第35話



子羊は元気よく塔じゅうを跳ねまわる。メエエ、メエエエエと聞いたこともないほど元気のいい声だ。上機嫌な鳴き声は延々続き、ラウラは正直言って飽き飽きしていた。まるでこれまでの人生でずっと繋がれていた鎖をようやく断ち切ったというような健やかな声である。とたんとたんと彼が跳ねるたび、一階の床はロンロンと音楽を奏でた。


外は夏の曇天、時折振ってくる大粒の雨、そして一面の草原と化した荒野が広がっている。夜のうちに小規模な嵐がやってきて、その水分で朝には新しい草が生える。あとからあとから。もう見たときの爽快感もどこかに行ってしまったくらい同じ景色。


フォルテは宮廷に戻っただろうか? メイに報告しただろうか、ラウラがまだ妊娠しておらず、ユルカイアは辺境でありあなたの敵ではありませんと?――メイはそれを受け入れるだろうか? それともラウラごとユルカイアを滅ぼそうとする?


ラウラは子羊の声から逃れるため、扉を開けて外に出た。玄関代わりの平たい石をつま先で蹴る。音は鳴らない。そうとも、これが正しい地面というものだ。


朝もやは嵐が吹き飛ばした。明るさの中で見る荒野は一面にきらきらと朝露がきらめき、曇り空の下に宝石箱のように騒々しい。かつて行く場もわからずさまよったあのときはこれほど恐ろしい死の世界はないように思えたのに、今のラウラにはこの風景をうっとり眺める余裕があった。何もかもこの塔がここにあり、あの狼が導いてくれたおかげである。


「――あ、」


ラウラはさあっと差し込んだ陽光を額にかざした手でふせいだ。


白っぽい土の続く荒野のさなかに、狼がいた。鉄錆色の毛皮がきらきらと波打つのここからでも見える。


ラウラは扉から出て手を振った。鉄錆色の狼はフイと横を向き、あっという間に駆けて消えてしまった。彼女が残念に思ったところで追いつくこともできない俊敏な背中。


ラウラは塔に戻って棚を漁る。ほとんど塊になった茶葉を取り出し、ナイフで削ってお茶を入れる。入れ替わりに子羊が外に出て行って、今度は塔の前で小石を蹴って遊ぶ。相変わらずメエメエうるさい。


「もう、いったい何がそんなに楽しいの? え?」


彼女は苦笑して呟いた。


椅子を外に持って行って、カップ片手に子羊を鑑賞する。彼は見られていることに気づかないくらい夢中だった。自分の子供を見守る親とはこんな感じなのだろうか? ラウラは両親に見守られたことも、抱きしめられたこともない。自分の子供を愛する仕事を愛情深くこなしてくれるよい乳母を選ぶのが、将来の自分の母親としての役割だと思っていた。


なんの脈絡もなくグティエルの顔が心に浮かんだ。黒い目と凛々しい眉とすっきりした輪郭、黒髪の夫。夫の年齢や容貌をとやかく言うのは下品であると教わったから、もし彼がフォルテより大きく美しい目を持っていたとしてもラウラはそれについてなんとも思わなかったに違いない。


だが――彼にそっくりな黒髪黒目の子供が子羊のように小石を追って走り回るところを想像、失った魔力嚢ごと心臓がぎゅうっと縮み上がった。もし運が良くユルカイアの誰かがラウラの死体を確認しなくてはならないことを思い出し、捜索がなされ、そしてここが見つかったら。何年後かわからないその日に、ラウラは子供の光景を目にすることができるだろうか? その子の母親はきっとルイーズだろう……。


ラウラの指から力が抜け、膝に熱い茶のしみが広がった。太ももがしくしく痛んだが彼女は動かなかった。自分がどうして動揺したのか、わかっていても認めるわけにはいかなかった。ラウラは嫉妬に狂乱して夫の愛人を襲う貴婦人にはならない。それは母と同種の女だ。ラウラは母のようにはならない。ならないのだ。


風が強くなり太陽が完全に顔を出した。ラウラはカップを戻すとショールを羽織り、子羊に声をかけた。


「ちょっと散歩しようと思うけど、くる?」


それでそういうことになった。歩いている間じゅう、子羊はラウラを追い越し、後ろに突進し、追いつき、また追い越し、戻ってきた。跳ねていないときなど一度もなかった。


「そんなに嬉しいの?」

「アン」

「何が嬉しいの?」

「メエエ、メエエエエエ」

「わからないわねえ……」


荒野を一人と一匹で連れ立って歩く、ラウラの心は晴れやかである。細い小道が塔の前から続いている、それをたどる。目の前には驚くほど青い空と、灰色の大地が白く見えるほどに明るい太陽がある。嵐によって折り曲げられた枯れ木、荒野の起伏、あらゆる岩と石の織り成す陰影がレース模様に見える。


白い小道は途切れ、この道を見失えば二度と塔には戻れない。ラウラはそこで立ち止まった。この道がまだここにあることに安心していた。かつて鉄錆色の狼が迷いない足取りで案内してくれた道だった。


子羊は彼女を残して荒野に駆けていった。彼は賢い。十分冒険を楽しんだら戻ってくるだろう。ラウラは慌てず、道の切れたところに立って目を閉じ風を味わった。頭をぐるりと取り巻く三つ編みにした黒髪が、湿気を吸い込んで徐々に重たくなっていった。


(ここが私の行き止まりなのかしら? ここが? この荒野が?)


満腹ではないが空腹でもなく、気持ちは落ち着いていた。大聖堂の中庭を歩いている気分に近かった。安全で安心で、すべてが管理されたあの建物。尼僧仲間たちの顔はもう思い出せない。瞼の裏にいるのは常にタラと家族の死に顔だったが、これから先、ここにグティエルの笑顔も加わるのかもしれなかった。あの山猫のような偽りの笑顔ではなくて、彼女が本物だと信じた年相応の若々しい表情が。


子羊がたったか戻ってきた。彼女はこちらを見上げる彼の小さな白い毛皮に話しかけた。


「私の離宮には薔薇園があったの。大輪の薔薇だけが育つように庭師が毎日手を入れていた。大理石の池があって、品種改良された鯉が放たれていた。廊下は赤い絨毯が敷かれていたわ。壁には絵画。マントルピースにお花、絵皿。美しいものというのは人の手が入ることが必要不可欠なのだと信じた」


ラウラはほつれて落ちてきた黒髪を耳にかけ、嵐のあとの強い湿気た風がすぐにそのあとを撫でる。


「でも――違ったのね。ここは美しいわ。ユルカイアは美しい。山の中も、あの村だって。お城も、荒野も。それだけしか知らないけれど」


子羊はお行儀よく腰を下ろし、つぶらな黒い瞳で彼女を見上げた。従順な犬のような、気まぐれな猫のような、誰よりも忠実な騎士のような仕草だった。ラウラは彼に微笑みかけた。かつて皇女だった頃にした美しいとされる唇の角度を忘れ、ただ笑いたいから笑うのが、いつの間にか簡単にできるようになっていた。


「素晴らしいわ。私は生きてる」


ラウラは口の中に噛み締めるように呟いた。


「生きていればどうとでもなるもの。どれほど辛くても、死んで逃げたりはしない。私は生きるの。生き続けるの。馬鹿にされてもいいの。苦しくてもいいの。傷ができようが病気になろうが、生き続けるの」


ハア、とラウラは肩で息をする。子羊は黙ったまま、愛らしい顔になんの表情も浮かべず彼女を眺める。


「終わり方をどうするか決めるのは今じゃないわ、今じゃないの」

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