竜と恋と石の花

重田いの

第1話



冷たい土の中に降ろされる母の棺。人々の肩越しにその白亜の輝きをラウラは見下ろした。そのとき感じたのは悲しみではなく安堵だった。涙を流していないのを人に見られたら困ったことになる。尼僧のヴェールの下、彼女は拳を口に当てて俯いた。


ラウラニア・ローゼ・クォートは二十歳とは思えないほど陰気な娘だった。黒髪をひとつのお団子にまとめ、着ているのは真っ黒な尼僧服。装飾品はひとつも付けていない。青白い顔とつつましく伏せた灰白色の目。宮廷づき僧侶が朗々と悼みの歌を歌う、その旋律に合わせて小さく唇を動かした。


さっきから彼女の姿に気づいた貴族たちの値踏みする視線を感じていた。かつてはびくびくと怯えていたそれらも、今となってはどうでもいい。この葬式が終わったらラウラは大聖堂に戻り、そして正式に尼僧になるのだから。


長方形の墓穴の向こうに、黒いレースをふんだんに使った礼服姿のフォルテ・ギリアがいた。麗しい金色の髪と海のように青い目の、ラウラとは対照的に派手な容姿の若者である。


と、ぱちりと目が合って、二人は同じタイミングで瞬きをする。ラウラが人生で一番激しく憎んだ男がフォルテだったが、その原因であった母亡き今となっては憎しみも消え、いっそ盟友のような気さえする。


棺の頭のところにいる父をラウラは盗み見た。ゴドリア・クォート神聖皇帝とは名ばかりの小男である。髪は禿げあがり、目はうつろ。真っ白い手をぶるぶる震わせて王杓を握っている。いつも通り茫漠とした、どこを見ているかもわからない顔つきである。妻の死を嘆いているかどうかもわからない。華美な皇帝の礼服と、頭上に戴く宝冠の煌めきに飲み込まれてしまいそう。


歌が終わった。参列客たちは思い思いの仕草で白い薔薇を投げ、麗しきカティ・クォート神聖皇后との別れを惜しんだ。


ラウラは静かにその場を抜け出し、帰りの馬車が待っているはずの宮廷裏へ急いだ。挨拶を交わしたい相手もいなかったし、むしろ知り合いに見つかってあれこれ言われるのは願い下げだった。


「――待ちなよ」


大理石づくりの壮麗な宮殿の、日の当たる回廊。中庭の花壇には花が溢れんばかりに咲き誇り、真ん中の噴水は水を湛えて清らかに光る。何もかもが昔のままで、ただこれから登場人物が入れ替わる予感に震えているような、そんな空気の中。


フォルテは仁王立ちにラウラの進路をふさいだ。海の色の目は色濃く、緑がかって輝く。ラウラも負けじと顎を上げて睨み返す。


すたすたと近づいてきたフォルテにじりじりと廊下の隅に追い詰められる。一目につかない牧神の彫像の裏へラウラは追い込まれた。まるで牧羊犬に追われる羊のようだった。


「何か御用かしら、ギリア子爵?」

「ずいぶんなご挨拶だな」


フン、とフォルテは鼻を鳴らした。冴え冴えとした美貌、零れ落ちそうなほど大きく晴れやかな青い目は令嬢からメイドに至るまであらゆる娘たちの憧れの的である。そして彼こそが、母カティアに子供たちの誰よりも愛された青年だった。


母にけしかけられ、この美しい少年に飛びかかったのはいくつの時だっただろう。フォルテに勝てたらケーキをあげると言われて。膝にだっこして、頭を撫でてあげる。きらきらした釣り餌たちが、結局ラウラに与えられることはなかったけれど……。


あ、と気づいた時には間近にフォルテの青い目が、感情を抑えて白く光っている。


「次の皇后は愛人のメイだ。あの女、寝台で皇帝を屈服させ一足先に結婚証明書を手に入れたんだ。まだカティアの生きているうちに」


抑えた声が低く届いた。彼の肌はりんごの花の香りがする。ラウラは愕然とその美貌を見上げた。


「なんですって? あのラムネシアの小娘?」

フォルテは忌々し気に頷いた。


メイ・ララナンは皇帝の寵姫のひとりで、遠い南洋のラムネシア島から嫁いできたもっとも若い愛人だった。高飛車で酷薄でお洒落好き、そして浪費家。母亡き今、自我薄き神聖皇帝はメイの言いなりになるだろう。


「メイは君の母親を憎んでいた。そして僕はその母后カティアの元寵童、愛人と見做されてきたし、君は実の娘だ。僕らはきっと殺される――手を組まないか、ラウラ」


フォルテは神経質に金髪の先をいじくった。ラウラは動揺し、やたらに首を振った。簡素な麻織のヴェールごし、生まれ育った宮廷の景色がかすんで見える。


「わ、私はただの尼僧見習いで、このまま大聖堂に戻るのよ。一介の尼僧なんかに宮廷の華が何をするというの?」


「皇帝と皇后の第一子。その名誉ある称号をメイが羨まないと本当に思うのか? 彼女は自分以外の者が自分以上の何かを手に入れることを決して許さない。カティアそっくりだ。陛下はいつだってそういう女に惹かれ、手元に置きたがるんだ。自分にはない気質を持つ女を……」


死者を偲ぶ香の匂いがふわりふわりと漂っていた。灰白色の目には日差しが眩しく、ラウラは目がくらむ。


ラウラは母の葬式に参列すべきではなかった。宮廷から、いや大聖堂からさえも逃げるべきだった。師や仲間の尼僧見習いたちから背を向けて、過去の罪を償うことさえ忘れて消え去るべきだったのだ。そうでなければメイの悪意と不合理な復讐心から逃げることなどできなかっただろう。心のどこかではわかっていたはずだったのに。見当違いの方向に怒りと憎しみを向けていなくては生きられないような化け物が、この世には存在するということを。


「大聖堂は危険だ。メイの手の者が潜伏している可能性がある。いったん僕の屋敷に行って、隠れているんだ。僕らはあんまりにも後手に回りすぎた。まさかカティアがこんなに早く亡くなるとは思わなかったから。メイの動きは早すぎるくらいに早いだろう。その動きで皇帝陛下を虜にしたんだから――」


フォルテは真剣な表情で言葉を重ねた。ラウラは口を開閉させ、顔をそむける。りんごの香りと金色の髪の美しさにほだされそうになる自分が嫌だった。彼の美しさに身が千切れるほど憧れていたのはもう何年も前のことだったはずなのに、いざ目の前に美を投げ出されてみると見惚れずにはいられないのだった。


ラウラは残念ながら第一皇女の称号に見合う美しさを持たず生まれてきた。母はだから、私が憎いのだと思った。


「お願いだから畳みかけないで。少し、考えさせて。大聖堂には戻るわ、ひとまず。手紙を書いて。返事を出すから……」

「それじゃ遅いんだ!」

フォルテは押し殺した悲鳴を上げる。手を伸ばしてラウラの肩を掴んだ。


「メイが葬式に出てこなかったのは愛人の身分を恥じたわけじゃない。つわりだよ、だから動けないんだ。でもあの小娘の手先の者たちは違う。今も縦横無尽に暗躍していることだろう。君って人は、大聖堂に行って腑抜けたか? あんなに必死になって出家を父親に認めさせたときの猛々しさはどこへ消えた? 人を傷つけ狂人のふりをしてまで手に入れたヴェールと一緒に、宮廷を渡る嗅覚まで失ったのか!?」

「――やめてよ、やめて!」


ラウラは男の手を振り払った。ふわんと漂うりんごの香りと、葬式のお香が混ざり合う。


宮廷の北、歴代の皇帝と皇后が眠る墓地からざわめきが聞こえてきた。皇帝が正式に解散を宣言し、貴族たちが移動し始めたのだ。それは葬式というよりパーティーのおひらきを惜しむ声のようだった。楽し気で、陽気で。


ラウラの母カティアは金髪の美女だった。十四歳でゴドリア・クォート神聖皇帝に嫁ぎ、皇后となり、二十年で十五人の子を産んだ。そのうち半分は夫の種ではなかったと噂される。


カティアには不名誉な仇名があった――淫欲皇后。母は我が子より男を愛した。若く美しい男たちを侍らせ、あるときは少年のときから手元で育て成長を楽しむことさえした。フォルテはその一例だった。


一方、父ゴドリアは神経薄弱な男だった。おおよそ意志というものがなく、幼い頃から後ろ盾だった大聖堂の神殿長に成人してからもしがみついていた。彼は彼なりに妻となったカティアを愛したが、男としても皇帝としても、到底彼女を満足させられる器ではなかった。


カティアは次々に愛人を乗り換えた。皆、宮廷で重要な役職に就く大貴族の男たちだった。それが宮廷内の勢力図を一変させ、他国との国境を緊張させ、人が死に、多くの男女を泣かせることになった。


……ラウラは母の苦しみを思うことができない。そうしたいと願ったときもあった。けれど母はラウラを憎んでいた。娘の伸ばした手は常に叩き落された。


ラウラは世界がそのようなものだとは信じたくない。彼女はフォルテを睨みつけた。


「お母さまが死んだのよ。私はもう第一皇女じゃない。ただの尼僧なの。私が危険になるはずはない」


逃げれば。逃げ出すことさえできれば、安全なはずだ。そこには足を引っ張り合うだけの宮廷とは違った、新しい優しい世界が広がっているはずだ。そのように彼女は信じ、そして実際に逃げ出した。尼僧のゴワゴワした服は勝利の証だった。たとえ二度とシルクのドレスを見に纏えなくても、早朝の祈祷や深夜までの奉仕活動が心を慰めてくれた。


女子修道会は厳格な聖典のしきたりに基づいて運営されており、そこに私情が挟まれる隙間はなかった。……もちろん、肉欲も。それがラウラにとってどれほどの救いだったことか。


フォルテは傷ついた顔をした。かつて憎しみを媒介に、確かにつながっていた女の子がもうどこにもいないことを改めて知ったようだった。とうとう彼は首を左右に振りながら言った。


「わかった。くれぐれも気を付けて。すぐに手紙の返事をおくれよ。僕は――僕は、君と仲良くなんてなかったけれど。一緒にカティアの寵愛を競い合う仲になんて、なりたくてなったわけじゃなかったんだ」


ラウラはきょとんと美しい青年を見上げる。いつの間にか恐怖は麻痺していた。そうだとも、恐怖の根源は、もういないのだ。


「わかっているわよ。私たちふたりとも、お母さまの……」

被害者だった、と言おうとしたのだった。


激しい誰何の声と、槍の切っ先が二人の間に割り込んだ。あ、とラウラは思った、すべてが遅すぎたことを悟った。フォルテは凍り付いた。次の瞬間には二人とも、別々によって床に拘束されていた。背中に硬い膝当てがあたり、両手は背中に。自分の身体の上に兵士が乗っかって身じろぎもできないという経験は、知らなかったが非常に不愉快なものだった。


フォルテはわめいた。

「無礼者! 僕は子爵だぞ!」


声は凛々しくも無様にか細く、兵士たちの中から失笑が漏れる。

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