第8話



すぐに後悔した。心底。


最初は平坦な道だったのに、すぐさま急降下とでもいうべき坂が現れ、ずり、と足が滑った。そしてラウラはそこをお尻で滑り落ちたのである。


「――!」


悲鳴も出せなかった。というか、喉を使えなかった。ユルカイアに来てから笑ったり必要以上のことを喋った覚えもないから。ありがとう。ええ、そうしてください。いいえ、そうしないでください。お願いします。それ以外のことにメイドたちは反応せず、男たちはそもそもラウラをないものとして扱った。


……まあ、そんなことはどうでもいい。意識を飛ばしている暇はない。


スカートが破れかけるほどの勢いで彼女は転がり、とうとう止まったときにはあちこちに打ち身をこしらえていた。止まった時には息が詰まって、二度と空気を吸えないのではないかと思った。とうとう呼吸が整ったときには満身創痍、肺さえ縮み上がって痛かった。


あたり一面、真っ暗だ。手にした燭台の火が弱まり、再び盛り返したのに心底ほっとする。火は赤赤と燃え、ということは今すぐ窒息する危険はないのだろうが恐怖に心臓がどきどきした。見上げた先にはさっき入ってきた部屋の穴。 ラウラは周辺を歩き回った。すぐにここがラウラの足で十歩四方の、小さな部屋くらいの空間だとわかった。そして四方八方に、ちょうど人ひとりくらいが通れる程度の道がひたすら続いていた。


指にまとわりつくものがあり、顔に寄せればキラキラ輝いているのがわかった。魔石のかけらだ。いや、石の形をしていないほど細かなクズ石だった。


ユルカイアは魔石の産出によって成り立ってきた領土。つまりここはおそらく、古い坑道かなにかの名残りなのだろう。


「まさか城の中にまで伸びているとは思わなかった……」


まだ痛む背中をさすりながら呟いた。足を踏み出すとお尻がズキズキした。


ユルカイア城は崖際に建てられ、その地下は魔物が出る山脈に繋がっている、というのは御伽噺の一種としてラウラも知っていた。童話において勇者一行はユルカイア城の地下道をたどって魔王がいる北の地へ忍び込むのだ。


自分が物語の一部になったかのような高揚感が恐怖を上回った。ラウラはその時、少しばかり頭がおかしくなっていたのかもしれない。夫が結婚式の夜に寝床に来なかったなど、宮廷に知られればどれほど笑い物になるかわからないほどの恥である。その後も彼は魔物討伐を理由に城にさえ寄り付かなかった。ラウラが嫌われているのは明白だった。


(私がこんなことしてるって知ったら、みんなどう思うかしら?)


みんなとは誰のことだろう。宮廷の面々にとってラウラはすでに身持を崩した元皇女、嘲笑する対象であってもはや人間とみなされていない。貴族にとって人間とは貴族と皇族を指すから。ユルカイアの人々にとってラウラはクォート皇国から押し付けられた足枷であり、中央が辺境をどれほど軽く――まるでゴミ捨て場のように見ているかの証左である。ユルカイア人はきっと同じユルカイア人しか同輩とみなさないのだ。ラウラが受け入れられることは決してないに違いない。


そう。どこにも。ラウラが座っていられる場所など、この先ずっと、ないに違いない。


「うふふ、ふふ!」


ラウラは笑って指で石の壁を通り、ひとつの坑道を選んでふらりと足を踏み入れた。もうなんだってよかった。破れかぶれだった。 死にたいわけではなかったが、どこかへ行ってしまいたかった。どこかでたっぷり眠りたかった。誰も目を見て話してくれないのなら、もう放っておいてほしいのだ。起こさないでほしい。起こさないで。


そうして彷徨い歩く石の中は、存外、楽しく美しいものだった。縦横無尽とはこういうことを言うのだろう、急勾配と崖っぷちが立て続けになってまるで迷路のようだった。火は揺らぎ、蝋燭はどんどん短くなった。


巨石が段々になっているところを、さては階段かと足をかけたら崩れてしまって転げ落ちたり、それでまた打ち身を増やしたりした。手をついたところに欠けた石の切っ先があって指を切った。うねる髪の毛をまとめるバレッタが何かに絡め取られ、気づいたときにはほどけていた。髪が流れて鬱陶しい。


楽しかった。これほど楽しく、本能の赴くがままに何かを探求したことなど果たしてあっただろうか。新しい水の匂いがした。ラウラはそれを追った。乗っかったのはサラサラした砂が無限に出てくる白っぽい石で、もっとよく見ようと燭台を近づけた途端、フッと明かりが消えた。蝋燭が燃え尽きたのだった。


「あ」


我に返った。慌てて振り返っても部屋の穴の光は見えない。ここがどこかもわからなければ、帰り道など探せるはずもない。あるのはただ、徐々に大きくなっていた水の音ばかり。はじめはチロチロとしたせせらぎが、今はちゃららと川の流れのように聞こえる。 ラウラは無言で自分の頭に両手を当てて掻き毟った。数本の髪の毛が抜けて指に絡みつく。


「ばかっ、ばかっ。もう、何で」


と罵ったところで、今更どうしようもないのである。


ラウラは水の音の方へ進むことにした、燭台は置いていく。部屋着のスカートはあちこち破れている。切れ端をちぎり取って両手に巻いた。手が傷だらけで、いや身体じゅうが切り傷と打ち身だらけで痛むことに、ようやく気づいた。詰襟に息が詰まりボタンを外す。


「ああもう、ばかっ。そんなんだからタラが、」


ラウラは壁のように立ちはだかる石に額をつけて俯いた。


「タラが殺されたんじゃない……」


タラは清純な少女だった。愚かな皇女のもっと愚かな提案に乗ってしまうほどに。ラウラに目をつけられなければ彼女は死ななくてよかったし、彼女の家族もそうだった。


フォルテがよく言っていた、あの美しいしたり顔で。君がいいと思ってやったことはいつだって悪い結果に終わる。君が夢中になったものは大抵奪われるんだから、もう、何も。何も望まない方が。


「わかってる。私は何も好きにならない方がいいし、何かを欲しいと思うべきじゃない」


ラウラが自分で何かを選ぼうとすると、ひどいことになる。尼僧への道さえ血まみれで終わったのだ。何かに期待するのはやめよう、と思ったはずだった。尼僧にさえなればすべてのしがらみや過去から自由になり、みんなが彼女に目を向けなくなる、と思い込んだ。それがそもそもの間違いだった。


「何も望まない方がいい。その方がみんなに迷惑かけないですむ。わかってるわよ。わかってる。こんなところ来るべきじゃなかった。冒険心を出して、ばかみたい。結局こうなるってわかってたじゃない」


水の音が近くなっていた。ラウラは白い岩を撫でた。両手がサラサラになる。きっと真っ白だろう。なんなら全身似たようなものだろう。


死ぬかもしれないという考えが浮かび上がってくる。怯えも恐れもある。でも。


「仕方ないじゃない。そこまで思い切れないんだもの」


残念ながらいつだってこういう結論になるのだった。ラウラはただ死ぬのを待つだけの人生はいやだった。自分で選ばない道だけは、ラウラを見下す人たちに用意された道で死ぬことだけは、いやだったのだ。昔から。

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