第6話
案内された正妻の間だという部屋は古びていた。もちろんこの城に古びていないところなんてないのだろう。蜘蛛の巣や埃のかたまりは見当たらないが、絨毯もカーテンもタペストリーも干からびたように色が抜け落ちている。とくにタペストリーは、絵柄が読み取れないほどだ。
かび臭い部屋の真ん中でラウラは肩の力を抜いた。事前に窓が開け放たれていた。空気に湿っぽさはなく、他はともかく寝台の寝具とテーブルクロスは真新しい。使用人の誰かが部屋の世話をしてくれたのだ。
案内してくれたメイドはふっくらとした中年女性だった。足りないものはありますか、奥様。と聞かれるのは奇妙な感覚だった。その呼称で呼ばれることに慣れていなかった。
「いいえ、大丈夫です。ありがとう」
「それでは、私はこれで……」
そうして使用人が退出してしまうと、完全に一人である。ラウラは内心かなり驚き呆れているし、嬉しすぎて身震いしているのを認めざるを得ない。
――彼女はこれまでありとあらゆる空間で一人になったことがなかった。皇族とはそういうものであると周囲はいい、そういうものかと理解していた。
ラウラは寝台に近づき腰かけた。もちろん宮廷のそれには比べるべくもないが、柔らかい感触に安堵してぱたんと上半身を後ろに倒す。
グティエルはあくまで礼儀正しくラウラを見送った。内心を何も感じさせない朗らかな笑顔で。このあとのことは何も説明されなかった。クォート皇国において結婚式は必ず結婚契約のあとである。契約成立からふたりは夫婦とみなされるが、お披露目会である結婚式や近親縁者を招いてのちょっとした宴会などがその後一年は幾度となく催されるはずだった、ここが宮廷でグティエル・エンバレクが貴族であれば。その家の経済力を周囲に知らしめるために。
ラウラは両手で目元を揉んだ。ユルカイア辺境伯領の資産がいくらで実入りがどれほどのものなのか、彼女は知らなかった。どころか、グティエルの収入源さえ知らない。ドラゴンライダーで傭兵団を率いているというからには、魔物狩りや戦争をして生計を立てているのだろうか?
辺境伯の称号に付随するはずの実利、領地やそこからの収入を、グティエルは一つも受け取っていないはずである。魔力を持たない者の持つ爵位は基本的に名誉称号だからだ。ユルカイアにはこの結婚によって隊商というひとつの利益が付け加えられ、だがそれだけだ。ラウラがこれ以上の何かをユルカイアにもたらすことは、おそらくないだろう。
(思っていたのと違ったと言われても反論できないわ)
通常、皇女は国の威信にかけてあらゆる富を背負って嫁入りするはずなのだから。
疲れていた。こんなときに考え事をしてもどんどん悪いことが浮かぶだけだ。なるようになれ、と彼女は腹をくくった。
少なくともいきなり殺される気配はないようだし、夫となった男は気分次第で豹変して殴りかかってくる男には見えなかった。できることをするだけだ。上品で控えめで敬虔な貴婦人になりきるのだ。人に嫌われないように。味方を増やすのだ。けれど本心を曝け出してはならない。今度こそ……自分のせいで死んでしまう人間を出さないために。
人を不幸にするのはもういやだ、と強く思い、束の間、眠ってしまったらしい。揺り起こされて目が覚めた。
「奥様、奥様」
――奥様?
ラウラは跳ね起きた。見知らぬメイドの顔にパニックを起こしかけたが、なんとか平静を保つ。この部屋に案内してくれた人だった。
声もなく頷くラウラに、ふっくらした頬のメイドは優しく微笑みかける。
「驚かせてしまってごめんなさい、奥様。でも、そろそろ祝宴の時間でございます」
「祝宴?」
「はい。旦那様がご友人や騎士団の皆さまをお集めになって、奥様のお披露目会でございますよ」
「ああ、そう、だったの……」
(そういうのを催していただけるの)
と思ったことは口には出さない。窓の外に夕暮れが迫っていた。北の地はどうやら日が暮れるのも早いらしく、みるみるうちにあたりが暗くなっていく。
「お風呂と、お召し代えを」
「わかりました。お願いします――あなたの名前はなんというの?」
メイドはぱちぱちと驚いたように瞬きをすると、若い娘のように華やかに微笑む。目は小さいけれど優しさと正直さが満ち溢れた顔だった。
「これは失礼を。マヌエラと申します」
「これからよろしく、マヌエラ」
「はい、よろしくお願いいたします」
それからマヌエラが年若いメイドたちを指揮して行ったことはこうだった。少しばかり黄色のついた、刺激的な硫黄の香りのするお湯が運ばれてきてタライに貯められる。城の地下に温泉が湧くところがあるのだという。ラウラはそこで入浴し、長旅で疲弊した身体と髪を思う存分手入れしてもらった。
マヌエラが広げたのは古いドレスだった。奇跡的にカビのにおいは少ないが、おそらくラウラが生まれる前の流行の大きな襟がついている。がばりと空いた胸元と膨らんだスカート。袖は二の腕までたっぷりしているのが手首の裾できゅっと締められて優雅な曲線を描く。全体にちりばめられた小さな真珠のビーズはくすんでいたが、ランプの灯りに照らされて美しかった。
「こんな古いものしかなく、お怒りはごもっともです」
深々と礼をしてマヌエラは告げたが、ラウラは首を横に振った。尼僧服に慣れた身にはシルクというだけで素晴らしいし、そもそも夜会服の一枚も持ってこられなかったのが悪いのである。
「とても綺麗な服だと思います。私のために用意してくれてありがとう。着替えの補助を頼みます」
事実、そう思ったのだった。若いメイドたちは顔を見合わせ、マヌエラは微笑んだ。
ラウラはメイドたちの助けを借りてどうにか身づくろいを終えたが、古いドレスは保存のため糊がききすぎてゴワゴワしていたし、裾が長すぎて動きづらい。なかなか万全の装いというわけにはいかなかった。
それでもどうにか形にはなった。貴婦人としておかしくはない恰好である。ラウラはマヌエラに手を引かれて大広間に出向いた。
そこは天井の高い、古いがよく手入れのされた場所だった。元は礼拝堂だったのだろう、ドーム状の天井をしている。蝋燭のないシャンデリア、やはりほつれかけの絨毯。石畳は隙間を埋める漆喰が痩せて、気を付けていないと足を引っかけそうだった。
ざわざわと漂っていた人々の話し声が、ラウラが現れた途端ぴたりとやんだ。人々の目、目、目がラウラとその後ろのマヌエラの間をさまよい、途切れた声は低いどよめきとなって空気に残る。
呼び出しの侍従も案内の侍女もいないようだった。宮廷とは勝手が違うらしい。しんと沈黙が落ちた大広間は石すら押し黙ったようで、背中に冷たい汗が走った。
表向きラウラは辺境伯家に降嫁したクォート皇家の姫であるが、実際は皇帝暗殺を企てた謀反者であり犯罪者である。ユルカイア辺境伯は持て余された罪びとを押し付けられた被害者なのだということを、おそらくこの場にいる全員が知っている。
「ここだ、ここ」
平坦で抑揚のない、まるで人間味の感じられない声だった。それでもその声は救いだった。ラウラは弾かれたように前を向き、他の席より一段高いところに設えられた机と椅子を見た。グティエルはまさに今席に着きかけていたところ、ラウラにひらりと手を振ってあの山猫じみた笑顔を浮かべる。
「俺の隣に来い、花嫁」
ラウラは己の花婿の待つ席へ急いだ。他と同じように平たい細長い卓だがそこだけは石製である。彼の隣に座ると、金属と魔石と馬と皮のにおいがした。汗の匂いはせず、代わりに石鹸のあぶらの香りがする。ラウラは膝の上に手を置いた。グティエルは立ち上がった。大広間のすべての人間が自分の席や壁際に並んで彼を見上げている。ユルカイアの主はなんてことない噂話をする青年のように話だした。
「皆も知っての通り、中央から俺に花嫁が来た。あまりに長らく結婚せずにいたせいで、皇帝陛下に並々ならぬご心配をおかけしたようだ。あの禿頭に一役買ってしまったことに心痛めるばかりだな」
兵士を中心にドッと笑い声が湧いた。ラウラはただ目を丸くする。そこにあったのは想像以上の憎悪だった。
父が悪口叩かれるのはもうしょうがない。だって彼は本当に君主としてちっとも働かないのだ。ただこの辺境の地にこれほどクォート皇国への悪意が満ちていて、自分がその渦中に放り込まれたのだということが、まだ信じられないのだった。
「花嫁は色々と不慣れだろうからよくしてやるように。すでに契約は済ませた。僧侶殿が証人だから気になる者は自分で聞け。生まれがどうであれ、一度我が家の敷居を跨ぎ花嫁と認められた女であるからには、彼女が相応に扱われることを俺は望む」
笑い声が収まると彼は続けた。言葉は優しかったがラウラの方をちらとも見ない。とげとげしい空気が石の卓の上を渦巻くようで、彼女はひたすら俯かないように遠くを見る。顔を伏せたら負けだった。一度負けたら延々負け続けるのがこういう戦の常だった。
「宴が済んだら早めに冬支度に入って欲しい。今年の冬は早いぞ」
――若殿がそういうならそうなんでしょう。と低い声が飛んだ。そうだ、と追随する声もある。
「以上。食事に入れ」
彼は金属のカップを掲げて中身を飲み干した。一段下で人々が同じように杯を干すのを見て、どうやらそれが男だけの礼儀ではなく老若男女に共通の仕草なのを見て、ラウラも慌ててまねをする。
途端、大広間には笑いと会話が弾けた。年若いメイドたちが酒と皿を配り、道化役の笛と太鼓が音楽を奏でる。料理の立てる湯気と匂い、暖炉の熱、開けられた酒樽の景気のいい泡の音、石畳を走る革靴の音、暖かさとさまざまな匂いに頭がくらくらした。
ラウラは目の前の料理を見つめた。その皿を運んできてくれたのは十五、六歳の可愛らしいメイドだった。目は縦長というほどではないが大きく、猫のような吊り目で愛らしい。
「ありがとう」
と言って頷くと、彼女は大げさに大きな目を見開き、燕のように俊敏に身を翻した。
気づくとグティエルが皿にも手をつけず、身体を斜めにしてラウラを見つめていた。黒曜石のような黒い目が背後の暖炉の火を受けてチカチカ光っていることを、ラウラの色素の薄い目は見つけた。
「その、何か?」
「じきに冬が来る。辺境の冬は厳しい」
彼は考えながら話していた。
「花嫁には城内の支度の監督を頼みたいが、できるだろうか?」
「わかりました。全力を尽くします」
「全力、ね」
あの本心を悟らせない山猫の笑みを彼は浮かべ、
「我々は一度受け入れたものを放り出すようなことはしないから、そこは安心してくれていい。お前が裏で陰謀を企もうが間諜を飼おうが関係ない。が、――クォートに戦争をふっかけるなら俺たちも噛ませろよ? 中央に言いたいことがあるのはユルカイアも同じだ」
「いいえ。決してそんなことはありません」
ラウラは早口に言った。目の前で小蕪と牛肉のグリルの皿が冷めていった。彼女は無意識に右の親指で銀のフォークを撫でた。
「私にはそんな大それたことは計画できません」
「どうだか。あの皇后の娘だ。信用はできん」
一人ごとのように言い終えると、グティエルは立ち上がる。
「俺が許すのはあくまでお前がお前の裁量内で弁えている部分だけだということを、決して忘れるな」
ラウラは頷いたが、彼はそれを見ていなかった。数段の階段を降り、夫は配下たちの歓談の輪の中へ飛び込んでいってしまった。ラウラは唇を噛んだ。悲しくはなかったが悔しかった。今日は……初夜があるはずの日だ。これは結婚の宴だ。夫はまるで彼女の面子に頓着していなかった。ということは、きっとこれからもこういう扱いが続くわけだ。
誰からも見下していい存在として扱われることの屈辱が、これからもずっと続くのだ。
だが、いったいラウラに何ができるだろう? 味方はいない。持参金の額面さえ知らず、法律上すでにそれは夫のもの。自由に使える金がなければ間諜を飼うなど到底できないことを、彼が知らないはずはないのに。
ラウラは礼儀として皿の中身に手をつけたが、味はわからなかった。地獄から逃げ出そうとして、別の地獄に飛び込んでしまった、と思った。タラの死に顔が常に額の上に浮かんでいて、瞬きするたびに脳裏に飛び込んでくる。
人がこっちを見ては笑っているのがわかった。視線を感じるたびに魔力嚢の残りが痛かった。
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