第33話
さて、フォルテが塔に転がり込んできたのはその半月後のことだった。
「殺されるかと思ったー!」
「は?」
ラウラは扉を閉めた。
「ちょっとー!」
ドンドン叩かれる衝撃は石の壁と鳴る床に吸収され、まったく響かない。ラウラは腰に手を当てて分厚い木材ごしにフォルテを睨んだ。
「なんでここにいるの?」
「なんで僕を締め出すんだ!? 信じられない! この僕を!」
ギャアギャアうるさい。ラウラは頭痛がした。子羊が神経質にぴょんぴょん飛び回り、床は音楽を奏でた。ラウラはこの塔が気に入っている。静寂と音楽があり、頑丈で堅牢で古く情け深い。つまり何もかもがフォルテとは正反対だ。彼女の美しい幼馴染は騒々しい音痴で、踊りが上手な女たらしである。
ラウラはため息ついて扉を薄く開け、子羊を残して外に出た。フォルテを中に入れる気はなかった。一年と三か月ぶりに会う彼は相変わらずきらきらしく美しく、大きな赤い目が朝日を反射して綺麗だった。だがその恰好はボロボロである。上着の貝のボタンと金の房は取れ、ズボンの裾は裂け、何より口の端が切れて血が滲んでいた。彼女は眉をひそめた。
フォルテはラウラの母カティアから彼女の子供たち全員を合わせたより多くの愛を受け取っていた。外国の大使が彼こそが皇太子だと勘違いしたこともあるほどだった。そしてカティアから最大限の教育を受け、その政治的才能を受け継いだのもまた、フォルテだった。ラウラをあれほど憎んでいじめた母が政治家としては有能な女傑であり、ラウラをあれほど馬鹿にしきっていたフォルテがその後継者であるという事実は彼女を苦しめた。より豪華な衣服、より丁寧に作られた料理、ありとあらゆる分野の最高の家庭教師、第一皇女より巨額の予算!
「で、なんでいるの?」
ともう一度同じことを質問した。フォルテは泣き真似していた両手のお椀からぱっと顔を上げた。二度と会わないでいいと思っていた美しい男の蜂蜜を垂らしたような金の髪、りんごの香りの体臭に憧れと嫌悪が同時に沸き上がる。
「君の旦那に城を追い出されたんだよ。なんだよあいつ?」
「何やったの」
「何も」
「したんでしょう」
「したかも?」
フォルテは小さな顎に人差し指を当て、少女のように笑った。困ったことに本当に少女のように見える美貌の笑顔。
「していたとしてもわからないんだよね、僕!」
長年に渡るカティアの愛情、という名の性と立場を使った人格を破壊する調教によってフォルテの自我はばらばらになった。貴婦人たちの都合のいい愛人として蝶のようにその間を飛び回り、男たちに軒並み嫌われながら芸術を愛し、実質的な官位や立場を何一つ得られないままサロンの花としてもてはやされる。おそらくは老いて愛されなくなったらどこかの隠居婦人の愛人として田舎に引っ込むのだろう。ラウラは彼を蔑みながら、憎みきることはできない。
「詳しく話して」
とラウラは言った。本人は気づいていないながら、その高飛車にぴしゃりと言いつける口調は母に似ていた。フォルテは大きな目を少し細め、男にしては丸く柔らかな曲線の額に指先を当て、まるで演劇のように話し出す。
「僕のことを使節に仕立て上げた一派がいてさ、ひどいよね、僕はメイにもよくしてやったっていうのに。メイは僕のこと嫌いになったんだ。生まれた子供がひ弱だからってさ」
「なんですって?」
彼は妖精のように微笑んだ。荒野の遠くの黒い雲の中で稲光が光り、音がした。ぱらぱらと思い出したように昨夜の雨粒が、塔の雨よけから落ちてくる。
「おめでとう、ラウラ。あんたの義理の弟は皇帝にはなれないよ。魔法を有していない子なんだ。おぞましく小さく青白く不健康な、【魔力なし】の赤ん坊!」
ラウラの脳裏にあらゆる罵詈雑言が浮かんだ、主に父に対しての。ゴドリア・クォート神聖皇帝はメイにもメイの子にも目を向けず、逃げ続けるだけだろう。ラウラが目の前で平手打ちされ続けても無視していられた父だから。
「なるほどね。メイに私を説得して治療魔法に協力しろとでも言われたの?」
フォルテはにっこりと微笑むばかりである。彼は美貌なので、そうしても許されてきたのだ。ラウラは腹の中で百万の癇癪の虫が蠢く気がした。
血統魔法は貴族一門を一門たらしめる何よりの証明だが、困ったことに治療魔法に干渉する。魔力を持たない平民ならば軽く撫でるような治療魔法で完治する怪我や病気でも、貴族の身体は思わぬ拒否反応を示すことがあるのだ。よって一人の貴族を救うために、その親族が事前に実験体として協力する必要があった。
もし赤ん坊の皇太子の魔力が眠っているだけならまだ、いい。治療魔法で刺激を受けた魔力嚢は目覚め、せっせと魔力を製造し始めるだろう。だがそうでなかった場合、元々魔力嚢が体内にないタイプの【魔力なし】であった場合――赤ん坊は死ぬだろう。
あるいはメイはそっちの方がいいのかもしれない。彼女は若い。次の赤ん坊に期待する方が効率的だ。
ラウラはひしゃげた魔力嚢の残骸が心臓の横で痛むのを感じた。
「僕は長旅をしてきたのに、君の旦那ときたらひどいんだ。ちっとも愛想がないし、毎日のように魔物狩りだとかいって出かけて数日は帰ってこないよ。あんな野蛮で大丈夫なの、君?」
「私の夫を侮辱するつもり?」
「え、まさか彼を本当に愛しているのかい? 城から追い出されたのに?」
フォルテはぽかんとした。ラウラは前髪をかきあげ、足を踏みかえた。遠くで雷鳴が本格的に始まった。
「それで私を探しにきたの、わざわざ荒野まで?」
「いいや、君が協力しないことはわかっているし、僕もそこまでメイ側につく気はないよ」
フォルテはにっこりした。蜂蜜色の髪、夕陽の赤の目、白く上気したなめらかな肌。衣服が破れても彼は綺麗だった。ラウラは心臓が、魔力嚢と関係ない理由で飛び上がったのを感じた。
「ただ元気かなあと思ったんだ。僕を忘れていないかなあって」
「――血統魔法を使ってまで?」
フォルテは微笑むばかりである。彼が属するギリア子爵家の血統魔法は瞬間移動で、彼が望むところまで一息に飛ぶことができる。一瞬で、ほんの少しの誤差を覗けば確実に。彼はラウラのところに行きたいと魔法に願ったのだろう、そしてその通り彼女を見つけた。
「元気そうで安心した」
「どうしてユルカイアの城から追い出されたの? 何をしたの。夫は不条理なことをする人ではないわ。あなたがよほど無礼なことをしたんでしょう」
ラウラは息を荒げる自分のことを止めたかった。本当にそうしたかった。けれど彼女はそうではない。いつも冷静で冷徹で、氷のような無表情の美女にはなれないのだ。
「さあ仰い。彼に何をしたの?」
フォルテは笑ったがその表情は先ほどとは異なって、どこか寂しそうな――憧憬が一瞬よぎる、唇の端を切り上げたような顔だった。
「雨が降りそうだから帰るよ、都へ。僕の居場所へ。またメイを誑かしてお小遣いもらわないと」
彼の存在が揺らぎ、その輪郭が空気に溶けていく。暗くなる周囲、子羊が内側から扉を引っかく音、メエメエという泣き声、ぽつぽつと振り始めた大粒の雨に、急速に近づいてくる黒い雲。ラウラはパニックになりかけた。フォルテは金色の眉を片方、ひょいと持ち上げ両手を広げた。
「怪我してなくて安心したのは本当だよ。城にいなかったのはびっくりしたけど、君が殴られてなくてよかった。僕はメイに全部話すだろう。でも彼女はここまで君を追ってこないだろう。僕が――」
雷が落ち、地面が揺れた。最後の春の嵐がやってくるのだった。
フォルテの最後の言葉は聞き取れず、ラウラは掻き消える彼の姿に力なく手を伸ばした。その手を掴んでくれる人はこれまで一人もいなかった、だが彼女は欲しいものを掴めなくても手を伸ばすことに慣れていた。
嵐に巻き込まれる前に彼女は塔の中に逃げ込んだ。縋りついてきた子羊を腕に抱きしめ、ばくばくする心臓の上にふわふわした身体を当てる。
白い毛皮に顔を埋めてラウラはしばらく動かなかった。
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