第36話



彼はただ粛々と前だけを見て歩を進める、行先はわからない。獣じみた直感が方向を教えてくれ、山の中に吹くそれと似た風を追うと行くべきところに行けることを知っていた。


グティエルの目の前に荒野が広がっていた。清々しく晴れ渡り、どこまでも続く自由な大地が。ここに人を食い殺す魔物も、それらの巣食う山もなかった。人の目もなかった。大声で叫びたかった。彼は生まれて初めて、何もしていないことにこそ心が弾むのを感じていた。


人々は彼を何をされても決して折れない心を持った鋼鉄の戦士と見做していた。正確には、その評価に値したのは父だった。父の失踪――十中八九の死は、あまりに早すぎた。彼は父の代わりをしなければならなかったし、周りはまだ十七歳の彼をそのように扱ったし、何より彼自身がそうあることを望んだ。ユルカイアに生きるためにはそうすべきだと思ったから。


だが馬の背からただ広いばかりの荒野を、ぐるりと彼を取り囲むものすべてが消えた今を感じて、グティエルはほっとしていた。もっと喪失感や、焦燥感を感じるのかと思っていた。今すぐにでも城に戻りたくて泣き出すのかと思っていた。そうならなかったことにどう思うべきなのかもわからなかった……。


役目を放棄するつもりは毛頭ない。だが城に戻りたくもなかった。荒野でキャンプしながら山に通って魔物を殺しつつ生きるか? 荒唐無稽な話に彼は軽い自嘲を浮かべた。


山の中でならあらゆることが自分の手のひらより明確にわかるのに、荒野では勝手が違っていた。おそらくグティエルの領域とその外側との境界線がある土地だからだろう。丘陵と平野が繰り返し広がり、北の山脈さえ遠くに霞むほど続く不毛の土地では、彼の索敵も役立ちそうにない。


――と、前方に狼がいた。珍しいことに一匹狼である。群れを追われた普通の獣ならいいが、魔物の擬態ならことである。山から彷徨い出た魔物となれば、グティエルの張った防衛線や他の魔物のナワバリを突破できるほど強い個体ということだ。見過ごすのは危ない。


「殺すか。仕方ない」


彼は腰の剣を抜いた。あんな逃げ方をしたというのに、応接室の暖炉脇に置いたはずの剣が手元にあるのがおかしい。無意識すぎて剣の柄を掴んだことも、乗馬の際に忘れず腰に佩いたことさえ覚えていなかったのだった。


グティエルは声を張り上げた。頭の中がすっきりする心地がした。彼はやはり闘争のために生まれたのだ。

「おい! 恨みはないが殺すからな。神妙にしろよ!」


魔物を知り尽くしたはずの彼にとっては不可解なことに、狼はそのときありえない行動をとった。少なくともグティエルにはそのように思われた。

巨大な鉄錆色の狼は、確かに笑ったのだった。


踵を返す巨体をグティエルは馬を叱咤して追った。周りの景色の色彩が色褪せ、平穏や平和を切望する心が死んだ。胸にも頭にも重要なことは何一つ残らず、かろうじて残ったのは彼女のうねる黒髪と灰白色の珍しい目の色だけだ――それさえも重くのしかかる緊張に目覚めた闘争本能に押し流されていく。


下草に紛れてなんとか咲くことができた野花の一群が、馬蹄に踏み躙られて散った。馬はかつて大人たちが狩りに使っていた軍馬の子孫だった。魔物を追ったことなどなく、人殺しを間近に見たはずもない馬だったが彼は有能で、背中に乗せた少年の言う通りに疾走する。


風が、ただ冷たい風が頬をかすめていた。グティエルは距離を詰め、確実に仕留めるための斬撃を放つ。交わされる。まるで意志のある生き物のように狼は飛んだ。そして後ろを振り返り、確実にグティエルをせせら笑った。


彼は激昂した。


おそらくそれは、もっと別の誰かにもっと早くぶつけるべき怒りだった。本当は知らないふりをしていただけだったのかもしれない。誰もそれを教えてくれなかったので、存在しないことにするべきかと思って。


追いかけっこはいたちごっこに変わった。狼は遊ぶように丘陵から飛び上がり、弓なりになって半回転したかと思えば再び地面すれすれを疾走する。グティエルはむきになって馬を駆ったが、軍馬の血統といえど馬も疲弊する。怒りが去ればグティエルも疲労に倒れる。

疲れないのは魔物だけである。


馬の限界を彼は感じた。いまだ遊び心を見せる狼には癪だが、これが荒野にいるとわかっただけで収穫である。馬が潰れては行き倒れだ。グティエルは歯噛みしながら手綱を緩めた。悔しさに頬が紅潮するなんて何年振りのことだろう。


鉄錆色の毛皮が、みるみるうちに遠ざかっていく。荒野は先が見えない。延々と続く地平線に吸い込まれる後ろ姿、ふさふさしたしっぽをグティエルは最後まで睨み続けていた。

馬は歩きに変わって、ぜえぜえ言う声が聞いていて切ないほどだった。


「ありがとう。かわいそうに、降りるから止まろう」

声をかけてその通りにしてやると、馬は今すぐ寝転がりたい様子を見せる。身体じゅうが汗をかいていて、早く手入れしてやらねば風邪を引かせてしまうだろう。


(俺は考えなしだな……)

気持ちはすでに覚めていた。城に戻ろう。けれど、ときどきこの荒野に出てこよう。どれほど忙しくても時間を作ろう。

(ラウラの遺体を見つけてやらないと、いけない)


認めるのは心の最中に人の形の穴が空くようなものだった。お城のお姫様として育った女が一人、家を追い出されてどうやって生きていく? ユルカイアに親切な人はいない。みんな生きるのに必死だ。何も持たず、誰からも助けてもらえず、ラウラはきっと今もひとりぼっちだろう。荒野か山か山間の放棄された村か、どこかにいるに違いない。彼は必ず彼女を探してやるつもりだった。そして二度と妻帯すまい。罪を犯したのに次があるなど甘ったれたことを考えてはならなかった。


美しいラウラニアは彼が殺したのだ。もう二度と一緒に並んで座ることも、火にあたることも、会話することもできない。苦しまなかったか、恨んでいないか聞いてみたい。


ああ、と彼はため息をついた。馬の鼻息が白く荒野の空に立ち上る。太陽の位置からして昼日中だろう、色んなことが立て続けに起こった。山の中では魔物の勢力争いが続いている。このままではあぶれた個体が人間の世界に浸食してくる。春の種籾と川の水の分配を機に、農民たちはギスギスし始めている。城の中も中で、マヌエラとルイーズがヒソヒソ話し込んで何かたくらんでいるようだった。


空は青く澄んでいたが、すぐにまた曇るだろう。馬が顔を上げ、耳をぱたつかせた。彼はその視線を追って振り返った。


死んだと思った人を視界に見つけたとき、人間の思考は止まるのだと知った。

「あ――」


ラウラニアの衣服は質素なウールで、手にした籠から野草の花が覗いている。足元には子羊が一匹、なぜだかこっちを睨みつけるように立ちすくむ。それから、髪! 冬の空に渦巻く白い雲の踊りのようにきらめく黒髪が、さらさらと音を立ててうねる。灰白色の目は光に弱く、だから太陽が再び陰ったのは好都合だった。


彼が偽物ではないとわかってもらえただろうから。


ふたりは走り出した。終始無言だった。どうしてともそんなはずないとも言わなかった。夢見たことが叶えられず、希望が裏切られるのに慣れ切っていたので、口に出してしまえば嘘になることをお互いわかっていたのだった。


荒野の真ん中で抱きあったとき、体温と匂いと影があることに幽霊ではないと実感する――グティエルとラウラは生きていた。


「あ、ご無事で……」

「うん、うん。――お前、生きて」

「ああ……」


グティエルはぎゅうっとラウラの身体を抱きしめた。重なった胸にふたりぶんの鼓動が響いて、ああ、彼女が生きてここにおり、腕の中にあることを知る。


グティエルはやっと身体から力を抜くことができた。


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