第31話



グティエルはいらいらしていた。もうずっと。背筋は常に緊張して一本の槍のよう、手足はどこかが強張り、いつもの素早い脚運びは鈍った。眉に寄った皺が消えないのをルイーズはせせら笑うが、彼は彼女のそういう幼いままのところが嫌いだった。そもそも彼の苛立ちの原因のひとつはルイーズである――妻が荒野に逃げたのは、彼女の証言が大きかったのだから。


魔物と渡り合うのは緊張するし疲れ果てるものだ。診療室に戻って初めて、グティエルはラウラがいないのを知った。最初は風邪でもひいたかと思って心配した。正妻の部屋にもいなかったのであちこち探し回り、使用人に聞いても答えない。さあ、わかりません。それはユルカイアで彼が何度も聞いた言葉だった。わかりません、関わっていません、お話できません。まるでグティエルだけがユルカイアの輪から排除されているかのように、祀り上げられて一番大切なことを知らせないよう示し合わされているかのように、子供の頃からそのように扱われてきた。嫌だと思ったことはなかった、それが日常だったから。グティエルは尊い辺境伯の家系なのでそのようにするのだと言われ、そうかと納得してきた。


彼はマヌエラを問い詰め、優しい乳母であり教師であり育ての親である女性は目を細めて泣いた。

「お救いできませんでした」

と経緯を教えられた。ミネルバが死んだこと、民がそれを責め立てたこと、そしてルイーズが……話してしまったこと。グティエルとラウラがしたことについて。


グティエルが配った偽物の魔石を、人々は砕いてしまったという。他人の家や部屋に押し入って、お前がいついつにもらったあれは? それは? と問い詰めて持って行ってまで、念入りに全部砕いたそうだ。それほどにクォートはこの土地で憎まれている。


「残念ですわ。荒野で……きっともう生きておられないでしょう」

とマヌエラは泣き、グティエルはそれを呆然と見つめた。感情が動いていなかった。


彼はふらりと自室に戻り、暖炉に火がついていること、薪がうず高く積まれているのを見て扉の前に蹲った。古びた薄い絨毯と天蓋のない寝台、一兵卒のような部屋だった。自立心を養うためと言われて七歳のときにこの部屋をもらい、以来過ごしてきた。一度も憎んだことなどない部屋そのものまで憎かった。


何もかもが甘い見通しの末に起きたことだった。だが人々は笑顔で石を受け取って持って帰ったのだ。おかげで怪我が治りましたと言われたこともある。子供が助かりましたから追加を、と言われたこともある。


その作成にラウラが関わっていたからといって、彼女を残酷に追い出す理由がどこにある?


ラウラはユルカイアを助けたかっただけだ。ユルカイアの人々のことを。それはグティエルも同じだった。ユルカイアのために生きようと、自分で思ったわけではなくても信じて生きてきた。ラウラが同じような目的のため一緒に働いてくれて、彼は嬉しかった。


嬉しかったのだ。初めての妻。初めての家族。結婚は神聖な契約だ。生涯ずっと彼女と一緒にいて、彼女と一緒に暮らし、寄り添い、いずれ子供を持ち、子供が子供を産み、つながっていく。ユルカイアのための存在として彼の血がつながっていく。


グティエルは実のところ、自分に新しく家族ができるとは夢にも思っていなかった。母が狂って山に呼ばれて死に、父もどこかへ消えた。今でも心のどこかに父がいるような気がする、グティエルと同じ黒い目に見つめられている気がする。


それがたまらなくいやだった。グティエルは両親の一番大事な人ではなかったから。マヌエラと同じ、彼らはグティエルを愛さなければならないので愛し、ユルカイアのためになるので育てた。いつだってそうだった。ルイーズが好いてくれているのは辺境伯夫人になりたいからだ。人々が彼を大事にするのは魔物と戦わせるためだ。


ラウラがグティエルに優しくしてもなんの利点もなかったが、それでも彼女はユルカイアのため彼に協力してくれた。初めて同胞を得たのだと思った。手にしていた松明が突然吹き消されたような気持ちが消えない。グティエルは無表情のまま窓の外を見つめる。春の嵐が近づいていた。


――荒野に探しにいくべきだと何度も思った。だが時を同じくして魔物の動きが活発になり、境界線が破られた。人死には出なかったが、出てもおかしくない状況だった。ユルカイアの春夏は短い。人々は一刻も早く畑を耕し、糧を得なければならない。


グティエルの身体は半分自動的に動き、魔物狩りに向かう。そうでなければならないと定められ、躾られた通りに。彼はユルカイアのために生まれた。ユルカイアを守るために。それ以外の道など知らないのだった。


彼は妻の夢を見ては起きた。彼女の黒髪が闇の中に消え、どれだけ走っても追いつけないのだった。伏し目がちな灰白色の目、けぶる睫毛、すっきりした曲線の額と頬、小さな顎と唇、それから慎ましく通った鼻筋。その白い肌のなめらかさ。グティエルはラウラの美しさにいつも見惚れていたが、同時にそれをおくびにも出さないでいようと心に決めていた。彼が彼女に惹かれていることを山に悟られたら、完全にとられてしまうだろうから。


鬱屈としながら魔物と渡り合い、繁殖期を控えて狂暴化した彼らを殺した。坑道のあらゆる陰に潜んだクィントゥスの狼たちの目はらんらんと輝き、ヒソヒソ話で情報を伝達する。また死んだ、殺された、ユルカイアはよそ者を許さなかった。


「違う!」

とグティエルは叫ぶ。血飛沫を避けもせず、命を奪うことに心動かされることなく。

「俺は彼女を見殺しにしていない……」

それは自分に言い聞かせる声音だった。


そんな中に都からやってきた美しい男は、とにかくグティエルの癇に障った。フォルテ・ギリア子爵は皇后の愛人の一人として有名だったが、グティエルが思う美男子とは違っていた。全体的に細く、異様なほどに大きな目ばかりが目立ち――エイリアン、という古代の単語が頭をよぎる。顔の半分近くを占領する目をぱっちり見開いて彼は話した。声は男にしては高かった。蜂蜜を溶かしたような美しい金髪は古いコインか年老いた狼の目のよう。白過ぎる肌、か細い体躯、男にしては華美な服装に香るコロン。何もかもが気に食わない。


マヌエラと共にフォルテが立ち去ると、グティエルはいら立ちのあまり吠えた。


「なんだあれ!? 目ばっかりぎょろぎょろしててどこを向いてるかもわからない!」

応接室の掃除に出てきた年老いた女中がちらりと彼に目を向けた。


「どうした」

「……都の方々はみんなああいう顔をしているんでございますよ」


グティエルはフンと鼻を鳴らし、卓上のグラスを鷲掴みにして中身を喉に流し込む。少年領主の背中に女中はしみじみ言い聞かせるように呟いた。


「エルフはああいう顔なんですよ」

「――奥様も似たお顔をしていらしたでしょう」


と後を引き継いだのは戻ってきたマヌエラだった。彼女に手を振られた女中は一礼して立ち去った。その足音が消えないうちにマヌエラは続けた。


「中央貴族はエルフ族の末裔、ユルカイアの貴族はクィントゥスの末裔です。間違えてはなりませんよ。あなたはれっきとした狼の血族、戦士です。奥様をはじめクォートに関わる者たちはただのエルフ族。エルフは歌を歌い踊りますがそれだけです」


グティエルは額に手を当ててこすった。頭の中に霧がかかる不気味な感触がした。マヌエラと一緒にいつの間にかルイーズが立っていて、さほど必要でもない後片付けをして回る。暖炉の灰をかいてみたり、フォルテが座りもしなかった椅子の詰め物を拭いたり。この二人はいつでも実の親子のように一緒にいるので、グティエルとしてはどっちに何を言ったか忘れてしまうことさえあるのだった。


「歌歌いはしょせん、人間のために戦ってなどくれません」


マヌエラは言い、その背後でルイーズがこくこく頷く。若い彼らの間には、ラウラが消えた日以来会話がなかった。グティエルがルイーズを拒否したのははじめてのことだったから、彼女としても途方に暮れているところらしい。


グティエルは応接室を後にした。ルイーズがカン高い声でマヌエラに何かを訴える声が聞こえ、そのせいか耳の後ろがズキンと痛んだ。ラウラの声は低くまろやかに落ち着いており、話していて不快になることなどなかったと思った。


城は古く、広く、閑散として暗く、迫る夏の熱のおかげでカビや腐った漆喰のにおいが漂い始めていた。暖炉の熱では浮かんでこない歴史の埃の層は、夏に目覚めるのだ。


グティエルはひとりぼっちだったが、彼にとってそれが通常のことだったので何も思わない。ただ彼には一瞬だけ妻がいて、今はもういないことだけが以前と違っていた。


来る夏はきっと寒々しいことだろう。まるで冬のように、とグティエルは予感した。

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