第4話



修道長は見習いとなったラウラを特別扱いしなかった。もてなすことも、蔑むことも。ただ周りの普通の少女たちと同じ扱いにしてくれた。まず井戸で水を汲むことから。その水で薬草を育てること、料理をすること。羊の毛から糸を紡ぎ布を織ること。人が生きる上で欠かせないすべてのことが修行であることを説き、そのやり方を教えてくれた。ラウラはこの老女が好きだった。彼女が立ち去ると部屋の中には沈黙が満ちた。


グティエル・エンバレク。ラウラでも彼の名前だけは知っていた。ユルカイア辺境伯家の跡取り息子で、貴族でありながら宮廷に一度も顔を出したことのない変わり者。その理由は彼の血みどろの出生譚にある。どんなに困窮した令嬢だって彼に嫁ぐのだけは拒否するだろう、そのくらいいわくのある家系の男だった。彼の血を受けた子供はクォート皇女の血統を汚し、その名誉を永遠に彼女から剥奪するだろう。


それでも、とラウラは思った。死んだことさえまだ受け止めかねる弟妹たちの顔、父の茫然自失とした生き方、メイの高笑いが脳裏を駆け抜けていく。


出発の日は一週間後だった。たったの。皇女にふさわしい扱い、つまりたくさんの嫁入り道具や侍女たちなどは望めない。馬車が手配され、花嫁衣裳はなく、数枚の古着の着替えと道中の食糧だけが渡される。護衛ということで聖堂騎士団から数名の騎士が派遣されたが、彼らが見張りであることは明白だった。


出発は早朝となった。朝の祈りの鐘の音が鳴りやみ、神官たち、僧と尼僧たちの祈りの歌の合唱が響く。期待と不安のせいだろう、空気は甘い味がした。奇しくも季節は春だった。タラの頬に残った傷跡をラウラはなぞった。


「タラ、元気でね。ご家族ともどもいつまでも健康でありますように」


「姫様! ラウラニア様。あの、あのね。私はあなたにお会いできて光栄でした」


馬車の手前で彼女たちはぎゅっと抱き合った。もう二度と会うことはないだろうという予感が二人ともにあったし、それは事実だった。


タラは最後にラウラに組紐をくれた。キラキラ光る黒と赤の紐を組み合わせた綺麗な飾りだった。手首に巻く、ちょっとしたお守りだ。持ち主の身に危機が訪れたとき、この紐が身代わりに切れてくれるのだという。


侍女だったときのタラはそれは心優しく控えめで、いい子だったがどこか遠慮するところがあった。ラウラがもはや皇女ではなくなってやっと、まるで対等のように贈り物をもらえた。彼女はそれがたまらなく嬉しかった。


「ありがとう。ありがとう。大事にするわ」


誰かからもらう、打算も体裁もない本当の贈り物。ラウラは右の手首に大切なそれをしっかりと結わえつける。


クォート皇国の紋章である絡み合った二頭の竜の紋章を戴く馬車。壮麗な外見だったが中にはクッションのひとつもなく、やれやれとラウラは苦笑いした。誰かの悪意を感じた気がしたのだった、主にメイの。大聖堂も宮殿も見ようと思えば振り返ることができたが、彼女はそうしなかった。馬車のガラス窓に手を当てて、タラの姿をずっと追った。人生で一番最初の友達だった。


そして一行は出発した。騎士たちが一定の感覚で馬車を取り囲んだ。鎧のこすれる金属音、車輪の回る音。馬のため息。タラが手を振るので、ラウラも同じく振り返す。あの宮廷で彼女のような侍女を得ることができて、皇女としてのラウラは幸運だった。まだ言いたいことがたくさんあった気もしたし、いざ向き合ったら何も言えなくなるのもわかっていた。


馬車は人通りのない大通りを進むと、右に左に都の裏道を進んだ。がたごととひどい揺れがあり、ラウラは腕を突っ張って衝突を防いだ。ずいぶんな悪路である。まるで時間稼ぎをしているうだった。


ユルカイアは北の果て、吹雪と古い伝説がまだ息づく土地だ。そこにいるのはどんな人たちだろう。ラウラは受け入れられるだろうか? 長い間、クォート皇国に見捨てられた土地の人々が、元第一皇女を友人、主の妻と認めるだろうか?


ユルカイアがあるのは人間の領域の最北端だった。魔物と人間の世界がぶつかる境界線。極寒の地、文明の行き詰まりの未開の地である。かの地は常に魔物の略奪の危険に晒されていた。耕作地は極端に少ないため主な産業は鉱山の採掘だが、近年は魔石や宝石の産出量が減り魔物との抗争も激しいと聞く。


グティエルがいるのは延々と続く戦争の最中であり、彼は戦うことで生きている男だった。ラウラが見たこともないほど荒々しい人に違いない――彼は彼女を愛してくれるだろうか? それとも憎むのだろうか。母が多くの男たちにそうされたように。


道が平坦に戻った。ラウラは肩の力を抜いた。どうやら馬車は森の中を走っているようだった。都から一番近い森といえば、禁猟地である皇家の森だ。父はまったく猟に出ない皇帝だから、今では鹿と猪の楽園だと聞く。そんなところを行って大丈夫だろうか。道は合っていても危険では?


御者に聞こうか、逡巡した。ラウラは顔を上げた。嗅ぎ慣れない悪臭が、森と土の香りを圧倒してにおった。震える手で車窓にかかったカーテンを開けた。馬たちは御者の言う通り、大人しくそこをゆっくりゆっくり通っているところだった。


森の下草の生えた道の脇に、街の家くらいのかたまりがあって、そこから赤い色が流れている。血の臭いがする。涼しい道だというのに早くも寄ってきたハエの羽音が、した。


ラウラは絶叫した。馬車と同じくらいの大きさの山のてっぺんにタラの身体があった。ラウラのつけた頬の傷はもうほとんどわからない、顔色と同じ白さだから。首にぱっくりと切り傷があって、骨が見えていた。その下にいるのは彼女の父母だろうか? まだ小さい、子供の死体がたくさん。弟妹がいっぱいいるとタラは教えてくれた、はにかみながら……。


「止まって! 下して! 止まるのよ、早くッ! そうなさい、聞こえないの!」


ラウラは馬車の壁を滅多打ちに拳で叩いたが、御者に反応はなかった。


いつの間にか周囲に複数の馬蹄の音がする。鎧姿の騎士たちは素知らぬ顔で馬を進ませる。神に仕え聖堂の義を世に伝え、正義を為す宿命など知らないかのように。すぐそこにある無実の家族の死体の山など見えていないかのように。


「あああああああああ!!」


両手で自分の腿を叩き、叩き、ラウラは慟哭した。すでに死体の山を無感動に通り過ぎ、行く先はより深い森の奥。目の奥に焼き付いたものはもう消せない。


森を抜け、北部へ続く街道に入ったらあとは一直線にユルカイア・シャドへ向かうだけだ。夫が待っている。ラウラが花嫁だ。


「タラ! タラ!」


ラウラは侍女だった同い年の女のために泣いた。騎士はひたすら前を向いて馬を駆る。御者も無表情で馬車を進ませ、土煙が舞って隙間風がカーテンを揺らす。


ユルカイアの地についた一行は元皇女だけを置いて早々にそこを離れることになる。呪われた土地、魔物が跋扈する土地、皇国にない方がいい土地。


ラウラのような者を捨て置くためだけに存在する竜に見捨てられた土地。


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