第5話


かつて人間と魔王が戦っていた頃、ユルカイア一帯は魔王と戦う連合軍のための最前線の街だった。魔王が斃れると、魔物の残党の掃討戦争をユルカイア辺境伯家が担当した。平和が訪れるにつれて、そこにあった経済活動は失われた。ユルカイア辺境伯家は私財を投じて新たな鉱山を開発したが、ゆるやかな衰退に歯止めは効かなかった。大きな原因は二つある。魔石の鉱脈が枯れかけていたこと。そしてクォート皇国全体における魔石の需要が急減したことだった。


魔力を持った貴重な魔石さえあれば、貴族ではない平民でも一度か二度は魔法が使える。かつての人魔戦乱の時代、旅人は必ず魔石をひとつ携帯していたという。魔石に呪文を刻み込む専門の職人がいたほど、その需要は大きかった。しかし使用限界を超えた魔石は崩れ、割れて使用不可能になる。その速度は産出量より早かった。人と魔物が戦った時代なのだから。


平和な時代になっても魔石は旅人の相棒だった、だがあるとき大聖堂の研究部門が特殊な結界術を開発した。大聖堂を中心に皇国全体に結界を張ることができる、強力な魔法だった。結界は聖なる神の力。結界の中に魔なるものどもは入ってこられない。


これにより聖職者の権威は上昇し、人々は当然、危険な旅に出ることなく結界の中で生活することを選択した。出没する魔物に怯えて暮らさずとも、いちいち魔物を討伐しなくても、安全なところで生涯を終えればいいのだ!


こうして魔石の時代は終わりを告げ、ユルカイア辺境伯領は落ちぶれた。多くの領民が結界の中に逃げ出したが、砂漠の民や密林の民など少数部族民たちがそうであるように、ユルカイアに残った人々もいた。彼らは残り少ない魔石を中心に結界を張り、ほころびたところに新しい魔石を補いながらほそぼそと暮らしているという。


そんな生活にとうとう精神をやられてしまったのだろうか。二十年前、ユルカイア辺境伯は突然錯乱し、後継者を指名できないまま行方不明となった。自分たちの所有する鉱山に入り込み、縦横無尽の坑道で迷ったのだろうと言われている。


彼の遺された唯一の息子は父親を探して漆黒の闇が広がる坑道に入った。そしてそこを日夜走り回り、とうとう狂って死んだという。


使用人たちの嘆願により、辺境伯家に赤ん坊が残されているということが発覚したのはそれから数年後のことだった。清らかなる貴族たちは当たり前にその血塗られた男の子を軽蔑した。片田舎の、親なしの、魔物と渡り合うおぞましい戦士で、時代遅れの魔石にしがみつく頭の固い辺境伯家の子供!


だが爵位は保たれた。男の子は貴族の親ではなく使用人たちによって育てられ、名の知れた剣豪になった。時代遅れの。魔石と魔法を使う、魔物相手の悲惨で野蛮な剣士。


ラウラは上を見上げた。蜘蛛の巣が張った古ぼけたシャンデリアがこちらを見下ろした。残念ながら彼には家の内装に気を配る余裕はないようだった。


ユルカイアに到着した一行は辺境伯家の居城に向かった。それは城というよりは半壊した砦と言った方がいい石組みの古い建物で、雑草が生い茂った正面の車寄せと焼け焦げたあとのある正面玄関、それからいかにも客人に慣れていない使用人たちを抱えていた。


出迎えてくれた執事だという老人こそ宮仕えの経験がありそうだったが、メイドの小娘たちなどは何をすればいいのかわからずぽかんとするばかりだった。


古びた城の中で一行は分裂した。そのまま帰っていく馬車の御者と馬たち。二階に上がるラウラ。そして聖堂騎士団の騎士たちは応接間へ。彼らにはもっとも大切なラウラの結婚契約書を夫となる人物に手渡す役目があった。


ここもまた応接間だという一室だった。通されたのは朝のうちだったが、そろそろ昼時である。真四角の部屋で背の低いテーブルを前にソファに腰かけ、窓辺に揺れるカーテンを眺めるうちに時は過ぎた。飾り棚にもマントルピースにも何一つ飾りらしい飾りはない。辺境伯家が困窮のうちに終わったという噂はどうやら真実のようだった。


今度は足元を見下ろして、ラウラは毛足の痩せた絨毯を踏んでみる。少なくとも宮殿では目にすることのないくたびれ具合だった。だが大聖堂の尼僧見習いの雑魚寝部屋には絨毯さえなかった。ありとあらゆる噂話に花咲く深夜のあの部屋を思い出し、彼女はうっすら微笑んだ。


扉が開いたのはそのときだった。ラウラはそちらを振り向き、立ち上がった。


大きな男、というのが第一印象だった。非常に背が高く、身体の厚みもある。いかにも武人らしいがっしりと筋肉が詰まった身体つき、荒れた肌。シャンデリアの一番下のクリスタルに頭髪がこすれそう。鎧を脱いだばかりですというシャツとズボンだけの姿で、焦げ茶色の髪の毛がほんのり湿っている。


大きな男は彼女の横でぴたりと足を止めた。ラウラは礼儀正しくヴェールを後ろに取った。


「エルフの花嫁が来ると聞いたが」

思っていたより若い声だった。鋭い輪郭の顎を擦り、はて、と彼は首を傾げる。


「耳が尖っていない。それに、まるで喪服みたいな恰好だ。俺は担がれたのかな?」

「いいえ」


ラウラは慌ててかぶりを振りった。

「貴族というのはエルフ族なんだろう?」


「確かに貴族はエルフの血が濃いですが……歴史と共に人間と混血が進みましたので。今は耳の尖った者はほとんどおりません」

「ふうん」


彼はラウラの正面まで進み、そして彼女の顔を見て動きを止めた。ぎこちなく顔を背ける男の落胆は明らかで、ラウラの胸に鈍い悲しみが走った。それは苦い思い出たちを連れてきた。確かにちっとも美しくなかった。目は小さく、髪は黒く、肌は白かったが身体は痩せて貧相である。そのせいで被ったあれこれのことに意識がいくより先に、男は話し始めた。


「俺はグティエル・エンバレク。ユルカイア辺境伯領の長ということになっている。ラウラニア・ローデアリア・クォートで間違いないな?」

「はい」

「それでは俺たちは今日限りで夫婦になるわけだ」


彼のまだ感情を隠すのが上手くない若い顔に苦みが走った。彼は黒い目をすがめてガシガシ髪の毛をかき回した。沈黙が落ちた。彼は気を取り直したように肩をすくめた。


「護衛の騎士たちはちょうど先ほどお帰りになった。最後にお前に挨拶するかと聞いたら、姫君はすでにお覚悟を決めておられますと言っていた」


ハハ、とグティエル・エンバレクは乾いた声で笑う。彼はラウラの向かいのソファにどさりと腰かけて足を組んだ。身体の大きさに見合わない山猫のように優美な動きだった。


「まあ、覚悟を決めなければ来られないような土地だものな、ユルカイアは。――座れ」


「失礼いたします」


ラウラはソファに腰かけながら乱れ毛を直すふりして顔を隠した。内心に膨れ上がる恐れを見ないふりする。夫となる人は立派な体躯の無骨な武人だった。そしてラウラはこれまでの人生で、武人とうまくいった試しがなかった。


「そう怖がらなくてもいい。取って食いはしないから」


にっこり笑うと男はますます山猫に似ている。すっきりと通った鼻筋と冷たい切れ長の目、がっしりした肩幅に太い手足は武人らしく筋肉の凹凸で盛り上がる。


「もう聞いていると思うが、お前を貰う代わりに俺たちも見返りを受け取った。皇帝の許可証を持った隊商がユルカイアに足を延ばしてくれる。正直言ってこれはありがたい。ここでは常に物資が不足しているから」


「はい」


ラウラは頷いた。自分の髪からいがらっぽい埃のにおいがする、そんなことばかり気がかりだ。


グティエル・エンバレクは薄い唇の端をきゅっと吊り上げる。貴族にしては荒々しいつくりの顔がきゅっと少年のような笑顔を浮かべた。宮廷の貴族たちは誰も彼もが大きな目をさらに大きく見せようと顎を引き、瞼を開いて喋るから、夫となった人の表情の豊かさにラウラは戸惑う。


「結婚契約は破棄できない。俺はお前を妻に迎えることに合意した。たとえこの結婚の目的が何だとしても、義務は義務だ。俺がそう考えていることをお前にも知っておいてもらいたい」


ラウラは男の目を見つめて深く頷いた。膝の上で組んだ手が震えた。


「お前がよい妻としてあろうとしてくれれば害することはない」


「はい」


彼の真意が読めなかった。伏魔殿の宮廷で育ち、他人の顔色を伺うすべはある程度身に着けたつもりだったが、彼のにこやかで人当たりのいい笑顔からは何の感情も読み取れない。目の形が貴族と違うからだろうか?


「そうなれるよう努めます。私は、あなたのお望み女になれるよう、精進いたします」


グティエルは眩しそうに眼をパチパチすると、組んだ足をほどいてラウラに手を差し出した。


「こちらこそよろしく、クォートの尊い姫君」


握手をするのは初めてのことだったが、つつがなくラウラはそれを終えた。北の地には奇妙な風習があるものだ、夫婦となったふたりが手を握り合うだなんて。


古い城の古い応接間。風は冷たく短い夏は足早に過ぎる。この結婚の終わりがどうなろうとも、どうか自分を責めたり彼を憎んだりしないですみますようにと、ラウラは願った。


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