第34話

時は少しさかのぼって、ことの起こりはくだらないことである。


「ラウラが人々のためを思って呪符を書いた? あなたと協力して人を救おうとした? そりゃ勘違いですよ。彼女は自分のためにしか動きません。顔もまずいし歌えないし踊れないし、人のために何かする心の余裕はないんです。騙されてますよ、辺境伯閣下」


あっけらかんと言い放ったフォルテはグティエルの表情に気づかず、グティエルの方も美しい金髪の男を殴り倒すまで自分が怒っていることに気づかなかったのだから、どちらも大概である。結果的にフォルテは生まれて初めて絨毯の上にひっくり返った。


フォルテにとってラウラは自分の出来損ないだった。同じカティアの被害者だが決して同列にされたくはない相手、以上でも以下でもない。面倒を見てやらなければならない幼馴染で、彼の手にしたものを手に入れることはできない女の子。


グティエルにとってラウラは妻で、同じ仕事をこなした仲で、そして彼の目に彼女はとてつもなく美しく映っていた。中央と辺境では美の基準が違い、中央貴族が好む顔の大半を占めるほど大きな眼球はユルカイア人の目に奇異に映る。美しい人が自分に協力し、寄り添ってくれようとしていることが嬉しかったのだ。人生の大半を山の中と荒野と領地の痩せた土地の見回りで過ごしたグティエルは、美しいものが眩しかった。初めて彼と同じところに立とうとしてくれた人だ、と思った。


彼は身体が勝手に動いてクォート貴族の蜂蜜のような金髪を掴むのを見た。理性はやめろと叫んだが、本能の方が拍手喝采する。


その日は朝から底冷えがして、応接室の暖炉には小さく火が焚かれていた。フォルテが倒れ込んだ振動で火は揺らめき、小さいものが消えた。


「こ……のっ」


ヒュン、と顔の横をかすめた小さな火球にグティエルは眉を上げたが、赤い大きな目を見開いたままのフォルテはなかなか立ち上がれずにいる。何の問題もなかった。魔物と戦ったことさえない中央の男など、ユルカイア辺境伯の敵ではない。


フォルテに馬乗りになり、さらに殴ろうとする自分がラウラのために怒っているのか、それとも別の理由なのかすらもはやわからない。グティエルにわかるのは、生まれてからこれほど感情を動かしたことはなかったという一点だけだった。――彼はこれまで人を心から愛したり、憎んだりしたことがなかった。


「やめて! やめて!」


とカン高い声がして、拳に縋りつく手がある。ルイーズだった。パタンと応接室の扉が開き、マヌエラをはじめ侍従たちが雪崩込んできた。まるでタイミングを計ったように、もちろん計っていたのだろう、見張られていたのだろう。マヌエラはグティエルを常に誰かの監視下に置かなくては気が済まないのだ。


「戦争になります! ユルカイアは勝てません! 勝てないのです!」


彼の腰を掴みフォルテから引き剥がしながら、マヌエラは低い声でシューッと囁いた。グティエルには彼女が言わなかったひとつの単語がわかった――まだ。まだ、ユルカイアはクォートに勝てない。


数人の男たちに群がられ、グティエルは強引に床に引き倒された。げほげほと咳き込みながらフォルテは上半身を起こす。ルイーズはオロオロと成り行きを見守っていたが、金髪の男が絶世の美男子であることに突然気づいてハンカチを取り出し、そっちに走った。


遠くから走ってくる足音がして、あれはフォルテが連れてきた騎士だろう。手勢が増えれば厄介なことになる。あくまでユルカイアに害意があったわけではなく、グティエルの個人的な暴走だと印象付けなければならなかった。マヌエラの言う通り、まだ、ユルカイアは勝てないのだから。


ハアハアと呻きながらフォルテは朽ちの端を拭う。ルイーズの差し出すハンカチがその手の痕跡を追い、彼女は食い入るように金髪の男の横顔を見つめていた。


「まったく、なるほどね……ラウラも案外やるじゃないか」


彼はゆっくり立ち上がり、グティエルに対峙する。二人を遠巻きにした侍従たち、グティエルの肩を抑えるマヌエラを順繰りに見て、まだ独身だというのが嘘だろうと思えるほど綺麗な笑みをフォルテは浮かべた。


「ここで起こったことを僕は皇后陛下に報告するだろう。使者を襲われ、クォートがどう出るか楽しみに待つといい」

「お返しできると思うか? 火種になると分かってみすみす逃がすと?」


グティエルは自分の中にそんな言葉があると知らなかったが、実際口にしてみると思ったよりそれは口に馴染んだ。何より十七歳らしい居丈高な脅しに聞こえたのがおかしかった。


フォルテが笑うと薔薇の花が咲いたようだ。大輪の。


ようやく追いついた中央の騎士たちは状況が読み取れず、だが護衛対象のフォルテの口に血が滲んでいるのを根拠に腰の剣に手をかける。すべてが遅い。


フォルテの輪郭が歪み、とろけ、彼の姿は消え始めた。


「――移動できるのか」

「そういうこと。すまないね、一枚上手で」


どこまでも腹の立つ野郎である。グティエルの目の前でフォルテは消えた。動揺する騎士たちは剣の柄から手を離すが、すでに一度でも敵対する意志を見せておいてそれは甘い。グティエルと同じくらい甘いだろう。


「地下に放り込んでおけ」


と顎をしゃくると侍従たちがクォートの騎士たちを取り囲んだ。帯剣していても鎧は着ておらず、こちらの侍従の数は倍以上である。じりじりと同心円状に距離を詰められて、いくつかの声が飛んだ――待ってくれ、全部話すから。俺たちはクォートの家臣騎士だぞ、こんなことしていいと思っているのか!


グティエルは応接室を後にした。肉を殴る音とくぐもった悲鳴が背後に響いた。彼は後ろを振り返らなかった。


石の回廊を歩くすぐ後ろを、スカートを持ち上げてマヌエラがついてくる。彼女のしんと冷たい石そのもののような香り、清潔な衣服のこすれる音、そして厳めしい目つきが見えずともわかってグティエルはうんざりした。


吹き抜けの回廊に春と夏を合わせたぶんの風が吹き込んだ。雨と実りの匂いがした。


「いったいどういうことです、坊や。隠さずお言いなさい。クォートの使者を殴って追い出すとは、本当に開戦の理由に十分です! わかっていなかったのですか――」

「わかってるよ!!」


グティエルは大声を上げて柱を殴った。鈍い音、拳が壊れそうになる。柱に取り付けられた燭台がビリビリ震えた。マヌエラは立ち止まり、グティエルは彼女に向き直った。


「俺が何もわかってないと思って何もかも先回りして、満足か!? 俺は赤ん坊じゃないんだぞ!」


まるきり反抗期の息子の言い分だったが、彼自身はそれに気づかない。


「そもそもラウラが追い出されたのだってお前が使用人をよく見ていなかったからじゃないか! 少なくとも俺に報告に来ていればまだなんとかなったんだ」


使用人の監督は正妻であるラウラの仕事であり、しょせん家政婦のマヌエラはそこまでの権限を有していないし義務もない。だがグティエルにとってマヌエラは母親のようなものだった。彼を一度も抱こうともしなかった実の母親に代わり、育ててくれた人だった。甘えているのだということはわかっていたが、まだ声を押さえられない。


彼は少年だった。魔物と戦えるだけの、辺境伯の称号を持つだけの、ただの貴族の少年。


マヌエラの目が細められ、そっと手がグティエルの額に伸びてきた。ふわんといい香りがした。花の香りのような、それを精製した香水のような。グティエルは頭がくらりとする。その香りは彼が生まれたときからそばにあって、マヌエラが動くと香った。嗅ぐたびにこれでいいや、と思う。現状のすべて、やれと言われたこと、全部、これでいいやと……。


「お可哀そうに。ええ、そうね。同じような境遇の友達が欲しかったのね」


マヌエラの声は労わりを含んで甘い。


「あの子も可哀そう。荒野で野垂れ死には苦しかったことでしょう。ユルカイアにあなたたちの味方はいません。だってここは……ああ、」


ほうっと彼女はため息をついた。どこまでも甘く湿った息だった。外から吹く風がぴたりとやみ、グティエルは手から足から力が抜けるのを感じ、


――がん!


と再び、柱を殴った。


マヌエラは瞬きする。ずっと遠く、回廊の曲がり角に隠れていたルイーズが好奇心に負けて顔を出す。彼女たちの表情はとてもよく似ていた。予想外のことが起こったとき、人の顔というのはどうやら似るらしい。


グティエルは身を翻し、回廊を飛び出す。高さは二階である。大広間の大階段はなかなか高いから、普通の建物でいえば二階と半分くらいの高さはあったかもしれない。ルイーズが悲鳴を上げた。マヌエラは石造りの窓に身を乗り出して養い子の姿を探した。


グティエルは庭木に引っかかり、山猫のように半回転して花壇に落ちた。なかなか大きな音がして、潰れた芽吹きはじめの花のかけらや汁、泥で彼は汚れる。そのまま花壇の外へ、一息に飛び出した。頭の中の霧が徐々に晴れていき、雲間から太陽が顔を出すとますます明晰になった。グティエルはずっと自分が騙されていたことを知った。


彼は馬小屋まで走った、全速力で。奇しくもその道はほんの少し前にラウラが命がけで駆け抜けたのと同じルートだった。マヌエラはそれを呆れたように眺める。使用人たちはラウラのときと同じ、見ないふり。関わらないのが一番安全だと知っているから、そのようにする。


グティエルは手近な馬を引き出して鞍を乗せ、大門から走り出た。人々に見送られず、マヌエラの許可も得ず外に出たのは、考えてみれば初めてだった。


山の中に出かけるときはいつも城の中から鉱脈に続く古い隠し通路だとか、裏庭から行っていた。忘れられた村の廃墟や枯れた小川や、古い魔石の加工所跡、クズ魔石のボタ山、そういったところが彼の落ち着ける場所で、それでいいと思っていた。


今、跳ね橋を駆けて馬は走る。グティエルの黒髪が跳ね、黒い目に陽光が当たって薄い茶色に輝いた。虹彩は深い山の闇の群青色である。


――すがすがしい気持ちだった。


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