第2話
兵士たちは宮廷の警備兵だった。彼らをかき分けて近づいてくる人影がある。ラウラは息を飲み、間違いではないかと目を見張り、やがてふっと、身体じゅうから力が抜けた。負けたのだ。出遅れたのだ。まさかメイにここまで憎まれているだなんて思わなかった。宮廷ではちょっとした陰口が破滅につながる。わかっていたはずなのに、フォルテの言う通り嗅覚が鈍っていたらしい。
レースとフリルにまみれて着ぶくれして見えるほど着飾った、メイ・ララナンがそこにいた。亜麻色の髪をふわふわに逆立てた髪型にして、愛らしい美貌は紅潮し、大きすぎるほど大きな青い目はきらきら輝いている。
「こんにちは、お母さまを亡くされた方。こんなところでお悲しみになっていたの?」
兵士の手が伸びて、ラウラのヴェールを上げた。灰白色の目に差し込む日の光が眩しすぎて、咄嗟に目をつぶる。メイのきゃらきゃらとカン高い嘲笑が白亜の廊下に響いた。
「こんにちは、メイ様。ごきげんよう」
ラウラはか細い声で答えた。大聖堂の聖職者たちは他人の容貌をとやかく言わないよう厳しく戒律を守っている。だから忘れていた、自分の美しくもない顔がこうして白日の下に晒されるのは、こんなにもいやなものだったのだ。
ラウラは父に興味を持たれず母に憎まれてきたが、その原因の一つに彼女の容姿が両親のどちらにも似ていないことがあった。クォート皇家に黒髪はいなかったし、灰白色の目も、いったいどこのどうした血筋がもたらしたものやら見当もつかない。そして何より彼女の顔のつくりはあまりに凡庸で、皇女の衣装を着るのにふさわしくなかったのだ。
肩は緊張に強張り、骨は薄く硬かった。滑稽なことにフォルテ以上にぶるぶる震えているのが情けなかった。
メイ・ララナンとラウラの関係は、良くも悪くもなかった。ラウラが宮廷から退けば、メイは深追いしないだろうと彼女は考えていた。何もかもラウラの未熟さのせいだ。王宮に手勢を引き込めるほどの人脈、行動力、そして憎悪がメイに備わっているとは思わなかった。彼女を見くびった。甘っちょろい見通しが敗北を招いたのだ。
「つわりと聞きました。お身体は大事ありませんか」
メイの細い爪先の靴を見つめながらラウラは言った。黒髪が流れてきて顔にかかり、きっと今の自分はみっともない顔をしている。
「そうよ。あたくしに子ができたの。この子が次期皇帝になるの。淫欲皇后の息子ではなく!」
メイはちらっと流し目で美しいフォルテを見つめた。彼はラウラにだけわかるくらいに顔を歪ませた。望んでもいない相手に愛されてしまうのは、フォルテの生まれもった運命だとでもいうのだろうか。
……仲庭のさらに向こう、別棟の建物から複数の悲鳴が響く。轟音。地響き。ぱっと香る煙と炎の匂いさえした。ああ。ラウラは痙攣じみて震えた。
クォート皇国宮廷には大小さまざまな離宮があり、皇帝の子供たちはそれぞれがひと棟を与えられ、使用人によって育てられる。文字通り住むところが違った弟妹たちと、家族としての絆はなかった。そうした意味でいえばフォルテの方が市井で育ったきょうだいに近かった。彼の母親はラウラの乳母だったので。
けれど。それほど愛着があるわけではなかった、けれど。確かに弟妹たちはラウラと父母を同じくする血族だった。
「私のきょうだいを殺したのね」
ラウラは首をのけぞらせメイを見つめた。灰白色の目には絶望が浮かんでいたのだろうか、それとも憎悪が? メイは肩をすくめる。クスクスと嬉しそうに笑い転げ、種明かしのように両手を広げた。
「そうなの? あたくし、知ぃらなーい。でもうちのお父さまなら知ってるかもね?」
「馬鹿なことを……」
「未来の皇帝の母親に馬鹿ですって? 許せない! 殺してやるわ」
メイの顔はますます勝ち誇り、下腹を突き出した。ラムネシアの方言でひどい侮蔑の言葉をさらりと吐いた。
小さなラムネシア島を統治する国王が、金髪の美しい王女を人質として嫁がせてきたのはほんの五年前のことだ。その頃ラウラはとにかく一刻も早く宮廷を出たくて出たくてたまらなかった。あの時、置き土産に何か手を打っていたら今の状況はどこかが違っていたかもしれない。ラムネシアの小ささに侮りを抱かなければ。メイの皇帝に対する影響力をみくびっていなければ。
もぞもぞ、メイの後ろに蠢く白い影があった。ラウラは絶句した。それは父だった。彼にこんな場面に顔を出す勇気があるなんて。
のっぺりした青白い顔。生気のない表情は長い間皇帝位を狙う暗殺者に就け狙われたせい、おどおどした小娘のような仕草はその母親を含む女たちに裏切られ続けたせい。皇帝と呼ぶにはふさわしくない、背の小さな凡庸な男である。
メイのほっそりした指が父の二の腕に絡んだ。幼いといっていいほど若いラムネシアの王女の、年老いた猫のような笑み。してやったり、と目が言う。
「父上……」
ラウラは絶望に喘いだ。父が味方してくれることはないと分かっていた。いつだってそうだった。彼はその場の雰囲気に左右される。その場でもっとも声の大きい者の言いなりになる。
「おま、おまえ、おまえはあ――」
か細い声で皇帝は娘を指さした、ほっそりした深爪の指か光線が出て、ラウラの心臓を射貫くよう。
「よ、よ、よ、余の命を狙ったな? 狙ったのだな? 娘なのに。余の娘であるのに、余を……」
「お待ちください皇帝陛下! 決してそのような事実はありません!」
ラウラが声を張り上げても、メイのキャハーッと楽しそうな笑い声にかき消されてしまう。兵士たちはぴくりともしない。ただ静かに、淫欲皇后の娘の一人が破滅していくさまを眺めるばかり。
「罪状はあ、余の、余の暗殺を試みた罪である。う。そうだったのよな。そうだったのだ。余は実の娘にさえ命を狙われた皇帝なのだ。うぅ」
「ああん、なんてカワイソな皇帝陛下。娘なんてこれからメイがいくらでも産んであげますわ」
崩れ落ちる父、それにしなだれかかる若い愛人。悪夢のようだった。助けはこなかった。
――きっと殺される。監獄に捕らえられ、斬首されるまでを待つのだ。ラウラは灰白色の目を閉じた。
「罰は、罰は、追放とする!」
目を開けた。
汗みずくの小男はおどおどとラウラを覗き込んだ。まるで彼女が今すぐ兵士たちの拘束を振り払い、殴りかかってくるのを心配しているようだった。
メイが明らかに不服そうに皇帝の腕をぱっと放したのが見える。フォルテが細い安堵とともにくたりと力を抜く。
殺されないとは予想外のことすぎた。クォート皇国は疑わしい敵をすべて抹殺することで大国へとなり上がった。たとえば悪口を言う、睨みつける、敵対する派閥に入るといったほんの些細なことで暗殺されるのが貴族の常だった。
父は肩で息をしながら幼女のようにすすり泣いた。その脇からするすると官服の裾を引きずって進み出てきたのは、何度か見たことがある父の書記官である。痩せた男は抑揚のない声で告げた。
いわく、罪への罰としてラウラを皇籍から追放する。皇族と名乗ることを禁ずる。許しなく宮廷に戻ってくることを禁ずる。及び、戻ろうとすることを禁ずる。その試みは、すべからくクォート皇国への反逆行為とみなされる。
そして、と役人は声を張り上げる。
「また、魔法を剥奪する。魔力を失うことを受け入れることを命ずる」
魔力のあるなしが貴族と平民を分け隔てる。貴族身分に生まれたすべての人間にとって、魔法が使えるということは誇りそのものだった。魔力は血統に宿る。この世で魔法を使えるのは貴族だけだ。魔法が使える者こそが人の上に立つ者であり、平民と貴族を隔てる何よりの証拠だった。
それすら剥奪される? ラウラはこんなときなのにほのかに微笑んだ。
(私をどこまでも貶めたいのか、そこまでするか)
と思ったのだった。
並みの令嬢であれば死んだ方がましだと思ったに違いない。けれどラウラはそうではなかった。泥を啜ってでも生きるのだと、ずっと前に彼女は決めていた。
書記官が下がると、再び進み出てきたのは宮廷魔法使いだった。期待に大きな目を丸くしたメイが、つま先立ちになる。フォルテが声もなく首を左右に振る。父は微動だにしない。丸くなって禿げた頭を掻き毟っている。宝冠が今にも落ちそうだった。エメラルドにトパーズに、飾りの宝石のきらめきばかりが印象に残る。
お話に出てくる魔法使いそのもののような男の枯れた手が、ラウラの額に触れた。突き刺すような魔力が体内へ侵入してくる。ラウラは濁音の悲鳴を上げたが、その場にいる誰もが表情を動かすことはない。魔法使いのローブの袖はハーブの香りがした。
冷たい魔力に浸食され、押さえつけられ、体内の魔力が逆流して脳味噌が膨れ上がった、気がした。耳の奥でゴウゴウと血の音がする。生まれたときからあったものが容赦なく引き剥がされていく。手足の一部が切り落とされたとしても、これ以上に痛むことはあるまい。
第一皇女だった女が崩れ落ちると同時に、フォルテ・ギリア子爵へ謹慎の沙汰が下った。皇帝は頷き、それは決定事項となった。皇后の後ろ盾を失い、金髪の美しい男は二度と貴族社会で浮かび上がれないだろう。だがカティアの死によって生まれた騒動の中で、彼は格別に運がよかった。
十四歳で至高の座に上り詰めた淫欲皇后カティア。渦巻く金髪、豊満な身体、クォートの薔薇と呼ばれた美女がその座にあった二十年で産んだ十五人の子のうち、暗殺を免れたのは第一皇女しかいなかった。そしてそのただ一人の娘だけが、麗しきカティアの生きた証となった。
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