役に立ってくださるでしょう」
「ありがたやありがたや、税を納めた甲斐あるねえ」
と。
新しい試みは彼が拍子抜けするくらいはあっけなく受け入れられた。誰も嘘に気づいていないようだった。
「あの娘が余計なことしてないのでしたら、それで――」
と近づいてきて小声で言う者もいる。
「ラウラはそんなことしない。そもそも彼女はもう魔力がないのに、何をするっていうんだ。こんな小さな石にいちいち呪いを込めるとでも?」
「おお、怖いこと言いなさるな。もう女の身体に籠絡されたんですかい……」
「悲しいことだ。この子の父親も母親もこうだった」
「ユルカイアのためになんにもしてくれなくて、してくれないまま死んでいって」
それを持ち出されるとグティエルとしては黙るしかない。
彼は無能な両親の後始末をしなければならない後取り息子で、若さに分不相応の地位に就き、美しい花嫁をもらい、そして中央から求められる租税を人々から取り立てなければならない立場だった。自分の至らなさにラウラが巻き込まれることを、本当の意味で理解できていなかったのだ。
彼はその日にできたぶんの魔石を配り終えると自室に戻る、と見せかけてこっそり診療室に向かう。大広間からは何故か彼の仕事のほとんどを手伝ってくれるルイーズの明るい笑い声が響いている。
そうして診療室に顔を出すとラウラがいて、彼を見つけて嬉しそうに笑うのだった。犬か狼みたいに……荒野にひとりでも生きていける誇り高い凛々しい雌狼。
ラウラはもうひとりぼっちではなく、グティエルもまたそうだった。嫌悪と敬遠という別の理由だったが、彼らはどちらも人々から遠巻きにされていた。ようやく何かを成し遂げることができる機会に恵まれ、ラウラは神に感謝した。みんな、力があってもそれを発揮できる場所がなくて苦しんでいるのだ。魔力がなくなったことは悲しかったが、今となってはいっそ感謝でもしたほうがいいのかもしれない。
「みんな受け取ってくれました?」
「ああ。家に溜め込んでる人がいそうだけど」
「いいことですよ。備えあれば憂いなしと申します。もっとたくさん作りましょう」
「そろそろ材料をとりにいかないと」
彼がマントを壁にかけながら言うと、ラウラの動きが止まる。彼女は真剣な目でグティエルに手を差し伸べた。
「ご一緒させてください。私も採取くらいならできます」
「無茶苦茶なこと言うなよ。山の中で追いかけられて死にかけたのはどこの誰だ?」
「ですが……」
「いいの。適材適所。俺がとってきて、お前と一緒に石を作って、俺が配るの。俺の手柄を作ってくれているんだから、お前を動かしたら借りになってしまう」
彼は暖炉の前の椅子に腰掛け、ラウラが吊るしておいた陶器のポットからお茶をカップに注いだ。芳香と暖かさに彼の肩は落ちた。
「そうだ。それが一番いいやり方」
彼の口調は純粋で、真剣だった。それはどこまでも制限なく伸びていくような、いっそ純真さと言い換えていいようなまっすぐさだった。
ラウラの中で凍りついていた部分が、一番芯の一番大事な部分が、とろけて煮込まれてしまいそうだった。彼女は内心の動揺を表に出さないようにしながら、彼の横まで椅子を引きずっていって、座った。
一緒に炎を眺めながらお茶をすすり、しばらく小休憩を取る間も、心が揺さぶられていることに無自覚ではいられなかった。
宮廷では何事も自分を最優先しなければ生き残れない。純真な子供の心を持っている人などあっという間に養分にされてしまう、特に男は。男という生き物は利己的で残忍で、目的のために寂しい未亡人や愛されたことのない若いメイドを使い捨てることに躊躇はない。だから気をつけなければならないと、常々思ってきたはずだった。夫に惚れた妻など一番楽な使い捨ての駒だから、絶対そうはならないように。
グティエルは宮廷で見た男たちとは何もかも異なっていた。彼はひたむきで、ただユルカイアのために生きていた。彼女が注意してみるようになった限り、確かに人々は彼の努力を正しく評価していないように思える。彼が何をしても、きっと竜を倒してもただ当然と見做しそうな残酷な期待が彼の両肩にかけられている。
「そういえば、あなたはいくつなんですの」
ふと思いついてラウラは気になっていたことを聞いてみた。
「私は十九で、春にはたちになりますが」
「俺は……十六。夏で十七」
「まあ。年下でしたか」
「俺はお前がそんなに上じゃなかったことに驚いてるよ」
彼は満ち足りて、くつろいで見えた。
ラウラの脳裏に誰のものか知れない女の声がしたーーあらそのドレス、いったい何十歳のおばあちゃんかと思いました! 皇女殿下、専属のファッションデザイナーを雇われた方がよろしいですわよ。
自分が老けて見えるせいで彼が何か言われたり、したのだろうか? ラウラが震える口で謝ろうとする前に、グティエルは半分目を閉じたまま続ける。
「いつも貴婦人の中の貴婦人みたいに綺麗だから。何を着てても、髪の毛を括っただけでも。世慣れてていいなって思ってた。堂々として。みんな俺のこと、若いから舐めてる部分があるから」
うとうとと彼の顎が落ちた。ラウラはカップが彼の手から滑り落ちる前に取り上げた。
軽いいびきと、規則正しい呼吸の音。ラウラはただ目を見開いて炎を見つめ続けている。ちょっと耳がおかしくなったに違いない。
彼女は綺麗ではなかった。美しい女というのは金髪か栗色の髪をして、大きな目をしていなければならない! ラウラの目はごく平均的な大きさで、顔の二分の一を覆うほど大きく美しかった母の目を受け継いでいない。淫欲皇后は偏頭痛でも有名だったが、それは大きすぎる眼球が脳を圧迫していたからだった。
ラウラはグティエルが束の間の眠りから目覚めるまでその横にいた。彼女は、彼が彼女を信頼してくれたことにどれほど感謝しているか、眠っている彼に伝えたいと思った。起きている彼にそうするにはまだ勇気が出なかった。
心が明らかに軽くなり、なんなら翼が生えて空を飛べそうだと思った。夫がラウラを見苦しく思わない未来を夢見ていた頃もあったが、せいぜい血筋や持参金が顔の欠点をかき消してくれることを願うくらいが関の山だった。
まさか……。
夫が自分を愛してくれる可能性が、あるのだろうか?
彼女の壊れた部分が大喜びの犬のしっぽのように回転していた。切望と絶望に胸がひき毟られる錯覚がして、魔力嚢の残骸がカサカサした、心臓の隣で。
窓の外で雪が降っていた。夫婦は暖炉の前で並んで座っていた。しんしんと耳に痛い静寂があり、火の熱と匂いがあり、彼らは互いがそこにいるのを知っていた。
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