第3話


ラウラは目を開けた。飛び込んできた天蓋がいつもと違うことに首を傾げ、ああ、と思い出す。


母が死んだのだった。そして外から爆発音がして、おそらく弟妹たちも死んだ。まだ実感が薄かった。解放感と、喪失感と、罪悪感。全部が薄い膜の向こう側にあるようだった。


父の猜疑心が自分に向けられることは初めてではなかった。父は常に自分以外のありとあらゆるものを疑い、時には自分自身の記憶さえ魔法使いに植え付けられたのではないかと言って怯えていたから。一番悪いのは自分だ。メイが皇帝の猜疑心を煽るだろうと分からなかった自分。


身を起こしたかったが、衰弱が激しく指一本動かせなかった。虚脱感に包まれたままガラスごしに見上げる先に、鳥が飛んでいる。太陽が逆光になってよく見えない。ここはどこだろう?


もっとよく見ようと目をすがめた、次の瞬間にはもう夜だった。意識の混濁と、時間が飛び飛びに感じられる深い眠り……。


ラウラは眠り続けた。夢うつつに、心臓の隣に存在するはずの魔力嚢が潰されているのを発見した。彼女の中に会った不可視の世界に触るすべは失われた。失ったもののために彼女は声もなく泣いた。そして、まだ生きていることに無上の喜びを覚えた。死んでしまいたかったが生きているのが嬉しかった。


次に目を開けたとき、枕元で低い声がするのを聞いた。呻き声に反応して枕元のカーテンが開かれ、少女のような尼僧が顔を出す。右の頬に赤く走った古傷がまだ、生々しい。


「ラウラニア様」


「タラ……」


ラウラは目を見開く。尼僧の頭巾の下でタラはいたずらっぽく微笑み、人差し指を立てた。くるくるした赤毛に緑の目。メイより目は小さいが、何倍も愛くるしい彼女のことを、ラウラはずっと気にかけていた。


タラはここが大聖堂の貴賓室であること、気絶しているうちに還俗措置を受けたラウラはもはや何者でもない、貴族でも尼僧でもない平民になったのだということを、潜めた声で教えてくれた。


ラウラは目を閉じ、そして開いたときにはいったん自分のことを脇へ追いやった。


「傷、やっぱり目立つわね。ごめんね。せっかく身を捧げてくれたのに、全部無駄だったわ」


まだうまく上がらない手を差し出して許しを請う元皇女に、その元侍女はしっかりと目を合わせて頷く。


「いいえ、姫様。これは私が、私たちが望んだことでした。おかげ様で私は今、とても幸福なんです。望んだ通りの未来を手に入れたのですから」


タラ・ディアサは没落した伯爵家の長女だった。ラウラの侍女になったのは、お互いが十二歳のとき。フォルテを除けばあの宮廷で一番親しい仲だったと言える。


タラの望みは潰れかけの生家の復興だった。病床の父、慎ましく薄幸の母、たくさんの弟妹と、貧乏。貧乏を除けばラウラに似た境遇なのに、タラは何もかもが皇女と違っていた。タラの家族は仲が良かったのだ。羨ましかったし、憧れた。話を持ち掛けたのはラウラの方からだった。


あなたは手柄がほしい。私は宮廷から逃げたい。ねえ、大人たちを、騙してみない……?


第一皇女からそんな話をもらっては、応えないという選択肢はない。今ならあれが強要だったとわかる。だが当時のラウラには愚かにもわからなかった。出会って三年後、十五歳だった。


春の夜だった。寝室に二人きりになり、ラウラは果物の皮を剥く小刀でタラの顔を傷つけた。だらだらと血を流しながらタラは絨毯にぺたんと座り、ラウラは誰にでもわかるよう血に濡れた刃物を胸の前で構えた姿勢になって、互いに目を見かわし、うんと頷いた。タラは絶叫し、走り込んできた侍従はラウラを丁重に取り押さえた。


第一皇女の醜聞は速やかに外に漏れることなく処理され、そしてラウラは大聖堂で厳重な監視下に置かれることになった。タラの家族には過分なほどの見舞金が。タラ本人には終生年金が贈られた。彼女は口封じのため尼僧にされてしまったけれど、本人は心から満足しているように、ラウラには見えた。


十五歳のあの件以来、顔を合わせるのは初めてである。


「あなたがどこにいたのかもわからなかったわ。どうして大聖堂にいるの?」


「ごめんなさい。言えないんです。何も」


タラは首を横に振り、それからますます声を潜めて教えてくれた。


「姫様のお世話が終わったら、一番下の弟を幼年学校へ入れてくれるんですって。正直言って、願ったりなんです」


「そう。あなたが納得しているなら、いいけど。くれぐれも気を付けて。貴族は末端を切り捨てることに躊躇わないわ」


「心得てます。目隠しされてここに連れてこられました。また目隠しされて、元いたところに戻りますよ」


二人は微笑みあった。何もかもが敵の手のひらの上だったが、それでも会えたことは嬉しかった。


ラウラの回復までの期間は、思った以上に楽しいものとなった。大聖堂の鐘の音が聞こえる中で、礼拝にも出ず掃除も洗濯も病人の世話もしなくていいというのは妙な心地だった。ラウラが尼僧であったのは結局たったの四年ほどに過ぎないのに、思った以上に修道会の規律に馴染んでいたらしい。


「やっぱりお母さまのお葬式なんて、出なければよかった」


「しぃっ。お控えになって。きっと……神は親への忠義を通した姫様を見てらっしゃいますよ」


なんて、決して言えない心の内をこぼしたりも、相手がタラだからできるのだった。心は十五歳に戻ったようだった。おそらく現実逃避なのだろう。タラはあの頃と変わらず、家族の話をしてくれた。幸せなこと、楽しいこと、絆を感じさせる話を。ラウラは微笑んでそんな話を聞いて、こっそりタラの家族の中に生まれた自分の人生を想像する。笑いながら眠って、目が覚めたら本当にそうなっていてくれと願う。


潰れてひしゃげた魔力嚢の残骸が、血流に押し流されて身体の中に消えたのは三週間後のことだった。予告なくやってきたのは尼僧たちを束ねる尼僧長だった。貴賓室の厚い絨毯をいかにも踏み慣れないように踏みしめて、老女はクォート皇家の封蝋のついた手紙をラウラに差し出した。


「……拝見します」


ラウラは手紙に目を通す。ああ、と思った。


第一皇女を完全に亡き者にすることはできないだろうと分かっていた。どんなに狂った皇族でもその血の尊さは決して変わらないからだ。皇家の体面上、どこかに追放されそこで暗殺されるか。あるいは、もう一つの方法を取られるかのどちらかだろうと。


「ユルカイア辺境伯領とはね。よく考えたものです」


タラの鋭い息の音だけが部屋に響いた。尼僧長は重々しく頷くと皺がれた声で呟くように、


「あなたのお父上は正統なるクォート皇国の皇帝陛下。お母上は旧ローデアリア王国の女王陛下であらせられました。これほど高貴なる御方の血ともなれば、人類がどうこうできるものではございません」


「だから追放するのね? 私が二度と戻ってこられない場所へ」


「左様でございます。田舎の空気はあなたの曲がった考えを清めましょう。そして御身に流れる尊き血は、ドラゴン混ざりの辺境伯の血によって永遠に汚されるのです。唯一なる皇帝陛下のお命を狙われた代償としてこれ以上の罰がありましょうや?」


ラウラはもはや言葉もなかった。元皇女のしたことは、目を閉じて深呼吸し、両手をぎゅっと握りしめることだけだった。


室内に流れる緊張がいささかにほぐれた頃、ラウラは目を開き、灰白色の目を和ませて告げた。


「わかりました。納得はできないけれど、従うより他ありませんね」

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