第32話



ラウラは腑抜けていた。そして困っていた。


というのもこの塔での生活は、あまりに快適だったからである。呪符を書く必要はない。使用人の誰かが悪口を言っているのではないかと気を揉む必要はない。薪はいつ次を持ってきてもらえるか、食事はいつ来るのか、水は足りるか、足りないものをくれと言って応えてくれそうな人はいるか。何も心配する必要はなかった。代わりに自分で用意するわけだがいるものはすべて塔の中にあったし、とくに力仕事をするでもない女一人と子羊のぶんなんて知れたものである。尼僧姿だった頃より生活は楽だった。


グティエルは大丈夫かと気になるときもあったが、そもそもユルカイアは彼の土地だ。彼が魔物を退けて守っているのに、嫌われる道理もない。……彼はやがてルイーズと結婚して幸せになるだろう。最初の予定のまま。今となっては望まれてもいないくせに一冬も居座って、すまなかったと思っている。彼も迷惑していたのを顔に出せず大変だったのではないだろうか?


(幸せになってくれるといい)

もうそれで、諦めよう。ラウラはそのように自分の中を整理していた。


もちろん諦めきれない思いの方が強い、今はまだ。だがそのうち季節が変われば、彼女の心も変わるだろう。大聖堂に入ってすぐの頃は宮廷から離れてせいせいしていたが、じきに父を心配する気持ち、残された弟妹のうち誰かが母の次の標的になったらどうしようという恐怖が膨らんだ。けれど父は相変わらず聖職者たちに縋りついて祭祀に明け暮れる毎日を過ごし、母の享楽的な生活と敏腕な政治の腕は変わらなかった。


ラウラがいない方が他の人たちの日々は平穏に過ぎるのだ。フォルテの言う通り。幼馴染でさえああ言った、そしてユルカイアで言われた通りのことが起きた。どうやらこれが事実らしいとラウラはやっと飲み込んだ。荒野に暮らしていた方がおそらく……自他ともにいい、のである。


魔女アンティーヌが残した日記帳は結局あの一冊きり。それも暗記するほど読んでしまった。研究論文がいくつか存在することが暗示されていたものの、探してもそれらしいものは見当たらない。


袖を引く感触にラウラは下を向いた。椅子に斜めにもたれかかって天井を見る時間をしていた彼女を、子羊はこうしてしつこく外に誘う。

「なあに、また遊ぶ? いいよ」


よっこいしょ、と年甲斐もなく掛け声を上げてラウラは起き上がった。昨日も今日もたっぷりすぎるほどに眠って昼過ぎに起き、時間をかけて髪の毛をブラッシングし、自分と子羊にパンと水を与え、それで一日分の仕事をした気持ちだった。それ以上のことをする気になれないのだった。


それでもこうして誘われれば外に出て日差しを浴びる。ユルカイアの春は本当に嵐まみれで、今は小さな雷鳴と雷鳴のささやかな晴れ間だった。子羊はぴょんぴょん飛び上がり、小さなボールを彼女に投げてくれと手渡した。


「ハイハイ。お前は本当に犬みたい」


そうして投げられたボールを追いかけて走っていく小さな白いお尻、はふはふと愛らしい息の音が風の中に響く。ラウラは目を細め、薄い灰色の雲がかかった青い空を見上げた。太陽は真っ白に燃えていた。


戻ってきた子羊がぽとんとボールをラウラの足元に戻し、もう一度やれと飛び跳ねた。

「ええ、グティエル。……お前本当にグティエルなの?」


ラウラは地団太を踏む子羊に微笑みかけた。愛らしい白い羊。子羊は聞いてもおらず、一直線にボールを追っていく。ぴるぴると振られた短いしっぽを見つめ、ラウラはくすっと笑った。


貴婦人アンティーヌが嘘の日記を書いて残しておく意味はなく、明らかに誰に見られることも想定していない日記帳でラウラを騙す必要もない。ラウラに取って子羊の正体はどうでもよかった。彼は少なくとも彼女と一緒にいてくれるのだ。

「そうよね、このままこの塔に住み続けるのも楽しいものかもしれないわね」


と口に出して言うと、ますます言葉は真実味を帯びた。一人と一匹で朽ちていくことさえ、そう悪くないのではないかとさえ思った。誰かと話したり協力したり、敵対することもなく時間が過ぎて、終わる。それはある意味で聖域だ。魔法使いの中にはそうした一生から比類なき研究成果を残し、歴史に貢献した人物もいた。ラウラもそうなる、可能性がまだ残っているかもしれない。


考えながら空を見上げ、視線を戻したラウラの前で子羊が突然止まった。ボールをくわえ上げ、こっちに戻ってこようとした矢先だった。彼が見つめる先に狼の姿があった。黒い狼、彼の父親だという人の分身体ではない。鉄錆色の巨大な狼だった。彼は礼儀正しく腰を落として、立ち去るべきか否かを態度で聞いた。ラウラは頷いた。


「どうぞ、お入りくださいまし。お話いたしましょう」

それでそういうことになった。


一階に入り込んできた狼は相変わらず巨大で、その前足にもたれかかったことを覚えているのか子羊は興奮ぎみだった。ラウラとしても、こうも大きく強い生き物と同じ空間にいることは緊張せざるを得ない。


「お飲みになります?」


と聞いてお茶を差し出すと、狼は表情を柔和にする。明らかに笑っている様子に少しだけほっとした。――彼は誰なのだろう? 子羊は知らないのだという。ユルカイアに関わりのある人であるのは明らかなのだが。


しばらく、机の上で狼が皿から茶を飲むぴちゃぴちゃという音だけが響いた。言葉は唐突だった。

「手記は読んだか」


深い洞窟に魚も住めないほど澄んだ雨水が溜まった湖のような声だった。清らかに澄んだ深い、ちょうどグティエルが老いたらこうなるだろうと思われるような。ラウラはカップを両手で握りしめ、

「お話になれるとは思いませんでした」

「気が向けば、話す」

「そうでしたか……ええ、読みましたわ」

「中身は信じていい」

「わかりました」

「見当はついたか」


ラウラは息を詰め、数週間ぶりに頭の中の使ってこなかった部分に血が通った。意識の中に埋もれていたたくさんの聞いた言葉、知った事実がぎゅるぎゅる螺旋を描く。


「魔王エトナはエンバレク家の人間でした」

唇を舐めた。乾いて剥けた皮が舌に引っかかって痛かった。


「ヴァシー卿の兄弟であり、決して領主になれない彼は……義理の姉アンティーヌに恋をしていたのではありませんか? もし、私の推察が正しければですが」

机の下で大人しくしていた子羊が彼女の膝にひづめをかける。彼は心配そうにメエメエ鳴いた。

黒い狼が何も言わないので、ラウラは続けた。喉の奥は乾いている。


「エトナはユルカイアの領主になりたかった。けれど兄のことも愛していた。義理の姉のことも、人として女として愛していたのでしょう。だから何もできなかったのに、とうのアンティーヌが血統魔法の実験を始めた。そして思わぬ失敗を……いいえ、魔法実験としては成功を収めました。その魔法を破壊できる手段を見つけることこそが、魔法を研究する理由なのですから」


火を出す魔法を使える貴族の子供が癇癪を起こすたびに屋敷を燃やさないのは、その親が水を出す魔法を使えるから。魔法には必ずその効力を打ち消す対魔法が存在する。人を殺す魔法にはその魔法が与えた死だけを無効化する魔法が存在するが、魔法で病や怪我など人殺し魔法以外で死んだ者を救うことはできない。


「けれどその結果、ヴァシーはエトナを殺さなければならなくなった。エトナは魔法でもって魔物を操り、従えたと御伽噺に聞きました。ユルカイアには、禁術があるのですね」


ラウラは話し終えた。鉄錆色の狼は変わらず椅子の上で微動だにしない。子羊がそろりそろりとラウラの足の甲の上に座った。ぬくもりが濡れた感触じみて足に浸透してくる。


「禁術は血統魔法の発展形態だと聞きます。それを使える者が生まれることは非常にまれだとも。ユルカイアの分身体の血統魔法の発展として、魔物を分身と見做して操る、あるいは命令する魔法がかつてあり、そしてエトナにその使用権が発生したのでしょう」


ラウラは思い切って狼に呼び掛けた。

「合っていますか、エトナ様?」


狼は、答えない。子羊はラウラの足の上でべったり平たくなる。トクトクと早い彼の心音がラウラの心臓にまで響くようだ。


――ユルカイアの民の遠い先祖は狼だったとグティエルは言った。ユルカイアの者が山に呼ばれ、彷徨ううちに狼になる、と。山の中の狼となった彼らはユルカイアを守る戦士となると。何から守るのだ、この土地を? それはもちろん、エルフの竜から……。


「クォート家はユルカイアの宿敵ですもの。魔王と呼ばれるほどの悪逆非道も、ひょっとして中央から辺境を守ろうとしたせい? 死してからもそのようなお姿で、故郷を守ろうとなさっているの? だとしたら、なんて……」


ラウラは二の句が継げない。目の前にいるのが魔王と呼ばれた夫の親族で、死んでなお生まれ故郷を守ろうとしているのなら。痛ましい、健気な、美しい行いだと思った。羨ましい。理想的な貴族の行いだ。


敵意がないことの証に、机の上に手を出していた。いつの間にか両手をぐっと握りしめていることに、ラウラは気づかない。

「どうして憎いはずの私をお助けくださったのですか?」

「――人と家系は関係ない」

彼はうっすら微笑んでいるようだった。

「そんなところで立ち止まっていては、永遠にこの塔から出られないだろう」


音もなく狼は床に降り立ち、長いしっぽがしゅるんと振れる。ラウラは慌てて立ち上がった。子羊はころんと床に這いつくばったあと、元気よく狼を追って駆けだした。彼の数歩が狼の一歩である。


「俺の名を当てられたことは褒めてやる。だがそれ以外は全部間違いだ」

「う。そうですか。失礼を……」

「お前、人の気持ちを推測しようとしない方がいいな。心に疎い。人のにも自分のにも」


ぐうの音も出ないラウラは立ち止まった。ちょうど扉。狼が出向くとひとりでに開いた。


子羊は庭先まで彼を見送ったが、丘のように大きな体躯は一度も振り返ることなく消えていく。いつの間にか霧が荒野に立ち込めていた。嵐に関係なく、この土地はこうなる。

肺の奥まで湿るような空気だった。ラウラは力なく子羊を呼び、再び塔に閉じこもることを選択した。


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